序章
肌と骨肉が助けてくれと悲鳴をあげている。まるでそう思わせる冷気のはびこる雨天の昼時であった。
千葉県の海洋側に位置する工業地帯一区画にして、周囲の景色といえば、近隣となる埋め立て地に大型商業施設が建ち並び、その一方、郊外に入れば環境モデル都市と銘打たれる矛盾と凡庸さを兼ね備えた街並みがあった。
それも今は閑寂なる冬に染まる。しとしと、と降りしきる十二月初旬の灰空といえば、地表の気温を下げることやむ無く、それに伴い行き交う人々はやや身を丸くし苦笑いを交わす。
真逆にして、暖房の緩やかな風が隅々まで行き渡る三階建ての巨大社員食堂内からは、遅れて続々と入ってくる従業員の群れをガラス張り外壁越しから、和やかに眺望できるのだった。三百人規模の従業員を易々と収納できるため、利用の足が途絶えることはない。
清潔感に重きを置く白色の十人座り長机とパイプ椅子が整然と並ぶ中、同じ部署の女性社員のみでその一つを占有し、ではこれより昼食を楽しもうか、としている矢先で一人が箸を手に「あ」と声を上げた。
「どしたの?」
スカートスタイルのネイビースーツを、華麗に着こなしている別の女性社員が不思議そうに訊ねた。
「あれ」
「あれ?」
最初に声をあげた女性社員が行儀悪くも箸で指し示す方向は、来年は丑年ということで張り紙メニュー表の端で、可愛らしく駆けるネズミキャラクターが『ネズミうどん』をお勧めするそれも、もそろそろ役目を終えようとする配給カウンター前だった。
二人の男性社員が、トレイを手にして並んでいる。一人は、およそ年齢四十前後の中年太りを典型とした社員で、この天候の下であるというのに、ホワイトシャツの上からはアウターも着用していない。
もう一人は二十代後半といったところか、女性社員の箸の先端は、その若い男性社員へと向いている。
「太い方はよく見かけるんだけど、あの人は食堂で見たの初めてかも」
彼は、スーツパンツに合わせ空色の作業着を上着替わりに着用していた。作業着には、様々な電子部品の製造から出荷までを生業にし、利益を生む当企業のロゴが胸元に刺繍されている。社内既製品であるため、もちろんのこと身に付けた社員は、食堂内をザッと見渡しても同じようにいるが、そうであるのにも拘らず、つまり前述した彼だけが異色であると彼女は言いたいのだ。
「ていうかインパクトあるよね、あの人」
軽くおどける同僚に、別の一人が神妙な表情で声をひそめる。
「あの人『執行人』だよ。ほら」
「ああー……執行人ね。前任者があの件で異動しちゃったから」
「前任者? あの件? 何ですか、執行人って」
会話に参入したのは、向かいで疑問符を浮かべる別の若い女性社員だった。グレーのパンツスタイルスーツは、スレンダーなボディラインを惜しみもなく際立たせている。ヘアゴムの持参を失念してしまった彼女は、空いた手でマットカラーの長い頭髪を抑えながら、うどんをすすり始めた。
「知らないの? 雲の上っていえるエラーイ役員さんからの命を受けて仕事してる人」
「それさすがに大袈裟過ぎるでしょ。どんな特殊任務与えられてるのよ」
「え? あの人、特殊任務与えらているんですか? 産業スパイとかですか?」
控えめに驚き、蕎麦粉を使った灰色の『ネズミうどん』を箸から滑らせる。
「違う違う。確かにそんな顔してるけどね。そうじゃなくて、あれよ、あれ。なんだっけ? ほらほら」
「おらおら系? なんか厳めしい顔してるよねー。絶対に結婚できないわあの人。そんなあだ名付けられてもおかしくないわね、あれは」
「あー、彼女いなさそう。優しくなさそう。誠実じゃなさそう。家庭とか持てなさそう。部屋とか煙草臭そう。バリバリギャンブルに狂ってそう」
