呪詛と懇願
悪魔のような形相をした女は、つかつかと優子に歩み寄っていく。嫌な予感がしてその女に摑みかかったが、『邪魔をするな!』の言葉と同時に、ものすごい力で投げ飛ばされてしまった。
そして女は優子の前に立つと、表情を変えることなく彼女の顔面に自らの掌を突きつけた。
その瞬間、優子が崩折れ、倒れたのが見えた。
「優子⁉︎」
すぐに彼女の元に駆け寄り、揺さぶった。届かないと分かっていても、耳元で彼女の名を繰り返し呼ぶ。
優子の目は、閉じられたままだ。
『そいつはもう、自らの意思で起きることはない』
女の声がした気がした。でも、その言葉を信じたくなくて、必死に呼びかけ続けた。
——ようやく私は、さっき何が起こったのかを理解しつつあった。
分かったのは……私は誰かに、首を絞められたこと。そして、他の誰かに助けられたこと。
でも、この部屋には、誰もいない。拳登の亡骸があるだけで。一体、誰が首を絞めたのか——。
——一人だけ、思いつく。
こんなことは考えたくないけど……多分……。
……多分、拳登なんだと、思う。
もしかしたら、彼の魂がここにいるのかもしれない。私に霊感なんてないから、見えないだけで。
それで、私の話を聞いて、怒って、恨んで……殺そうとした。
でも、だとしたら、私を助けてくれたのは、誰だったんだろう?
そんなことを考えていたら、突然、目の前が明るくなった。
どうしてだろう——そう思って顔を上げた、その時。
思わず、息を飲んでしまった。
目の前に、私の両親がいたからだ。
辺りを見回すと、そこは霊安室ではなく、私の実家だった。隣には、拳登がいる。
——ああ、これは夢なのか。或いは、幻かなぁ。さっき首を絞められた影響かもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると。
『その人との結婚は、許しません』
——懐かしい母の声が、私の胸を切り裂いた。
『ど、どうして!』
私が叫ぶと。
『もしその人と結婚するなら……絶縁だ』
追い討ちをかけるようにして、父が私の心をめちゃくちゃに傷つけていった。
普段は優しい父の声が、今は氷のように冷たい。
……どうして。どうして。
目の前の景色が、変わった。
昔訪れた、拳登の実家。そして、一度だけ会った、拳登のご両親。
目の前で繰り広げられる、さっきと全く同じ光景。寂しそうに笑いながら『……それなら、荷物をまとめていきます』と言った拳登。
拳登の昔暮らしていた部屋。
そこにあった思い出の品々を段ボールに詰めて、自分の家に送っていた。
これは、そう。かつて、本当にあったこと。
……そこで、ふつり、と目の前が暗くなった。
『……もう、嫌いだ』
声が、聞こえた。
『……苦しかったんだ』
ああ、この声は——恨みを募らせた、彼の声。
『……お前さえ……いなければ……』
——私さえ、いなければ。
いなければ……よかったのに。
ふと、優子が目を開けた。
「優子!」
名を呼んで、目が覚めてよかったと言おうとして……気付いてしまった。
優子の目は、虚ろだった。
何も捉えない、中身のない目。
そこから涙をぼろぼろと流し始めて……そして。
——目の前で、何が起こったのか。
一瞬、分からなかった。
……いや。信じたく、なかった。
優子は自分の手で、自らの首を絞め始めたんだ。
「なっ……なにやってんだよ!」
その手を引き剥がそうとした。でも、さっきの女の手よりも、強い力だった。
「優子……こんなことするなよ!」
さっき聞いた喘ぎ声よりも、さらに苦しそうで、大きな声。身体が呼吸しようとすればするほど、その手はきつくなっていく。
「やめてくれよ! なあ、何で……」
俺は少しでも呼吸ができるように、首を絞めずに済むように、引き剥がす手に力を込めた。
「……何で自分の首なんか絞めてるんだよ!」
俺の声は届かないと分かっているのに。なのに、叫ぶことしかできない。
「そんなことするなよ……! 頼むから、やめてくれ!」
——ふと、優子の目に、光が宿った気がした。
私は、そう。死のうとしたんだ。私なんか、いなくなってしまえばいいと、そう思って。彼の呪詛を聞きながら。さっき拳登にやられたみたいに、自分で、首を絞めた。
目の前が真っ暗になって、なにも見えなくなった。これで楽になれる気がした。
だけど。
彼の呪詛に紛れて……どうしてだろう、私を止める、彼の声が聞こえた気がしたんだ。
なにやってんだよ、どうして、もうやめてくれ、って。最初は小さかった声は、だんだん、大きくなっていく。そしてついには、呪詛をかき消して。
『そんなことするなよ……! 頼むから、やめてくれ!』
懇願するような、声。呪いのような声をかき消したということは、こちらの方が、拳登の、本心なのだろうか。
……私、いてもよかったのかな。
ふっ、と手の力が抜けた。
冷たい手が、私の手を首から引き剥がす。
あの時も、私を助けてくれた、冷たい手……。
その次の瞬間、突然大量に入ってきた空気に、私は咽せてしまった。目の前は、涙で滲んで、なにも見えない。
でも、あの冷たい手が、咳き込む私の背を撫でてくれた。
『大丈夫か、優子?』
——空耳だと、思った。
だってその声は間違いなく、拳登の声だったから。
……でも。
『聞こえるわけがないだろうけどさ。見えるわけもないだろうけどさ。……でも俺は、お前に死んでほしいなんて思ってないよ。生きていてほしい。幸せに、なってほしいんだ』
涙で滲んでいた目の前が明瞭になると、そこに人影が見えた。そして、その目が闇に慣れてくるにつれ、目の前の人の特徴が明らかになっていく。
……目を、疑った。
「……拳登?」
目の前に、彼が、いる。
「ねえ、拳登なの……? ここに、いるの……?」
『ああ、いるよ……えっ?』
拳登は、目を丸くした。
『お前……見えるのか? 聞こえるのか?』
「うん。聞こえるよ……見えるよ!」
今度はうれしさで、視界がゆがんだ。
「嬉しい……拳登にもう一度会えて、話せて、私……とっても、とっても嬉しい!」