絵手紙セエブポイント
「それじゃ、お父さん。私帰るからね。何かあったら、すぐに電話してちょうだいよ?」
「あぁ、ありがとう。紗栄子も気を付けてな。」
後期高齢者に分類されるような喪服の男性は、年配の喪服の女性を作り笑いで見送った。
女性も彼の作り笑いには気付いていたが、それが優しさである事を知っていたので、何も言わずにドアを閉めた。
男性の名前は佐藤源三郎。
73歳、昭和26年生まれ、みずがめ座。細身で白髪、遠近両用眼鏡が手放せない。
娘は二人とも嫁いでいて、姉は隣県、妹の紗栄子は町内に住んでいる。
妻は49日前に亡くなり、午前中に忌明け法要が終わったところだった。
忌明けというが、源三郎にとって何かが変わる訳ではない。
妻は急に体調を崩し、2か月入院し、急変し、あっという間に死んだ。
楽観視していた源三郎にとっては、心の準備をする時間すらなかった。
医者の説明も、日々弱っていく妻の姿も、打ち覆いで顔を隠された妻の姿も、全てに現実味がなかった。
妻の死を受け入れられない源三郎は喪に服す事も無く、故に忌明けにも意味は無かった。
(………そうだった…)
源三郎は『お茶を入れてくれ』という言葉を発する前に、その願いを聞いてくれる相手がいない事を思い出し、言葉を発する事もなく独りで納得した。
彼はそのまま冷蔵庫へ向かうと、中から飲みかけのお茶を取った。それがいつ開封されたのかも憶えていない。ただ苦いだけの液体が、ただ口内を潤しただけだった。
居間へ向かう。
娘によって久しぶりに開けられたカーテンは、タッセルで綺麗に纏められている。
梅雨の鉛鈍い光がテーブルの上の薄埃を際立たせ、そこに置かれた小振りの紙袋を更に際立たせた。
源三郎が紙袋の中身を確認すると、そこには小さなアルバムのようなものが1冊入っていた。
(…手紙…ホルダー?)
そのアルバムは大切にされていたのか、多少の年季は感じられたが綺麗だった。
源三郎は、これを置いて行った娘の言葉を思い出す。
『これ、お母さんから渡してって言われてたもの…病室でも嬉しそうに眺めていたのよ』
源三郎はアルバムを開けてみた。
中には透明なポケット状のページが二十程続いており、その最後には妻の写真が収められていた。
それは入院初日、何かを予見した妻が娘に撮らせた写真の、その一枚だった。何パターンか撮影して印刷してもらい、確認した妻が納得した、最後の良作の写真だった。そしてその後、妻の希望で遺影に使われた写真だった。
遺影と違い、血色の良い妻の笑顔は、本当に美しかった。
源三郎は喉の下辺りに違和感を感じた。しかし手を当ててみても、何も変わった所は無かった。
源三郎は他のページを捲ってみた。しかし他には何も入っていない。
ただページの下に白いシールのラベルが張られており、そこに「2002.8.3」など日付が書いてあった。
妻の写真を見ると、そこにも「2024.2.18」と書かれていた。それはこの写真を撮った日付だった。
ページを捲り写真の裏を確認すると、そこには妻の几帳面な小さな文字が並んでいた。
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2024.2.18
源三郎 さんへ
これを読んでいるのなら、今は49日が明けたという事でしょう。
きっとあなたは ぼう然としていると思います。
ちゃんと御飯は食べてますか?
紗栄子は とついだ身なのですから、頼ってばかりではダメですよ。
高血圧なのですから、インスタントは ひかえてくださいね。
そうじも洗たくも、自分で出来るようになってくださいね。
お酒もほどほどに
あと、さびしくなったら 絵手紙を 探してみてください。
きちんと家事をしていると、見つけられると思います。
全部で18枚あります。
あなたは探し物をすると ちらかすので、ちゃんと片付けもしてくださいね。
ーーー
源三郎はふと思い出した。
趣味らしい趣味の無い妻だったが、不思議な事に旅先で絵はがきを購入しては、何かを書いて現地で投函していたのだ。『一体誰に送っているんだ?』と疑問に思った事があったが、宛先を見せてもらったら自宅になっていた。
「それでは葉書の意味が無いだろう。写真じゃ駄目なのか?」
「これは大切な思い出なの!セエブポイントなの!」
この時は変な言葉で煙に巻かれてしまったが、別段に金の掛かる趣味でもないので気にも留めなかった。
「紗栄子、セエブポイントってなんだ?」
その夜、源三郎はセエブポイントが何か気になって、紗栄子に電話を掛けてみた。
『せ?え?もう一回お願い、突然で聞き取れなかったわ。』
源三郎は紗栄子に妻の思い出を伝え、どうしても気になっている事を伝えた。
紗栄子は何かを思いついたのか、暫く保留にすると孫の敏行に電話を替わった。
『どうしたの、お爺ちゃん?』