「ちょっと、言い過ぎだって。こんな人が多いところで。ほら、悪口なんか言ってると」
混み合う食堂では、大勢からなる社員の雑談や食事にともなう物音が充満しているだけに、多少の悪口は紛れてしまうもの。だが、指摘された彼女の顔色は、悪い方向へと変化した。
「やっば」
噂の的になっていた二人の男性社員が、真っ直ぐ近づいてくるのだ。聴こえていたのか、と五人組で食事をしていた彼女らはそれぞれの食事動作中で停止し、身構えた。
まさか、注意されるのか。
と思いきや、うどんをトレイに乗せた彼らは飄々とした面持ちで通り過ぎていった。
火急を逃れた彼女らは揃って表情に安堵を浮かべ、次に互いに目の色で咎める。
「コンプライアンスなんて、あの人らの得意分野でしょ。あんまり下手な悪口言ってたら、私らが執行されちゃうわよ」
「あー、もうちょっと爽やかなイケメンになら呼ばれてもいいんだけどなあ。でも、やっぱ結婚はしていないみたいだなあれは。指輪なかったもん」
懲りずにまだ続ける者もいる。
「でも、近くで見たらまあまあじゃないですか」
「悪くはないけど、女性ウケじゃないよあれは。呼ばれた人が言うにはさあ、もう威圧感ありいの、ちょっとした動作や表情の変化を細かく読まれえの、見透かしたような言葉のナイフでグサリと来るらしいよ」
「まじか。やっばあ」
うどんを咀嚼中の彼女が小首を傾げる。「呼ばれるって、どこにですか」
「涼香知らないの? 異動してきたばっかりだから一般職のことあんまり知らないか。あの人らはね」
その女性社員は間を空けて、皮肉気な笑みを浮かべてから続けた。
「労務部よ。労務部厚生課二係」
◆
足下から吹きさらす冷厳な乱れ巻き風が表情までもを凍らせる、二月は中旬の夜駆け。
安藤はじめが関わる窃盗団の一味が首尾よく逮捕されたらしい、との一報を誰に知られることなくつい今しがた受け、胸につかえる杞憂が薄れはするも、未だ勝利の祝杯と呼ぶには程遠い、差し当たり安息の一時であった。
あの男にだけは並々ならぬ因縁があるため、この手で直接引導を渡したいところでもあるが、それはさておき──前田晃大は、おのれの顔面を袈裟駆ける切創痕に触れていた。丑年ということで、サービスの牛たたき風前菜を咀嚼中のことだった。
休日ともなる大衆居酒屋は、訪れる道のりの外気が冷え込もうがなお繁盛しており、朱色の派手な暖簾を潜り抜けると、高くはない板張り天井から吊るされる燈籠の灯火色も然様、古き良き風情を呼ぶレトロ内装に伴い、饗膳を堪能する活気盛んな客らの談笑などに加えて威勢の良い店員の応答が飛び交う。
「それでだ、そうだな。勘違いしないで欲しいんだけどな、これは前田の業務には関わりはない話だから」
顔を突き合わせての献酬も、二年半ぶりとなる。以前の職場仲間同士であり、なまじ気が合う性格でもあるため積もる思い出話に耽って半刻、一方が頃合いとばかりにそう切り出した。
ちょっとした愚痴というところか。前田晃大も正式な受理がない限り、余計な首を突っ込む気はない。要するに、立場的な要素を含んでの意見を聞いておきたいくらいだろう。机下で開いていたスマートフォンを懐にしまい、諒察したとばかりにこれも切り傷が残る唇端を吊り上げ、次にはそこに燗酒が満たされた濃緑色の猪口を運ぶ。
「前田が、異動したときのことも参考にしたいんだよ」
一方、グラスジョッキの生ビールを空にして机面に置く顔肌も色白にして当世風に洒落こんだ髪型の優男は、一息ついてから本意でもなさそうな淡い笑みを彫り深い容貌にことさら取り繕って話し始めた。
