『こんにちは、ノムーラはん』外伝~将門公、新コロ退治の巻
コロコロとやかましい世の中ですが、そんな空虚な騒動のさなかにあっても変わらないのが株の世界でございます。やれ何十年ぶりの高値だ、乗り遅れるなってんで、ニワカ衆がわれ先にと飛びつくものですから、イナゴタワーが板のあちこちに立ちまして、さらに、タンスから株投資へ、などと、したり顔のへっぽこ評論家が煽りにあおりますので、しまいには、エプロン着けた奥さまが、買い物ついでに株屋へお寄りになって「ちょいと。そこの株、包んでもらえるかしら」なんて。いや、いまはインターネットの世界ですからまあ、ネットサーフィンのついでにちょちょいとクリックしてご注文されるわけですが、そんな盛況な業界にありながら、異なる時間と申しますか、この世ならぬのんびりと呆けた時間が流れているのがここ、ノムーラの世界でございまして、いつものようにせっせと株を商っております。
「こんにちは、ノムーラはん。きょうはどうでっか」
「モルーカスはん、こんにちは。ぼちぼちやな。けど、売りばっかやでぇ」
「こんだけイナゴタワーが立ってますと、そら、空売りしとうなりますわな」
「それでも上げトレンドやから、みな焼かれてるわ。どこもタワーインフェルノや」
「あんな高い所やと救出もムツカシぃし。気の毒なりますな」
などとロボが入れてくれたお茶をすすりながら、縁台にすわってダベりはじめました。まだ肌寒い折ではありますが、ほこらの横から梅の小さな花びらがひらひらと舞って、春を感じさせる日差しのなかへ降りてまいります。
「のどかでんな。ほな、わては巡回、行ってきますさかい」
と腰をあげかけたモルーカスの前に、ぬっと大きな影が立ち塞がりました。わ、と驚いて縁台にふたたび腰を落としますと、しずかな声が降りそそいできました。
「おい、おぬしら。新コロ退治にまいるぞ。したくせい」
「え」
見あげるとそこには、だれあろう、平将門その人がすっくと立っておりました。三大怨霊の一柱の祟り神として、また、首都の守り神として名高い将門公が、なぜこんなところにいるのか。その辺の事情は『こんにちは、ノムーラはん』外伝の《夏のホラー兜駅奇譚平将門》と《将門さんの首さがし》をお読みいただくとして、さて将門公は「行くぞ」と言うが早いか、すたこら行ってしまいます。したくもなにもあったものではありません。
「あ。待ってぇな。どこ行かはるんや」
「たしか、新コロ退治って言わはりましたな」
「あんなんウイルスやろ。どないして退治すんの」
「新コロヶ島にでも行くんちゃいまっか」
「へ? そんな島、あるの。どこ~」
「しゃれでんがな。聞いたことありまへんわ、新コロヶ島なんて」
そのとき、前をスタスタ歩いていた将門公が、足を止めてふり返ります。
「なに。新コロヶ島だと。その島はどこだ。案内せい!」
そう言うが早いか、またすたこらと行ってしまうものですから、二人はあわてて後を追います。しかし将門公もどこへ行ったらいいのか見当もついていません。足の持って行き先に戸惑ううちに二人が追いついて、三人が車座になって会議が始まりました。
「新コロヶ島とやら、早う案内いたせ」
「そんな島、ありまへん。わての出まかせですわ。すんまへん」
「なに! いや、そんなことはあるまい。名があれば実があるもの」
「しゃれでんがな。ゆるしたってぇな」
「いや、勘弁ならん。案内せえ」
「そもそも、どないしはったんですか。いきなり新コロ退治て」
「民が難儀しておる。新コロとやら、悪辣至極の輩ゆえ退治するのじゃ」
「正義はけっこうだすけど、相手はウイルスでっせ」
「何者か知らぬが面前に引き出せば、いかようにも成敗してくれるわ」
これは話が通じないとノムーラもモルーカスも顔を見合わせ、どうしたものかと思案に暮れます。その間にもギロリと将門公がにらんでおりますので、金縛りに遭った如く身動きもかないません。大の男が三人、緊張状態で往来に佇んでいるものですから、通りがかった人は変な空気を察知して遠巻きに一瞥し、くわばらくわばら触らぬ神に祟りなしなどと言いながら足早に去って行きます。ところが、なかには空気を読まない御仁がおりまして、お噺の世界で言うところのハつぁん熊さんですな。三人寄っているところをなにか面白いものでも囲んでいると見えたんでしょう、つかつかと歩み寄って来るや
「よ! どぅした。おもしれえ見世物でもあるかい」
と、ひょいと三人の囲いのなかへ顔を突き出したものですから、ノムーラとモルーカスはびっくりして飛び退きましたが、将門公はさすが新皇を名乗っただけあって肝が据わっています。すこしも動じず、ギロリと眼を向けました。
「そのほう、新コロヶ島を存じておるか」
「え。なんでぇ。藪から棒に」
どちらが藪から棒かわかりませんが、将門の強面に面食らいながらも、そこはハつぁん熊さんですからへこたれません、負けません。知ったかぶりを発揮して答えようとしますから厄介です。
「新コロってぇと、あれだろ。新コロだぁな」
「ほう。おまえは東国の言葉か」
「おう。神田の生まれよ。おれっちは代々、置屋を生業として」
「そんなことはよい。新コロヶ島へ案内せよ」
「いや、だからよ。新コロの島な。おうとも、知らいでか」
「どこだ。近いのか、遠いのか。案内せい」
「ちょいと待ちねぇ。知っちゃあいるがよ。その、念のために確認を」
とその男、通りすがりの者で名を熊八といい、なんだやっぱり熊さん八つあんの世界じゃねえかと見まわすと、そこは江戸の風情がただよう長屋の往来で、井戸端ではおかみさんたちが洗いものをしながらわいわいやっています。熊八は勝手知ったようすで奥へと進んでいきます。将門はすたすたと、ノムーラとモルーカスはおっかなびっくり後についていきます。
「ここ、どこでっしゃろ」
「神田の辺りやないか」
「いや、そういうことやのうて」
「それよりあいつ。新コロヶ島知ってる言うたでぇ」
「わてのでまかせやのに。なんで知ってるなんて」
「あいつもでまかせ言うたんや。知ったかぶりやな」
「いまのうちに逃げまひょ。めんどうはごめんやわ」
「逃げるて、どこへ」
「ここ、江戸時代でっしゃろ。わてらの時代へ逃げるんだす」
「どうやって」
「どうやってて。え~。どないしたらええんだす?」
「あいつが現れてこないなったんやから、あいつがキーやな」
