60.非情の書状
文治2年(1186年)5月、和泉の国(現在の大阪府南部)に隠れていた叔父の源行家が討ち取られた。
さらに、義経の四天王と呼ばれた佐藤忠信、伊勢義盛も捕まって殺されたとの報が伝わってきた。
これで、義経の四天王はサカナちゃんと弁慶を残すのみとなったわけだ。
その義経は、全国を転々と逃げ回った。
各地の武士が荒れまくって、その不法行為を権力が貴族社会から武家政権に移ることにかこつけて正当化したので、ボクはその対策に忙殺されていた。
その機に乗じて、後白河法皇は次々と手を打ってきた。
ボクが、日本全国を武士が治められるように配置していったのが守護と地頭だったんだけど、その配置を邪魔してきたんだ。
でも、義経が各地を転々と逃げ回るせいで、義経が逃げた地域には守護と地頭を置くことが出来た。
何せ鎌倉幕府の敵で、院宣も出ているから朝敵でもある。
そんな輩を捕まえるためには、ボクの配下をしっかり配置しないといけないから。
配置した者たちには、無理して義経を捕まえなくてよい旨を伝えてあった。
そんなわけで、義経は1年以上も逃避行を続けて疲れたんだろう。
文治3年(1187年)9月に、奥州藤原氏のもとに身を寄せたようだ。
戦の天才と言ってもいい義経が身を寄せたことで、藤原秀衡は、義経を奥州の将軍にして鎌倉幕府に対抗しようとしたみたいだ。
でも秀衡は、文治3年(1187年)10月に病没した。
長男の国衡ではなく、次男だけど正室の子の泰衡が跡を継いだ。
藤原秀衡は、二人の息子が義経を主君として盛り立てる気持ちで奥州を収めるように遺言を残したらしい。
奥州は豊かだ。
その強力な領地を治めるのに、跡目争いの火種を残して死んでしまったようなものだ。
当然鎌倉幕府内では、朝敵である義経を匿っている奥州を攻撃せよという意見が台頭してきた。
ボクは、跡目争いで自滅するのを待った方が良いと諫めたんだけど、急進派はそんな起こるかどうか分からない争いなど待っていられないと騒ぎ出した。
ちょうどその頃、検非違使の義経がいなくなって京都の治安が乱れているとの相談の手紙が後白河法皇から届いた。
ボクは、急進派の武士たちを京都の治安回復のためと称して、京都に送り込んだ。
これでひとまず鎌倉は静かになった。
守護と地頭を全国に配置しまくって、好き放題やる武士たちも大部抑え込むことが出来た。
義経も奥州藤原氏の平泉にいることが分かった。
やっと、平和が戻ってきた気がした。
冬になって、椿の花が咲き誇る。
少し前にボクの命で、三浦半島の先っちょの方に三つの御所を建てた。
それぞれに季節の花が咲き乱れるようにしてあって、それぞれ「桃の御所」、「桜の御所」、「椿の御所」と呼ばれている。
その「椿の御所」に、亀の前、こと八重さんを住まわせている。
椿の花の季節になったので、椿の花見と称してボクは「椿の御所」にやって来た。
「ヨリトモ様。お久しゅうございます」
「うん。そんなに頻繁には来れないからね。
亀の前、いや八重さん。元気だった?」
「はい。おかげさまで。
ヨリトモ様こそ、お元気でしたか?
風のうわさで、弟君が奥州に行って大変なことになっているとお聞きしましたが」
「うん。まあ傍目には大変かもしれないけど、やっと平和になったっていうのがボクの実感かな」
「でも、近所の人たちは奥州藤原氏が攻めてくるんじゃないかって心配しておられましたよ」
「平家を滅ぼした義経が身を寄せているから、たとえ小さな軍勢ででも鎌倉幕府に大打撃を与えられるという噂は、ボクも耳にしたよ。
でも、大丈夫なんだ」
「どうしてですか?
弟だから、ヨリトモ様を攻めたりはしないと?」
「いや。平家や朝廷は、それ自体が巨大な組織で、その大きさがすなわち強さの源なんだ。
でも、鎌倉幕府は違う。
幕府とか、ボクの率いる軍はとても小さい。
ただ、幕府に従う強力な御家人たちが、それぞれ強いんだ。
たとえ奥州に面した所にいる御家人を一人や二人倒したって、何の意味もない」
「でも義経様は、奇襲が得意なのでしょう?
突然、鎌倉とか三浦とかを攻めてこられたら怖いですわ」
「大軍を動かせば、こちらも大軍で迎え撃つ。
小さな軍勢で攻めようとするなら、距離が遠すぎる。
鎌倉を奇襲するためには、ほんの数名で攻めてこないといけない。
数名では、大したことは出来ないよ」
そう言いながら、ボクはサカナちゃんのことを思い浮かべていた。
彼女なら、一人で鎌倉まで来てボクを殺して去っていくことも可能かもしれない。
でも、今は無理だろうな。
モリちゃんたちが、忍者対策もしっかりやっていたから。
最後にサカナちゃんに会ってから、もう1年以上も姿を見ない。
きっと、忍者対策の囲みを破れないんだろう。
厳しい世情の話はそれくらいにして、二人でお酒を飲みながら椿の花見をした。
心がほぐれていく気分だった。
心がほぐれたボクは、鎌倉に帰ると後白河法皇に手紙を書いた。
中身は、2つのことが書かれている。
ひとつめは、ボクは亡き母のために五重の塔を造営しようとしていることと、今年が厄年なので殺生はしない。
だから、ボクは戦をしないという内容。
ふたつめは、藤原泰衡に対して、義経追討の院宣を出すことを要求する内容だ。
藤原秀衡は、義経のことが大好きだったみたいだ。
だから、ボクが平家と戦うために蜂起した時、すごく引き留めたらしい。
色々あって、朝敵となっても平泉に受け入れたのも、大好きだったからだろう。
でも、息子の泰衡もそうとは限らない。
というか、実の息子たちよりも義経を可愛がっていたとか聞くし、奥州藤原氏のエース格である佐藤三兄弟をお供につけたり、多分息子たちは嫉妬していたんじゃないだろうか。
いくら父の遺言で義経と一緒に国を治めていけと言われても、納得いかない部分はきっとあるはずだ。
そこを突くための策だ。
自分で手をくださないだけチョット汚い手だとは思うけど、泰衡と義経がもめていれば、鎌倉は安全だ。
心を鬼にして書いた文書を受け取った法皇は、ボクの望み通り平泉に圧力をかけてくれた。