「新年に入って部署異動したんだ。去年の十一月に部長から呼び出されて面談して、これから伸びる部署だから、期待してるから、経験を活かしてくれ、問題があったら改善してくれ、お前は適任だ、昇進も考慮してる、なんて分かりやすい発破をかけられてな。まあ、馬鹿みたいに乗せられたわけだよ。そりゃな、この時期じゃあ珍しい話じゃない」
「ああ、うちも一人、入れ替えがあったな。俺が教育係になっちまったんだよなあ」
「それ、その教育も絡んでるんだよ。まあ聞いてくれ」彼はぞんざいに手を上げて店員を呼びつけ、追加の生ビールを注文。それからこれみよがしに嘆息して続ける。「それでな、俺の場合は逆なんだよ。部署異動したら、俺の方が年齢上だろうが、勤務歴が長かろうが、関係なく業務を習う立場になるわけだろ。けれどな、俺も五月で三十、高卒から入ってるから社歴も十一年目で言ってしまえばだな、人生の三分の一をもう今の会社に置いているわけだ」
晃大はこれにも意中を汲んだとばかりに、顎を撫でて苦笑する。
「高卒の二十三とか四の若い奴らに教えてもらうってのも、まあ癪だけと仕方がないよ。後輩であってもやっぱり教育者に対しては、敬語も使ってんだけどな。一ヶ月も経ってそこそこ仕事を覚えたら、俺も長年、製造部署でやってきたからある程度ノウハウもあるし、部長から経験を活かせ、だなんて言われてるからには期待を裏切らないように頑張るわけだよ。ところが」
「要するにその頑張り対して、気に食わない連中がいると」
「まさにその通りだ。新規開発になる次期主戦力製品だって謳われてるものを製造してるから、みんな無駄にプライドが高くてね。異動してきたばかりのオッサンが、前からここで頑張ってる俺らのやり方に口出しすんな、みたいなことを言ってるのを小耳に挟んだわけ。協調性がないだとか、自己中心的だとか、いやそうじゃないだろ。違うんだよ。まあ、部長が他の部署から異動させて人員変更をしたがった理由もなんとなくわかるよ。製造部署の割に閉鎖的というか、いや違うな結束力は強いし、よくみんな働くし、それに真面目ではあるんだけど、ちょっと引っかかるんだよ。こうなんというか、仲が良すぎるというか」
「馴れ合いだと」
「それだな。最初は忙しい時期に異動してきてくれた、即戦力だ、って喜んではくれたけど、考え方に同調できなきゃ……本当の仲間じゃない、みたいな疎外感を与えてくるんだよなあ。いじめとかそんなんじゃないけど、どうもなあ。歳上としての俺の器が小さいのか」
「ちなみにその若い奴らの考え方ってのは、谷口とどう食い違う」
彼の視線は一点、左手薬指に嵌められたシルバーの指輪から動かない。口惜しげに言う。
「あいつらは効率優先主義なんだよ。それって製造なら理想だと思うだろう」
脈絡あっての批判的な口ぶりからして、元は製造部の晃大もおおよその想像はついた。
「前田。あいつらがやってるのは楽するための、しかも会社には無断でやってる効率化だ。だから許せないんだよ」
酒も進んだからか、彼は憤懣そのものを包み隠さず口にしていた。坊主頭のこめかみ部を掻く晃大としては立場的に明言しがたく、複雑な面持ちで相槌を挟むのみ。その様子に気づいたらしい彼が、さっと顔色を改めて言う。
「心配するなよ。何かあっても前田の世話にはならないように、証拠を見つけて内々で処理する。俺が提議して、全部片付けて、騒動になっても俺が収める。それで、前田の場合はどうだった。なかなか複雑なんだろう。最近、異動してきた人ってのも苦労してんじゃないか。変なあだ名をつけられるくらいだから」
「俺は慣れるのは早かったよ。今回入ってきたやつは、そうだなあ、明るくてやる気はある。課長の秘蔵っ子ってだけあって、能力的には申し分ない。ちょっと馴れ馴れしいけどな」
あとは、折れずに継続できるかどうかだ。