「あの、熊八でっか」
「せや。あいつから離れたら、帰れんようなるで」
「ええ~ かなんな」
二人がこそこそと話している間に熊八は奥まった家の前に立ち、「おう、ごめんよ。ご隠居、居るかい」と言うなり、障子の戸をがらりと開けます。
「なんですか、騒々しい。お、熊八じゃないか。ちょうどいい。おまえ、先月の店賃が」
「そんなこたあ、どうでもようがす。ご隠居、ちょっと聞きてえんだが」
「ふむ。珍しいな。おまえがものを尋ねたいとは。なんだ、聞きたいってのは」
「ほかでもねえ。その、なんだっけ。おう、なんて島だっけ」
「新コロヶ島だ」これは戸口に立った将門が答えました。
「そう、その新コロてやつの島なんだが。おいら知っちゃいるんだけど念のためご隠居に確認を」
「え、なんだって、『しんころ』。ああ、新古路かい。真古路っていやぁ、あれだな」
「お、知ってなさるかい。さすが物知り、いよ!ご隠居。頼りになるねえ」
「ぶほん。まあ、わしくらいになれば、知らないことはないでな」
「で、どこですかい。新コロヶ島は」
「おまえ、知ってるって言ったな。なら、おまえが先にお言い。答え合わせをしてやろう」
「いや、おれのなんざたいしたこたあねえから、ご隠居のを先に」
「え。しょうがねえなあ。新古炉だろ。新小炉て言やあ新小路だあな」
「そこへ行きてえって、言いなさるんで。あっちの御仁が」
「ほう。そこのお方、こちらへ、お入りなさい。で、何しに行きなさるのかな」
ここで将門はずいと土間に入って来てギロリと隠居に眼をやり、じれったそうに早口にまくしたてるのでした。
「新コロ退治である。わからぬのか、ご老人。民は恐れおののき、外へ出るのも憚っておる。だからわしが退治するのだ。事態は深刻ゆえ急いでおる。早う案内せよ」
言われて隠居は考えました。
『ほう、退治るとな。ふむ。では、名前とみえる』
もちろんご隠居も新コロがなにか知りません。しかし熊八の手前、知らないとは言えませんから頭をひねります。
『しんころ、しんころ、しんこう。お、しんこうと言えば新吉! 新公と呼ばれておったが、さては新公がなまって新コロに。うん、そうにちがいない』
このご隠居、馴染みの辰巳芸者を訪ねる度に湯屋へ寄るのですが、そこの下働きに新吉という者がいます。用事を頼んだりして懇意にしていたのですが、その新吉が新コロにちがいないと老人特有の短絡で決めつけてしまいました。
「どうした。存じておるのであろう。新コロヶ島に早う案内いたせ」
「お武家さま、新公なら深川ですぞ。深川の湯屋におります。えーと、たしか『松ノ湯』」
「さようか。礼を言う。よし、参るぞ」
気が逸る将門は、往来へ出るや三人を引き連れてスタスタと歩きだします。
「ちょちょ、待ってえな。ほんま、足、早いんやから」
通りを下っていく途中で立派な神社がふと、将門の目にとまりました。なにかしら因縁を感じたのでしょう、足も止まりました。
「ここへ参っていこう。戦勝祈願だ」
「へ。おや、ここは」
ノムーラは門前の扁額を見あげて一瞥し、「あ」と声をあげました。
「神田明神てありまっせ。神田明神といえば」
「おう、なにしてやがんでえ。急ぐってえから、こちとら短え脚でせっせと」
先頭を駆けるように歩いていた熊八が、だれも追いついてこないので癇癪を起こしてもどって来ました。
「なんでえ。ここは、将門さまじゃねえか。ここで、どうしよってんでい」
「え、しょうもんさま、て。ああ、将門さまかいな」
「あたぼうよ。平将門公、江戸の守り神だあな。で、どーすんでい」
「戦勝祈願するんやて」
その間にも将門はすたすたと門内へすすみ、一礼して拝殿に向かいます。同行の三人も続き、そろっておとなしく参拝します。しかしモルーカスはふだんの役柄ゆえ、ついツッコみたい気持ちに駆られます。
「ほんま、将門はんが将門はんにお祈りしてどないすんね」
「ご利益倍増ちゃうかぁ。ダブル効果やん」
「そんなアホな」
「おい。行くぞ」
神田明神のもう一柱の神さま、大黒様にもお参りを済ませると将門は先を急ごうとします。そこへ熊八が待ったをかけました。
「だんな、待ちなせえ」
「なんだ。急いでおるというのに」
「あっちに山車が出てるからよ、ちょいと見てっちゃどうだい」
「だしとはなんだ」
「山車もしらねえとは、だんな、田舎者だな。祭りで引く山のことでぇ」
「ほお。神輿のようなものか」
「あんなケチくせえもんと比べるもんじゃねえぜ。でけえから驚くぜ」
「ふん。標山のようなものか。ふむ、見よう」
山車は一説によりますと、『続日本後紀』に天長10年(833年)11月、仁明天皇の大嘗会に曳きたてられた記録が最も早いものだそうで、その山を「標山、しるしのやま・ひょうのやま・しめやま」と称したとか。将門はだから『しめやま』と呼んだのでしょう。
「おお、これか。これはまた、うーむ。これが山か」
神田明神の山車は、神事につかう荘厳な標山とちがって町民の祭りで使うため、ど派手で華美なものでした。町人の文化といいますか、嗜好性というか、まあ、そういった精神が遺憾なく発揮されておりまして、桓武平氏の流れをくむ将門公の思った山とはちと隔たっておったわけで、少しがっかりした声音で顔を曇らせました。そんな将門の声を聞きとがめ、その表情を見とがめる者がありました。
「おうおう、人の面前に藪から棒に現れて『これが山か』とはなんでぇ。聞き捨てならねえな」
将門が振り返ると、そこにはねじり鉢巻きをした小柄な老人が、腕を組んで立っていました。張り飛ばしてやろうと前に出たところ、熊八が間に入ってきます。
「頭、堪忍してやっておくんなせえ。田舎者なんでさぁ、この旦那」
「おう、熊八。ふん、田舎モンか。ま、きょうのところはおめえの顔に免じて勘弁してやらあ」
「ありがとうごぜえやす。ところで祭りの支度のほうはどうでがす」
「それがよ。肝心かなめの人形が間に合わねえってんだ。頭が痛えぜ」
「人形てぇと、新しいやつ、将門さまのですかい」
「そうよ。将門公が馬に乗って敵陣まっしぐらてな趣向だったんだが、馬は出来てんだが」
「馬上の将門さまが居ねえんじゃシャレにもならねえ」
どうやら祭りの準備に忙しい有りさまのようですが、将門公は自分の名が何度も呼ばれるので不審に思ってずいと顔を出します。