もう高校生になる敏行の声は変声期を過ぎ太くなっていたが、それでもかわいい孫の声だった。
「トシ君、元気だったか?何だか婆ちゃんがセエブポイントって言ってたのを思い出して、気になって仕方なかったんだ。知ってたら教えてくれないか?」
敏行は小さく唸っていたが、何かを思い出したのか明るい声を出した。
「そういえば小学校の頃、お婆ちゃんとゲームしてた時に、セーブポイントって話をしたよ!」
「それは、どんな話だったんだい?」
「多分だけどゲームの説明をしてる時に『こんなに長いお話だと、途中で疲れてしまうわ』とか言ったんで、俺が『それじゃ、ここのセーブポイントで記録を残せば大丈夫だよ』って話をしたんだ。そしたら婆ちゃんが『セエブポイントって便利なのね』とか笑ってたのを思い出したよ。」
「そうかそうか、ありがとう。今度遊びに来たら、小遣いをやるからなぁ。」
源三郎は頭のモヤモヤが少し晴れたように感じ、久しぶりに高い声を出した。
源三郎は料理に挑戦してみた。
別に妻の写真に感化されたのではなく、あまり紗栄子に気を遣わせるのも悪いと思ったからだった。
冷蔵庫の中身を見ると紗栄子が入れてくれたのか、炒め用の野菜セットとウインナーが目に入った。
コンロの前に塩と胡椒はあったが、他の調味料が見つからない。源三郎がふとコンロの下の戸棚を開いてみると、そこには醤油や料理酒などの調味料のボトルが並んでいた。
悪戦苦闘の末、醬油と酢と水で味を調えると、野菜スープが完成した。決して美味いとは言えないが、食えないわけではなかった。
源三郎が食事を終え、コンロ周りを片付けている時だった。
コンロ下に調味料を戻そうとしたとき、そこに薄いビニール袋が隠されていたのだ。
彼はそれを手に取り、蛍光灯の下に晒してみた。それは絵手紙だった。
裏面には山と温泉街の景色、表には自宅の住所と妻の文字が並んでいた。
ーーー
2010.11.15 和歌山県 湯の峰温泉
紗栄子が とついで、二人になったので旅行。
源三郎さんカンレキの前祝い。
川から湯気がでてて ビックリ!
湯筒で温泉卵を作る、源三郎さん5コ、私3コ。
旅館の夕食を残してしまった、ゴメンナサイ。
二人で家族風呂。新婚に戻ったようで うれしい。
ーーー
途端、源三郎の目の前に湯の峰温泉が現れた。
山が迫るような渓谷。
緩い傾斜の坂道。
もうもうと湯気が立ち上る川。
川向こうに並ぶ歴史ある温泉旅館。
首元を通り過ぎる硫黄の匂い。
一段下の河原にある湯筒。
塩を忘れたけど、美味しかった温泉卵。
奮発して頼んだ、テーブルいっぱいの料理。
妻からのサプライズプレゼント。
赤のワンポイントが入った、黒い毛糸の手編みの帽子。
予約なしでも使えた家族風呂。
少し肌寒かったが、並んで入った湯舟。
十数年か振りのキス。
気が付けば、源三郎は絵手紙を抱きしめ、床に跪き、大粒の涙を零しながら泣いていた。
そして今更ながらに、妻が死んでから泣いていなかった事に気が付いた。
源三郎は、やっと妻の死を受け入れられた。
布団から起き出した源三郎は、泣き疲れていたが、とても気分が良かった。
呆然と部屋を見回す。昨日まで気付かなかったが、部屋は相当に荒れていた。
「…いけない、これは怒られるな…」
彼は聞いてくれる相手が居ない事を承知で、あえて反省の言葉を口に出した。そしてすぐに窓を開け、布団を畳んで押し入れに終い、掃除機をかけた。
押し入れにも絵手紙があった。彼は一瞬泣きそうになったが、すぐに立ち直った。
「年のせいかな?どうも、涙もろくていけないな。」
その笑顔は作り物ではなく、妻に向けられていたものと同じだった。
源三郎が妻が入院する前の生活に戻るのに、一週間も必要なかった。
洗濯、トイレ掃除、風呂掃除と何か新しい事をすれば、不思議に絵手紙が出てくるのだ。彼の手を止めるものも、その必要もなかった。
出てきた絵手紙は、あの手紙ホルダーに収納した。すでに14枚。あと4枚だ。
源三郎は嬉しそうに笑いながら、絵手紙の一枚を眺めていた。
「そうそう、そうだった。この時は電車が遅れて、タクシーを使ったんだった。」
妻のむくれた顔が鮮明に浮かぶ。そして多分、こう言うのだろう。
『だから、もうちょっと予定に余裕を持てばよかったのよ。』
「そうだね、けど時間には間に合ったから、良かったじゃないか。」
『けど余計な出費だったわ!来月のお小遣いから引くからね!』
「それは困った!来月の君の誕生日プレゼントの、ランクを落とさなければいけないな!」
『いじわるッ!』
そうして妻のむくれ顔は、期待に満ちた笑顔に変わるのだ。
源三郎の妻は、もういない。
けれど、彼女はここにいる。こうして笑う事も出来る。
彼女は絵手紙を通して、彼の記憶を微に入り細に入り、その姿を鮮明に掘り起こす。
彼女の遺した絵手紙は、二人のセーブポイントになった。