セクション2
私たちが「いつもの場所」と呼んでいるのは、実験棟の屋上である。何年か前、ここから飛び降りた女生徒がいて、それから数年後に彼女の弟も投身自殺したといういわくがあって、普段は閉鎖されている。
そういう背景もあったから、「まったくお誂え向きだわ」と鼻息を荒くした亮子は、なぜか立ち入り禁止になっているはずの屋上のカギを持っているのだった。入手ルートはいまだに教えてもらっていない。
葵里は空を見あげて、すんと鼻を鳴らした。梅雨の入りではあったが、じめじめとしているもののまだ本格的な雨にはならないようである。
校門のほうから生徒たちの下校の声を聞きながら、亮子は口を開いた。
「あたしが聞いたのは、西潟中の三年生から。学校の裏に小さな山があるでしょう」
西潟中は、紫崎中と同じ斎河市にある中学校だ。斎河市を東西に分けたとき、東のいわゆる都会部が紫崎、西の田舎部が西潟になり、中学同士も二校親善大会なんか以外ではあまり交流がない。
「あいかわらずの行動力……。中学生に突撃してオカルト収集なんて、どう見ても不審者」
「そら亮子やもん。その面の皮は、M16の狙撃すら通さへんねん」
「ほほほ、鉄面皮の女と呼んで」
得意げに小さい胸を張る彼女に、葵里はぽつりと「え。それ、たぶん褒め言葉じゃないよ」と洩らす。
「だ……脱線脱線。話戻すわよ。……で、その子たちが言うには、どんな願いでも叶えてくれる神様がいるらしいのね」
「ふーん……」
「なにそのあからさまに信じてない目! 縁結びだったり、テストのヤマだったり、臨時収入だったり……願ったものが確実に叶ってるらしいのよ。その噂、持ちきりよ?」
「ほぉ。そりゃえらい景気のええ神様やなぁ。じつに太っ腹や。あのへんの山いうたら、正体はずばりタヌキやろ」
神頼みの内容も、じつに中学生っぽいなぁとつい三ヵ月前まで現役だったにもかかわらず、その幼さに微笑ましさを感じた。
「茶化さないでくれる? ここが大事なんだから」
亮子がもったいぶったように指を立てる。
「ただしね。――身の丈に合ったお願いじゃないとだめみたい」
「身の丈?」
「たとえば、あんたが明日にでもオスカー女優になれるとか、そういう誰が聞いても非常識なのは無理ってこと」
「なるほど。それじゃあ、亮子が芥川賞をとることも一生ないわけか」
「え! 一生まで確約されちゃうの? 超残酷! 神様キビシイ」
「ひとの話は最後まで聞け。だからね……、縁結びだったら、あるていど親しい間柄であることが暗黙の前提。なにしろ神社によっては、縁結びのお守りを買うとね、二個セットでくれるところもあるのよ、買ったことないけど。意味わかんない。あげる相手がいるくらいだったら神頼みなんかしないわよね、いや買ったことないけど」
……なんで二回言った?