「おい、貴殿ら。なにゆえ我が名を呼ぶ? わしはここにおるぞ」
「へ? なに言ってんでえ、だんな。平将門公といやあ、もう何百年も前のお人で」
「わしが平将門である」
「だからよ。将門公は八百年以上も前の平安時代のお人だから、いま生きてるわけがねえんだ」
「ふむ。わしはたしかに矢を受けて死んだが手ちがいが起こったのだ」
話がこの段に及ぶや、さて出番だってんでノムーラ&モルーカスがしゃしゃり出てまいりまして、斯く斯く然々云々と、これまでのいきさつを話します。とても信じてもらえないような内容でしたが、さすが真っ直ぐな江戸っ子、熊八も老人も熱心に耳をかたむけて、時折は感極まって落涙に及んだり、ほっと安堵のため息をついたりもしました。
「そうかい。難儀なさったんだねえ。それでこそ、江戸の総鎮守が務まるってもんさね」
「えれえ。ほんっとに偉えなあ。ますます将門さま信仰は厚くなっていくぜ」
「おお、そうだ。せっかく本物が来てくださってんだ。ひと肌脱いでもらえねえかな」
「え。まさか。人形の替わりを務めてもらおうって算段ですかい」
「そのとおり。本物がお出でくださってるんだ。これ以上、確かなものはない」
「でも人形じゃねえと、まずいんじゃねえですかい」
「細けえことを言うんじゃねえ。将門さまさえ承諾してくだされば、それで話は決まりでぇ」
熊八と神田明神の顔役は将門に人形の替わりを務めてもらいないかと、ダメ元で頼んでみました。将門公は貴族皇族の流れ特有の細長い目をときおり光らせながら、ふんふんと頷いていましたが、やにわに何事か閃いたらしく、よし! と大きな声を出しました。
「わしが、あの山に乗ればよいのであろう。乗ろう。あれで新コロ退治じゃ」
「へ? 新コロ退治? なんのことで」
顔役の老人に斯く斯く然々《しかじか》云々《うんぬん》と、こんどは熊八が説明しました。老人はうんうんとうなずきながら聞いています。
「というわけなんでさあ」
「するってえと、なにかい。こちらの、その、えー、将門さまは深川の新公を成敗なさると」
「へえ。その新公ってやつが何か不届きなことをしたんでしょうな」
「新公てのは聞いたこたぁねえが、将門さまの逆鱗に触れたんだ、さぞや非道の悪党だろうよ」
「きっと若えモンを束ねる新興勢力ですぜ」
「うん、そうにちげえあるめえ」
という話に落ち着きまして、なにしろ江戸っ子ですから耳が早くて正義感が強い。悪党退治だってんで町内からわらわらと人が集まってまいります。
「おう。なにが始まるんだ」
「生き神さまが悪党を退治なさるんだと」
「生き神さまってえと、えーと。どの神さまでえ」
「なんと江戸総鎮守、平将門さまって話だぜ」
「そいつは大変だ。総鎮守将門さま直々のご出陣となりゃあ、相手はただモンじゃねえぜ」
てえへんだ、一大事だ、出合え出あえってんで人が押し寄せます。いつの間にか神田明神の境内は街の衆が押合い圧し合いの大騒ぎになりまして、やれケンカが始まるの、臨時の祭りが催されるの、いまに餅がまかれるの、いや大判小判が雨あられといったデマが飛んだりします。ますます群衆密度が濃くなって、ほんとにつかみ合いのケンカがあちこちで勃発しています。
「これはいかん。早く境内を出よう。それえ。エイサ! おらああ」
顔役のひと声で、わぁ、と取り付いた町衆が山車を引っ張りだします。山車はいつもなら牛に引かせるのですが、きょうはそんな悠長なことは言ってられません。
「者ども! 行けぇええええ、ええやぁ!」
山車の上で、将門公が木造の馬に乗っかって鬨の声をあげます。すると山車を引いている町衆が、おおおおおおと大音声で応じました。いつの間にか町内のほかの山車が、勢揃いして通りを埋めています。数十もの山車が将門の山につづき、そこらから神輿も繰り出してきました。
「ののの、の、ノムーラは・・ん」
「なんや、モルーカスはん。顔、蒼いでぇ」
「これ、どないなりまんの。そこらじゅうから人が湧いてきまっせ」
「せやな。どないなるんやろ」
「ノムーラはん。そない無責任な言動、ゆるされしまへんで」
「わて、知らんがな。どないもならん。とにかく将門はんと熊八から離れんことや。あ。わぁ」
「わ。わわわわわわわ。たすけてー あーれー」
ちょうど坂を下りきったところで山車は急転回、カーブを曲がろうとしています。ノムーラとモルーカスは将門の山車に乗り、将門がまたがる木馬の両脇に控えていたのですが、強烈な横Gがかかって、あわや外へ放り出されそうになります。やっとのことで柱にしがみつき難を逃れてほっとしたのも束の間、急ブレーキからの逆Gに反対側の柱にしたたか頭をぶつけました。
「あ痛たたたた」
こんな状況でも将門は木偶の馬にしっかりとまたがったまま、微妙なバランスをとって乗りこなしています。さすがです。
「おう。でえじょうぶかい」
熊八が心配そうに上からのぞきこんでいます。熊八は山車のてっぺんの櫓に陣取って行き先を指図していました。
「おめえら、そっと曲がらねえと中身が吹っ飛んじまあ。気をつけやがれ。おっと、そこ右」
そんな調子で深川めざして山車を駆っていました。後に続く山車や神輿も同じように急カーブを切って、おっとっとっとなどと声をそろえて傾いては体勢を立て直し、またどっと鬨の声を上げたりしています。木の車輪が悲鳴をあげ、石ころが飛び、土が掘り返され、砂ぼこりが舞い上がります。
「おう。なんだなんだ」
「なにごとでえ。やけに騒々しいじゃねえか」
「おや。煙が昇ってるぜ。火事じゃねえのか」
「火は見えねえが、ありゃたしかに煙だな。だれか、半鐘だ、半鐘鳴らせ」
とまあ土や砂のほこりを見まちがえまして、火事でもないのにそこらで半鐘が打ち鳴らされました。まあ、遠くから見ると砂ぼこりも火の手の煙と見えなくもありません。町火消の連中がわらわらと寄り集まってきます。
「どこでえ、火事は」
「おい、はしご、はしご。ちょっくら昇って火の手を確かめな」
「こっちでも半鐘鳴らしとけ。用心に越したことはねえ」
あまりに半鐘がそこらでカンカン鳴るものですから、お武家さまのほうでも聞きとがめて武家火消の人々が門の中から往来へ飛び出てまいりました。
「いずこでござるかな、火事は」
「それらしい煙は見えまするが、火の手はわかりませぬ」
「ええい、とにかく出動じゃ。ぐずぐずするでない。急げ!」
武家火消も町火消もそれぞれ、水をひっかぶって、火消しの七つ道具の纏や梯子、鳶口、大団扇、放水ポンプの竜吐水、刺叉、玄蕃桶を手に手に、町を駆け回りました。こうした下町の騒ぎは山の手のほうでも察知されることになり、愛宕山に人が集まって下町のほうを首をひねりながら見ています。
「なんだ、なんだ! あの煙は」
「火の手は見えねえが、やけに半鐘が鳴ってやがら」
「どっちにしろ、なんか騒動が持ち上がってるにちげえねえぜ」
「えれえこった。よし、行ってみようぜ」
物見高いは江戸の常、町人たちは我先にと下町へ駆けていきます。愛宕山に近い日枝神社では、氏子が境内に集まって宮司となにやら相談をしています。
「おい、聞いたかい」
「おう、聞いたぜ」
「おれも聞いた」
「私も聞きました」
「出入りだってな」
「討ち入りだって話だぜ」
「いや、合戦だそうだ」
「神田明神がなあ」
「なんでまた深川八幡へ」
広いようで狭いのが世間でございます。うわさ好きの江戸っ子の口に戸は立てられません。神田明神山車の出陣話はあっという間に江戸市中に広まり、新コロ退治の話に尾ひれがついて、殴り込みだの戦が始まるのと取り沙汰されるようになりました。さらに、打ち鳴らされる半鐘や、鬨の声、山車の轟音やらがとどろき、木霊となって江戸八百八町に鳴り渡りますものですから、江戸っ子の血が騒ぐのも当然なことで。
「いずれ遺恨でもあるんだろうが、山車で殴り込みとはな!」
「おだやかじゃねえぜ」
「深川は神輿で迎え撃つしかねえな」
「そりゃ、山車はねえんだ。神輿かつぐしかあんめえ」
「おれっちは高みの見物でいいのかねぇ」
「おう、深川に加勢してやろうぜ。山車、引っ張ってきやがれ!」
そうと決まれば話は早い。それってんで町内のそこかしこからあっという間に山車が引かれ、勢ぞろいするや、深川めざしてまっしぐら。その数、ゆうに数十に及んだそうでございます。神輿も繰り出して下町のほうへ駆けていきます。
「おおい、どけ! どけ! ケガするぜい」
「深川が危ねえんだ。手空きのヤツは加勢してくんな」
とまあ、野次馬を巻き込みながらの道行きとは相成りまして、その一方で、神田明神の山車は順調に小伝馬町から人形町、水天宮と町々を後にしてずんずん進んで行きます。そのころには町火消や武家火消があっちこっちから集まって、やれ火事はどこだ、ケンカはまだかとやかましく騒ぎ立てます。町衆も仕事の手を休めて、あるいは店をおっぽり出して往来に出てきます。こうなると山車はなかなか前へ進めません。熊八が業を煮やして怒鳴り散らします。
「おいおい。どいてくんな。将門さまのお通りだぜ。新コロ退治の道行きでえ」
「あれ、あいつ熊公じゃねえか。なんだって山車の櫓に」
「祭りの季節でもあんめえに、なにやってやがんでえ」
「おい、そこにいるのは梅次にタケだな。おめえらも手ぇ貸してくんな。深川まで行かなくちゃなんねえ」
呼ばれた二人もお調子者らしく、わけも聞かず、よしきたとばかりに山車に食らいついて押したり引いたり、まわりの町衆もなんだか楽しそうだってんで山車に群がります。こんな有りさまですから、隅田川を渡るころには山車は橋も落ちんばかりの黒山の人だかりとなっていました。そのころ、富岡八幡宮に近い湯屋『松ノ湯』では
「やい、新公。桶をかたづけておけと言っただろ。何遍言わせるんでぇ」
「こら、新吉。薪がたらねえ。早く持ってきな」
「新さ~ん。背中ながしておくれでないかえ」
てな具合に下働きの新吉がてんてこ舞いをしておりました。場所柄、色町の芸者さんたちもやって来て湯殿は猥雑上にも華やいだ雰囲気がありました。
「待ってくんろ。吾一人では手が回らねえ」
新公こと新吉は、薪の束を小脇に裏の納屋から焚き口へ走り、袖をからげるや湯殿へ上がって客の背中を流したり、桶を積み上げたりと忙しく働いています。そこへ神田のご隠居からの使いの者が訪ねて来ました。
「おう、新公。居るかい。お、居たな。よお、新公」
「おや。亀助さんでねえか。なして、ここに」
「ご隠居に頼まれてよ。これで逃げなってよ」
亀助は隠居から預かってきた路銀を新吉の手に握らせます。隠居は将門に問われるままに新吉のことを教えたものの、『退治する』と言っていたのを思い出して気が引けたのです。にわかに心配になって、長屋の韋駄天、飛脚の亀助に伝言と路銀を託したのでした。新吉はきょとんとして路銀の巾着と亀助の顔を交互に見ながらあっけにとられています。
「え。逃げるって。いったい何のことでがしょ」
「お武家がおめえを退治しに来るんだとよ」
「え~! 吾はなーんも悪りいことしてねえでがす」
「細けえことは知らねえが、相手が悪いぜ。さっさと荷物まとめて逃げるんだな」
「吾はまだ年期も明けてねえだ。逃げられまっしぇん」
「命がかかってるんだぜ。命さえありゃ、なんとでもならあな」
「そんな。そのお武家さまっちゅうのは、どんなお方でがす?」
「それがよ、道々聞いた話じゃ、将門さまだって話さあね」
「将門さまなら吾もご隠居のとこさ行ったときお参りに上がってるでがす」
「ちゃんとお参りしたのかい」
「吾は生国ではお不動様に日参しとったで、お参りは得意でがす」
「ふん、お参りに得意もねえもんだ、はは。うん、お不動様って・・おめえ、故郷はどこでえ」
「へえ。下総は成田でごぜえます。吾は農家の三男で」
「なんだって。成田だと! まさか、成田の不動明王かい」
「へ。なにをびっくらこいてなさる。草ぼうぼうの寺だけんど立派な不動様がおられるで」
「新勝寺だな。そいつはいけねえや」
将門は最後の戦いで、風上で有利に戦っていたのが突然、風向きが変わって風下に立たされ、戦況が不利になりました。あげく、額を射貫かれて壮絶な死を迎えることになったのですが、この風向きを変えたのが不動明王なのです。弘法大師空海が手ずから敬刻開眼したもので、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正が成田の地に運び、護摩祈祷を執り行って将門の乱を鎮めました。
「そういうわけで、平将門にとっちゃ不動明王てのはいわば仇なんだ」
「えええ。そったらこと言われても、吾は知らねえでがす」
「やっぱり逃げるしかねえな。もうそこまで迫って来てるようだぜ」