「テストだったら、やっぱり最低限は勉強してなくちゃいけないみたいね。たとえば選択問題で、AだったかなCだったかな、って迷ってて、思いきってAに賭けてみたら当たってた、みたいな」
「……亮子」
私たちはお互い神妙に目配せして、そっと彼女を引きとめた。
「それ、偶然って言うんじゃ……」
しかし亮子は、そんな反論なんて勿の論みたいな顔して、ふふんと自信満々に鼻を鳴らすのだった。
「偶然というのは、『偶々』と書くのよ。そうそう連続してたまるか。少なくともそこのクラスでは、ヌマカケ様の評判はうなぎのぼりみたいだったわ」
「……たまたま連続しただけかもよぉ」
葵里のつぶやきはまたしてもスルーされる。
「なんて言った?」
「ヌマカケ様」
「間の抜けた名前やな」
「神様っていうか仏様、なのかな。お地蔵様」
「お地蔵さん? ますますわけがわからん」
「そのお地蔵さまにお願いすると、願いが叶うの?」
「みたいね」
「……ふーん」
私は首をかしげた。
なんだか。
さっぱり形のつかめない話だ。
出所は、少女たちのうわさ話だという。
こそこそと人目を忍んで交わされる秘密事。あたりを見まわして、そっと息をつくように額を寄せ合い、あどけない顔を紅潮させながら、くちびるを湿らせてささやくは、テレビドラマ、アイドルの話題にはじまり、ささやかな恋のあこがれやテストのこと。遠い架空から、身近で現実的な内容まで。
そんな合間にはさまれる誰かの問題。悩み、不安。共感を求め、同意を得、そうして自身の存在を確認する。
どうにかしたいとき。どうにもならないとき。それが周囲の友だちや家族に言えたり言えなかったりは関係なく、大きなことでも小さなことでも関係なく。
甘えるように、すがるように。ちょっとしたきっかけを与えてくれる、そういうのに頼ってみたいときがある。
星座や血液型占いなんかもそう。神頼みなんかもそうだろう。困ったときの、というやつだ。
いつだって少女は迷うものだ。そして惑うものだ。それも、きっと楽しめる。だからこそ、思春期の少女というのは輝いて見えるのだろう。
それは、おまじないのようなものなのかもしれない。とてもお手軽な不思議。簡単な願望。宝くじを買うように――当たったらうれしいけれど、当たらない可能性のほうがずっと高いという前提で。
ひとは神頼みをする。
「それがどうしたの?」
亮子はあきれたような顔で私を見た。
「試してみようとか思わないわけ?」
「……は? なんで」
亮子の眉がぴくりとふるえた。それからあわれむような目で、手ぶりをまじえてアピールする。
「舞子。あんたにはもうちょっとこう、貪欲な好奇心みたいなものはないわけ?」
そういったわけのわからないようなものに反応する愚かな好奇心は、あいにくと持ち合わせていない。
「東に不思議あれば行って見事と驚嘆し、西に怪奇あればじっくり味わって堪能し、北の謎が深まれば率先してその渦に身を投じ、南の心霊には心から熱き抱擁を交わせと、我が団訓にあるじゃない」
「初めて聞いたわよ」
「初めて言ったもの」
「次も言えるとエエな」
「と・も・か・く、あたしは見てみたいの」
「なにを? お地蔵さま?」
亮子は目を細め、ふっと笑った。
「なにが願いを叶えるか、よ」
なにが、というのは彼女の場合、目に見えない存在を指しているのだということは、この場にいる全員には充分わかった。
これは御影亮子の、一種の病気なのだ。
この集まりに『斎河高校探偵団女子部』というおかしな名前をつけたのは、他でもなく私であるが、それは私が小学生のころに夢中になった、江戸川乱歩の少年探偵団からの着想であるのは、わざわざ自明することでもない。
ああいう胸躍る冒険がしたい、という願望がずっとあった。そしてこの斎河高校に入学して、同じクラスになった同級生がおかしなことを考えているのを知るにいたる。
――実録百物語を書きたい。
それも実体験でなければならないのだという。だから、進んで怖い目に遭いに行きたいらしい。もちろんドン引きである。
でもそんな情熱が、どこかうらやましいと思った。その話をする亮子は、いつもとても輝いていたから。
オカルトマニアの中二病の例に洩れず、――視えるらしい。
視える、というのは、いわゆるこの世ならざるものであるのだが、視えない私にしてみたら真偽のほどは疑わしい。虚言とまではいかないが、彼女の語る話はたいがい誇張されているからだ。きっと体が小さいので、話だけでも大きく見せたいのだろう。
――霊はいる。そこにも、あそこにも。だって視えるから。