「え。まさか」
「聞こえねえのか、あの騒ぎが。山車を駆って将門がおめえを成敗しに来るんだよ」
たしかにここ松ノ湯の焚き口からも市中のざわめきが感じられ、湯殿では客たちが口々に山車だの火消しだのが繰り出している、祭りでも始まるんじゃねえかなどと話しているのを新吉も耳にしています。しかしそれが自分に関わりのあることなどとは考えもしませんでした。
「吾は知らなかったすけ、申し開きすれば将門さまも赦してくださるんではねえか」
「おれもなんか誤解があるとは思うけど、ここはいったん引いたほうがいいぜ」
「逃げたら、ますます怪しまれるんではねえか」
「折を見て、ご隠居が間に入ってくれるんじゃねえか。それまで田舎に引込んでな」
「なら、荷物さ、まとめてくるんで。火の番、お願えしますだ」
「あいよ。早くしなよ。もうそこまで迫ってるぜ」
新吉があたふたと奥へ消えますと、入れ替わりにガラッと湯殿の戸が開き、ぬっと顔を出したのは先ほど登場した梅次とタケでした。熊八に言われて斥候に出されたのです。
「おう。ごめんよ。新吉てのはいるかい」
「おや。梅次にタケじゃねえか。どうした。おかしな所から顔を出すじゃねえか」
「亀助、おめえこそ、なにしてんだ。それより新吉てのがここにいるはずだが」
「おれはご隠居に頼まれてよ。新吉ならとうに、ずらかったぜ」
「なんだって。さてはてめえ、逃がしやがったな」
「ご隠居に頼まれたんだ。嫌はねえさ」
「どこへ逃げやがった。どっちへ行った」
「さあな。そこの木戸を出たとこでキョロキョロしてたが後は知らねえ」
「新吉の生国は」
「そんなことおれが知るわけねえじゃねえか」
「ちっ、ただで済むと思うなよ」
二人が湯殿へ戻ろうとしたとき、折悪しく奥から新吉が出てきました。
「へ、お待たせいたしやした。なら吾は行かせてもらうで」
はっとふり返った梅次にタケ、とっさにそれが新吉だと悟りました。新吉のほうでも危険を感じ取り、亀助が「逃げな」と言う前にもう木戸へとまっしぐら、姿を消しました。梅次があわてて後を追います。タケは熊八に知らせようと湯殿を突っ切って駆けていきます。
さてお立ち会い。役者がそろい、さあこれからというところではございますが、ちーと長くなりまして、わたくしの喉も悲鳴をあげておりますので、続きは後の吉日をお楽しみに、ここらでご容赦を願い、『将門公新コロ退治 神田出発の段』、これにてひとまず終了とさせていただきます。ご清聴を感謝申し上げるとともに、またのお出でを心よりお待ち申しあげております。では、ありがとうございました。お気をつけてお帰りください。はい、ありがとうございました。ありがとうございました。
「おいおいおい。ちょい待ちぃ! かってに幕引くんやない!」
「せや。こんなとこで中断してもうたら、わてら帰られしまへんがな」
「そう言われましても、わたし、喉がガラガラでしてな」
「なんやて! ノドが? まさか」
「きっと、そのまさかでっせ。コロナや!」
「あかん。せや、養生所あるやろ」
というわけで養生所へ連れてって、ほかの患者を差し置いて診察の間へ飛び込んだんだ。
「先生! えらいこっちゃ。大変なんどす。この人、診てやってぇな」
「なんだ、おまえらは! 騒々しい。順番を守らんか!」
「そんな悠長なことしてられまへん。この人、新コロでんね」
「なにィ。新コロとはなんだ?」
「へえ。それが。え~、どない言うたらええんやろ。時代ちゃうし」
「厚労省のパンフおます。新コロは『ウイルス性の風邪の一種です』だそうです」
「うん? ういるすとはなんだ? しかし、風邪の一種なら寝れば治る。症状は?」
「はい。喉がいがらっぽくて、がらがらします。ほかは特にないです」
「あかん! あかん! それが危ないんだす。もう無症状を発症してるんだす」
「せや。新コロのいちばん特徴的な症状が無症状やねん」
「あ~ もうアカンわ。無症状を発症してもうた。手遅れや」
「先生! もう無症状になってもぅたけど、なんとかならんやろか」
「お願いや、赤ひげ先生! この無症状をどうかして治してもらえんやろか」
立派なおヒゲの先生はコワそうな顔をしてだまって話を聞いていたんだけど、目がだんだん険しくなって、ほんとにいきなり、ものすごい勢いで立ち上がるや、ボカンとノムーラの頭に拳固の一撃を食らわせたのさ。ノムーラはびっくり、ぽかーんと口をあけて赤ひげ先生を見あげるばかり。
「出ていけ! ふざけおって! なにが無症状だ! そんなものは病いではない!」
きさまらは頭の病いだ~と繰り返し怒鳴りながら、赤ひげ先生は手足を振りまわしてモルーカスも落語だか講談の人もぽかりぽかりと殴ったり蹴ったりして追い出しちゃった。
「あ痛たたたた」
「ううううう。あああ足が」
「なんでわたしまでこんな目に。ああ痛え痛え」
「おまはんがかってに話、打ち切ろうとするからや」
「ほんまに。わてらの身にもなってほしぃわ」
「じゃ、どうしても続けろっていうのか」
「せや。喉なんか龍角散で治るわ。ほい、龍角散と、のど飴や」
「ったく。これだから上方の輩は。け」
はい、じゃあ変わるよ。さ、おじさん、どうぞ。
え~ ただいま紹介に与りましたわたくし、ムリを押してお話を続けさせていただきます。では。え~と。どこからでしたっけ。ああ、そうそう。新吉が逃げて、梅次が追いかけ、タケが将門に注進に及ぶというところでございましたな。
「熊八の兄き! てえへんだ! 新吉が逃げた。亀助が先回りしてやがったんで」
「なんだと。それで、梅次が追ってるのか」
「さようで。こっちに来ねえとこ見ると、東のほうへ逃げたようで」
「よし、進路そのまま。全力前進!」
と疾風怒濤の道行き、それも山車数十台に神輿が勇ましい掛け声とともに続いております。まぁ、一見するとお祭りの賑わいにしか見えませんが、当人たちは新コロ成敗と張り切っておりますもので、その速いこと、また乱暴なこと。見物衆も出ておりましたが、「おっと危ねえ」と飛び退くついでに店先の酒樽なんかをひっくり返したりして、「おう、なにしやがんでぇ」とあちこちでケンカも始まる始末。火消し衆も七つ道具を担いだまま右往左往しながら吸い寄せられるように下町に繰り出していました。そのころ新吉はといいますと、成田街道をまっしぐらのはずが、どういう次第か富岡八幡宮に隣接する永代寺におりました。
「ぐずぐずしてはいられねども、不動様が来ておられるのに素通りはできねす」
おりも折、ここ永代寺では成田山新勝寺の不動明王の出開帳が行なわれておりました。新吉はかねがね出開帳があると聞いていましたが、いかんせん暇がなく、いま図らずもフリーの身となりまして、念願の参拝がかなったという次第。しかし、広い境内は人でごった返してなかなか前へ進めません。
「どいてけろ。追われてるんだす。不動様にお目通りを」
新吉は人を押しのけようとしますが押し戻されてしまいます。こうなっては人の流れに従うしかないと諦めました。追っ手の梅次はというと、これもまた人波に埋もれてしまい、新吉が見えてはいるものの追いつけません。
「こらぁ待ちやがれ~ 止まらねえとただじゃすまねえぞ」
いくら叫んでも新吉には聞こえやしません。幾重にも人垣が連なって、その落ち着く先はと見ると、境内の奥のほう本堂のあたりですが、向かって左手に舞台が見えます。ぎゅうぎゅう詰めになって押されながら進んでいくと、おや、歌舞伎でしょうか。
「成田屋!」
「よっ、待ってました!」
「日本一!」
やっぱり歌舞伎です。派手な飾り物の衣装に隈取りの役者が見得を切っています。出開帳に合わせたイベントでしょう。出し物はズバリ『不動』のようです。もちろん演ずるは当代の市川團十郎その人でありました。市川團十郎の不動明王への帰依は初代にまで遡り、不動明王を扱った演目も代々にわたり多数創作しておりますが、その辺のお話は割愛させていただきます。
「わぁ、團十郎だ。けど吾は不動様に参りたいだす」
新吉は身動きならず、地団駄を踏むばかりでしたが、そのとき頭上を紙吹雪が舞ったかと思うと、群衆が新吉の脇をすり抜けて仮設舞台のほうへ殺到して行きます。舞台から餅がまかれているようです。新吉は千載一遇のチャンスとばかり、本堂のほうへまっしぐらに駆けだしました。
「やったァ。これで不動様にお目にかかれるだす」
新吉が本堂へ駆け上がるのを見届けて梅次はきびすを返し、門前へと急ぎます。すでに門前には山車が到着しておりましたが、なにやら不穏な気配です。山車の行く手をいくつもの神輿が遮っているようでありました。すでに富岡八幡でも神田明神が殴り込みに来るという噂が伝わっておりまして、山車がないので神輿をかついで迎え撃った次第です。
「うおおおおお。待ちねえ。おれたちが加勢するぜ」
と現れたのは日枝神社の山車です。延々と連なり、その数は五十台を下りますまい。もうすでに道中で出会い頭に衝突てなことも起こっておりまして、山車と山車とのぶつかり合いでございますから、そりゃもう迫力がちがいます。
「いくぜええええ」
「覚悟しやがれええええェエ」
「しゃらくせえ。返り討ちにしてやらあ」
永代寺の門前では将門を乗せた山車が、富岡八幡の神輿とにらみ合っていましたが、その真ん中へ町火消しと武家火消しがそれぞれ纏を振り回しながら通ったものですから、やはり江戸っ子、血が騒ぐんでしょうな、それがきっかけになって火がついたごとく、わあと掛け声も凄まじく互いに突撃することと相成りました。
「うわあああ」
「それええええ」
「ぎゃああああ」
とまあ獣のような咆吼とともに激突し、神輿が山車の中へ突っ込み、山車は神輿を引きずって右往左往、あっちへぶつかり、こっちの塀を壊したり、そのたび、人を吹っ飛ばしておりましたので、ノムーラもモルーカスもひとたまりもなく往来へ投げ出されました。将門公はといいますと、さすが、バランス感覚がちがいます。山車の中の木馬にまたがったまま涼しい顔をしております。その木馬の面前へ飛び込んできた者がありました。梅次です。山車の突進に避けたものの逃げ切れず、山車に呑み込まれたのです。
「あ~痛てててて。兄貴ィ~熊八の兄貴ィ~」
「おう。なんでい、梅次。首尾はどうだ」
「へえ。新吉を見つけて追って、いま永代寺の本堂へ入ったところで」
「なに! 新コロがそこの寺に逃げ込んだのか。よし!」
と聞くが早いか将門公は木馬から飛び降り、永代寺へ駆け込んで行きました。ノムーラとモルーカスは往来へ投げ出されて伸びていたのですが、将門に続いて熊八と梅次が走って行くのを見て、あわてて体を起こします。
「わわ。待ってェな~」
「ゴルァ! 待てぇええええ」
一行は永代寺の境内へと進みましたが、広~い空間に歌舞伎の舞台があって人が群がっています。餅投げの真っ最中のようです。一行は本堂に至り、将門が大音声にて呼ばわります。
「新コロとやら。おとなしく出てまいれ!ゆえあって成敗いたす」
雷が空間を引き裂くような声に、あたりの人々はドキッとして声のほうをふり返りました。本堂の中からも何ごとかと人が出てきます。ただ一人、新吉だけは名指しで『成敗する』と言われて出ていけるはずがありません。手前に安置されたお不動様の背後に回って震えながら息をひそめております。
「出てこぬのなら、こちらから参るまでだ」
将門は本堂に上がって本尊に一礼し、不動明王に近づきます。
「あわわわわわわわわわ、どうしよ。わあああ。来るゥ~」
「そこか。新コロ、観念して出てまいれ」
「かかかかかんにんしてもらえねえだか。吾はなにもしてねえだす」
「おまえが民を苦しめる病の元とやら。除かねばならぬ。民のため、観念せい」
ずいと将門は足を踏み出し、不動明王の背後へ回り込みました。新吉は木像の足元にしゃがみ込んでただ震えています。すでに将門は刀を抜き、下段に構えて新吉のほうへ歩をすすめ、ここぞと上段に構えるや、刃一閃、目にもとまらぬ速さで白刃が振り下ろされました。新吉の肩から袈裟懸けに肉を切り裂き骨を断つ、と思われた刃が空中でフリーズ、新吉の肩先、すんでのところでプルプルと振動しながら止まっている。
「おおお。おのれ! おまえは」
なんと不動明王の座像がすっくと立ち上がり、錫杖で刀を防ぎながら将門を睨み下ろしています。
「将門! 無辜の民を傷つけおるか。勘弁ならんぞ」
「うぬぬぬ。一度ならず二度までも止め立て致すか、不動明王!」
その昔、矢が不動明王の起こした風を得て、将門の額に命中した故事を、将門は自分の資料館で読んで知っていました。中央政権から遣わされた大僧正の寛朝が、空海作の不動明王を携えて京から房総半島へ至り、護摩祈祷を施した結果、風向きが変わったのです。