さらに彼女の言い分は、こうである。
――そこにいるのだから、見えないのはかわいそうだ。
見えないものは見えるようにしてやらなければならない、などとカッコイイことを言ったりするのだった。
そういったものに関して、私は中立的な立場をとっている。端的に言うなら、雑誌の占いページと同じ扱いだ。都合がいいものだけを信じる。
ところが亮子は、頭ごなしにすべてを肯定してしまうところがある。しかも、そういった話題が大好物だ。毎月よくネタが尽きないものだと感心するぐらい超常現象的な雑誌を定期購読しているし、毎年夏に出る心霊スポットの紹介的な冊子も網羅していた。重度なのである。
なにより問題なのが、それを周囲に押しつけてくることだ。すなわち、私たちに、なのだが。
そんな彼女もさることながら、その反面で私は――
ずっと「特別」な存在であろうと思い込んでいた。けれどもあまりに自分が「普通である」と気づいた瞬間、どうしようもない虚しさに襲われた。
これまで勉強も運動もすべて平均で、なにかの才能に恵まれていると実感することもないまま生きてきて、なのにまだどこかで「自分は他人とは違う」という思い込みを抱えている。
けれどもそれで、亮子のように中二病を発症することがなかったのは、それが自分の虚しさに拍車をかけるものだとわかっていたからだ。
だから私は、正直に言ってしまえば、亮子のままごとに付き合うのが、自分が痛い子認定されないで、自分が他人とは違う特別な存在と思いこめる体験ができると思っていた。
つまり、卑怯なのである。
「ンなもんおらへん」
環が即座に否定した。
彼女はオカルト否定派だ。それはしかし、彼女の願望からきている。
「偶然が重なっただけ。もしくは、都合のいいものだけを都合よく見てるだけに決まっとる」
「いつも言ってるけどね、環。無いって言うのはなんだって簡単なのよ」
こういうときの亮子は、女の私から見ても惚れ惚れするほど極上の笑みをつくるのだ。
「でもそれは、無いことの証明にはならない」
「水掛け論やな。在ることの証明にもならへん。無いもんを在る言い張るんわ詐欺やで」
「でも、在るものを無いと言うのは虚偽だわ」
「だから水掛け論や言うとんねん」
「だから確認しましょう、っつってんの」
ふたりは同時に言って、なんとも言えず顔を見合わせた。
渋い表情をした環が視線を落とす。
「……お断りや」
「はじまった。ノミの心臓め」
ふふんと、得意げに亮子が罵った。
ノミの心臓と揶揄するのは、体も態度も大きな環が、亮子の得意とする心霊系の話が大の苦手なことに由来する。ちなみに環の携帯電話の着信音は、『おばけなんかないさ』だ。
「ふ、ふん。なんとでも言うたらええねん。君子危うきに近寄らずや」
環は立ち上がり、校内に戻っていこうとする。
「あら。危うきなんて……、なんにもないんじゃなかったの?」
「あほか。好奇心猫殺す言うんや」
亮子の性格は、たしかにネコ科を思わせる。それも、とびっきり性格の悪いタイプだ。
「あ。たまちゃん待って。わたしも帰るよ」
葵里があわててあとを追いかける。
二人が行ってしまってから、私は少し迷いながら、すずしい顔で遠くを見ている亮子に声をかけた。
「本当なの……?」
「なにが」
ふり返らないで彼女が聞き返してくる。
都合のいい話だ。その地蔵にお願いすれば、願いを叶えてもらえるという。
そんなことでいいなら、誰だってお願いしたくなる。だって、身の丈に合っていればいいのだろう。それは身のほどをわきまえて望めば、すべて認められるのか。
「なんか、気前良くない? そんなんで願いごと叶えてくれるなんてさ」
ゆっくり亮子がふり返る。
「そんなわけないでしょう。なんだって代償が必要なのよ」
「……代償?」
その目を見れなかった。
「あったりまえじゃない。タダでお願い聞くほどお人好しなんていないわよ。どんな慈善事業よ? 当然、対価が必要になる。お賽銭だってお供えだって、そういうもんでしょう。できる範囲で、可能な分だけ用意する。だから、身の丈に合った願いごとなんでしょう」
――あなたは神を信じますか?
さっきのキャッチセールスの話で、ちょっと思い出した。
神さまは代償を求めるのかと。お布施に浄財、貢物。捧げものも生贄も。なんでもいいけど。
ずいぶん俗っぽいなと思った。そういうものがないといけないらしい。
(そういう形をした「気持ち」なのよ)
て、まえに姉さんが言ってたっけ。
その気持ちは、誰に対してだろう。
お地蔵さんのお供えはお団子のイメージだ。私は和菓子屋を提案した。