「いま一度の乱あらば鎮守すべしと留まった甲斐があった。覚悟!」
「来い! きょうこそ昔日の無念を晴らしてくれよう」
不動明王は錫杖を捨てて天国宝剣に持ち替えました。これぞ成田山第一の霊宝、寛朝が朱雀天皇より賜った剣です。
「きええええええィ」
「うぬぬぬぬぬ。おりゃああ」
どちらも、まあ、神さま仏さまなので、神意×法威、なかなか勝負はつきません。切り結ぶこと数十から数百に及び、すでに本堂は本尊にも累が及び、騒ぎを聞きつけて住職がやって来ました。
「わわわわわ。御本尊様が。わわわ。やめてくだされ。外で、どうか外で」
請われて両者は本堂の外へ飛び出します。新吉はとうに本堂の奥へ、御本尊の裏側へ回って難を逃れておりました。
「たすかったべ。さ、ぐずぐずしててはいけねえ。まんず、ありがとうだす」
境内へ出るや、不動明王のほうに深々と頭を下げて、走って門から逃げ去っていきました。どちらも新吉には目もくれずに一心不乱、剣を振るっておりました。ガシャーン、ガッ、ゴツゴツなどと剣同士がぶつかり合い、火花が飛び、咆哮のような唸り声が境内に響き渡ります。
「うおおおお。将門、おまえはなぜ生きておる? 矢で額を射抜かれたであろう」
「わけあってこの世に留まった。生あれば民草を救うのがわが役目」
「なにをぬかす。何の罪もない民を殺そうとしたではないか」
「あの者は何十億もの民を煩わす元凶である。退治ねばならん」
「この馬鹿者が! まやかしの霧に目が眩んでおる。逝け」
激しく刀剣がぶつかり合い、凄まじい火花が散ります。いつの間にかモチまきに群がった群衆が騒ぎを聞きつけ、おそる恐る遠巻きに近づいてきました。ドーナツの輪っかのようになった見物衆の真ん中、空白の円に場を定めて将門公と不動明王は剣を交えています。そのようすを高見の見物ではないですが、一段高い舞台の上から見ている人物がいました。團十郎です。
「おや。あの争いはなにごとか。やけに激しいじゃねえか。ただのケンカじゃねえな」
モチを投げる手を止めて、じっと成り行きを見ていましたが、勝負は容易につきそうもありません。見ているうちに気づきました。まさかとは思ったのですが地黒の半裸体は不動明王、もう一方はよくわかりませんが、武将のようです。
「こいつはいけねえ。相手が誰でも止めさせて訳を聞こうじゃねえか」
團十郎は得意の喉を目一杯つかって高らかに呼びかけました。
「しばらァくゥ! ご両人、しばらく! しばらアらぷーう!」
さすが團十郎です。声がちがいます。喧噪のさなかに居ても耳に響きました。町衆も戦っている二人も手を止めて、声のほうをふり向きました。
「おう、團十郎が見得を切っているぜ」
「成田屋~」
「ぃよ! 日本一!」
掛け声が飛び、皆みな拍手喝采します。不動明王は初代團十郎からの馴染みですが、将門は時代がちがいます。「かぶき踊り」の出雲阿国に始まる歌舞伎は17世紀初頭ですからね。将門公のころは猿楽ですかね。猿楽は元は中国から8世紀ごろ伝わった散楽で、お笑いの寸劇ですな。能や狂言の走りなんですが、それはともかく、将門の目に團十郎がどう映ったか。
「なんだ、彼奴は。妙な風体だ」
ぐらいは思ったでしょう。無理もありません。浮世絵のごとくド派手なドーランに大仰な衣装ですから。気を取られたその一瞬の隙を突いて不動明王が宝剣を振り下ろします。将門公はあわてず剣を返し、金属のぶつかる激しい音がまるで雷鳴のように境内に満ちました。
「うぬぬぬぬ」
「ぐおおおおおお」
斬り合いがまた始まったので、團十郎は舞台を下りて駆けて来ました。
「ご両人、待ちねえ。ここはこの團十郎に免じて剣を収めてくれねえか」
不動明王は普段から信仰してもらってる手前、無碍にもできませんので聞き入れました。将門は不動明王が宝剣を収めたので、不承不承ながら引かざるを得なくなりました。
「團十郎とやら、おまえはなにものであるか」
聞かれた市川團十郎、よもや江戸市中に自分を知らない者がいようなどとは思ってもいませんでしたから、ムッとしてプイと横を向いて不動明王に尋ねます。
「して、不動さま。こちらの旦那はどちらさまで」
「うむ。こやつはな、平将門じゃ」
「え。いや。将門公とは。本物のモノホンであられるか」
とそこへ、町衆に混ざって見物していたノムーラとモルーカスがしゃしゃり出てきました。ノムーラは将門に團十郎の説明を、モルーカスは團十郎に将門が蘇ったいきさつを話すのですが、どうも合点が行かないようすです。
「いったん首が離れてまたくっついたァてのかい。そいつは豪儀だねェ」
将門のほうは團十郎のことを猿楽の子孫みたいなものだと聞いて納得したようです。
「ほう。芝居の者か。どうりで浮世離れしておるわけだ」
「おっと無粋な挨拶はなしだ。それより、いってぇどういう訳で一騎打ちを?」
これについてもノムーラとモルーカスが説明しました。新コロが猖獗を極め、これはいかんと将門が民を救うために新コロ退治に出たが、どこをどう間違ったか「新公」退治になり、あげくこんな次第に。
「ほう。疫病が蔓延してるってぇのかい」
などと5人が車座になって話していると、まわりを取り囲んでいた町衆がざわめき始めました。そこへ熊八が血相変えて走ってきました。
「だんな、大変だ。役人が捕めえに来るぜ」
祭りでもないのにこの騒動、山車は数十もあちこちから繰り出すわ、神輿はそこらを勝手気ままに練り歩くわ、町火消しも武家火消しも総出で纏を振り回すわ、見物が往来を埋め尽くすわ、喧嘩が始まるわで、混乱の極み、花火も上がっています。お上も見過ごせなくなって与力や同心が片っ端から怪しい奴をしょっ引いているようです。
「ここはひとまず引いたほうがよさそうですぜ。新吉もずらかったようで」
「うむ。では」
と言っている間に、取り巻いている町衆の後ろのほうが騒がしくなって、怒鳴ったり叫んだりしながら散り散りになっていきます。境内に捕り方が侵入したようです。ここは永代寺、ほんらいなら寺社奉行の管轄なんですが、非常事態なんで町奉行や火付盗賊改とかごっちゃに乱入してきたようです。騒ぎの大元がここに居ると聞きつけたんでしょうな。
「御用、御用! 神妙に縛につけ! こら! 大人しくしやがれ!」
捕り方も江戸っ子ですからバンカラです。相手が團十郎だろうが不動明王だろうが将門だろうが容赦はしません。あっという間に囲み込み、有無を言わさず縄をかけてしまいました。
「一同の者、面を上げい!」
お白洲の上からそう呼びかけたのは、大岡越前か遠山の金さんか、ここでは奉行の役割は小さいので想像にお任せするとして、ここは「ははーっ」と居並んだ悪人どもがワルそうな顔を上げるところですが、今回は役者がちがいます。熊八やノムーラ、モルーカスこそ頭を下げていましたが、團十郎も不動明王も、そして将門公も頭を下げることはありませんでした。
「え~ こほん。こたびの江戸市中の騒乱、お上を畏れぬ所業、まこと不届き至極である。あまりの喧噪に上様も急ぎ隠密に身をやつして市中見回りに出られたほどじゃ。きつく吟味いたすゆえ正直に答えい!」
実際、時の将軍、徳川某氏も市中侍に変装し、馬で下町に駆けつけ、山車を引き、神輿をかつぎ、火消しの纏を横取りしてブン回していたとの噂でございます。
「さて、熊八。そのほう、山車で町に繰り出し、民を煽動したのはまことか」
「煽動? 山車の先導はたしかにしやしたが、人を煽るなんてとんでもねぇ」
「ふむ。なら、先導はしたのだな」
「へえ、先導は。まあ先頭だったんで、そうなりやす」
「ふむ。では、ノムーラとモルーカスとやら。そのほうら上方の者であるな」
「へ? いやわてら、言葉づかいはこんなんやけど、兜町のモンやけど」
「兜町とは。はて、上方のほうの町であるか」
「あ、兜町て明治からや。江戸時代では、あ、牧野邸でんな」
「うん? 牧野讃岐守殿のお屋敷の者か」
「え? いやわてら、時代が」
「そのおかしな風体。そうか、庭師か。さすが江戸の名園と言われるだけのことはある。わざわざ上方から庭師をお召しになるとは」
「いやわてら、株屋なんやけど」
「なに、蕪を。ふむ、広大な庭園だからのう。さては献上に供するのであろう」
「いやいやお奉行さま、ちゃうちゃう。ちゃいまんがな」
「なに。ちがうと申すか。牧野殿、食うに困っておられるのか」
「いやいやイヤお奉行様、ちゃいます。ちゃう。そこやのうて」
「なに。そこではないと申すか。では、どこだ」
などと取り調べ問答がつづき、團十郎は喧嘩の仲裁に入っただけとの申し開きが通って無罪放免、不動明王は、我は仏であり神であるとの申し出により、これは人が裁く相手ではないとして訴えを無効としました。
「さて、平将門とやら。そのほう、まことの平将門であるか」
「あ。それはでんな、わてらのほうで説明させてもらいま」
またしてもノムーラ&モルーカスが、お白洲という場もわきまえずしゃしゃり出て参ります。すかさず奉行の叱責の怒声とともに二人は役人に取り押さえられてしまいました。しかし、そこは関西弁の底力、どんな羽目に陥ろうと喋くりはやみません。将門と出遭った顚末から首探しの旅など次から次へと語りつづけます。奉行も取り押さえている役人も、しばし役目を忘れてつい聞き入ってしまうほどでした。
「というわけでんがな。本物でっせ、この人。正真正銘の平将門」
「不動明王さんならわかるンちゃいまっか。将門の乱に居合わせたんやから」
「うむ。この男は将門である。わしが退治した」
「そう仰っても、退治た者がここにこうして生きて居るのはどういうわけで」
「この者どもが言ったとおり生き返ったのだ。なんなら今一度ここで退治てやろう」
不動明王がどすんと足を踏みならして立ちあがったので、将門も怒気をあらわに片膝立ちになります。とたんに素手で取っ組み合いが始まりました。
「あ~あ。しょうがねえなァ。せっかく仲裁に入ったのに、またこれだ」
團十郎が間に割って入ります。ぽかぼかと二三発喰らいましたが、痛そうなそぶりも見せず、すっくと間に立って両者をギロリと睨みます。
「じゃ、こうしようじゃねえか。争いの元をおれが絶ってやろう」
「なに。おぬしが此奴を成敗すると申すか」
「滅相もねえ。将門の乱はとうに終わってる。問題は『新公』だろう」
「なに。おぬしが新吉を退治すると申すか」
「新吉には何の罪もねえ。問題は疫病だろ。新コロとかいったっけ」
「そうじゃ。だからわしは新コロが島へ新コロ退治に来たのだ」
「要は疫病を収めりゃいいんだろ。おれがやってやるぜ」
やけに自信たっぷりに團十郎が言うのにはわけがあります。何代か前の二代目團十郎の『不動』で演じた見得が大人気で評判となり、この『不動の見得』で睨まれるとどんな病も治ると噂されました。これでさらに不動尊信仰が江戸に広まることになったのですが、当代の團十郎も自分の見得にもそういう力があると自負していたのです。
「試してみる価値はありそうだな。よし。では行こう。行くぞ」
将門はぷいと横を向いて、お白洲から出ていってしまいました。みな呆気にとられて奉行でさえただポカンと見送っています。
「出口はこちらか」
将門がふり返って尋ねます。小役人が一人たたたと走って行って、「へえ、こっちになりますんで」と案内します。
「そのほうら、なにを致しておる。行くぞ」
呼びかけられたノムーラとモルーカス、熊八、それに團十郎がはっとして後を追います。残された不動明王は、しばし考えたのち、出開帳の場に戻るべきと判断したのですが、いや将門を見張らねばと思い直し、これまた一行の後を追いました。
「う~む。えへん。あ~」
しら~としたお白洲の場に、季節の風が舞い込みまして、花びらでございましょうか、はらはらと白いものが降りてまいります。お奉行は頭をめぐらせて思案しているようでしたが、やがて意を決したとみえてキッと真正面を見据え、誰もいなくなったお白洲に向かって朗々と言い放ちました。
「訴えの議、吟味致したところ、不埒至極の大罪は明らか。本来なら遠島もしくは獄門に処すところ、お上のお慈悲である。罪一等を減じて一同を江戸十里四方所払いと致す。以上」
お奉行はそれだけ言うと、これまたぷいと立って奥へ引っ込んでしまいました。さてお白洲を後にした将門一行は、果たして疫病を退散させることができるのか。團十郎と不動明王は活躍できるのか。はたまた将門を敵として戦うのか。がぜん気になるところではありますが、それはまた、場所と時代をあらためてお話し申しあげるとして、将門公新頃成敗江戸不始末【まさかどこうしんコロせいばいえどのふしまつ】の一巻、本日はこれにて御免蒙りたいと思いますです、はい