一人の死者
先に言っておきます。
この部分はホラー要素ゼロです。
ふと、目が覚めた。
最初はぼんやりとしていた。けれど、目が覚めたと気付いたその時、込み上げてくる喜びをかみしめた。
だって俺は、病院で寝たきりだったから。それはもう、本当に長い間。
だから、純粋に嬉しかった——最初だけは。
あたりは、真っ暗だった。普段なら窓から光が多少は入ってくるはずなのにな。でもまあ仕方がない。目が慣れてくるまで待つか。
――暑くないな、布団の中なのに。この時期なら、こんな分厚いもんかぶってたら汗かくに決まってるのに……。
とりあえず、布団から出るか。今は暑くないにしたって、この先、布団の中で熱中症になっても困る。目も慣れてきたところだし。
よいしょ、と呟きながら、ベッドを降りた。
そこでようやく、何かがおかしいことに気づく。
まず、布団。今の時期はこんなに分厚い布団なんて使わないってこと。
次に、ベッド。病室のベッドみたいに転落防止の柵なんてない。
さらに、部屋。この部屋には、普通の病室のような窓はない。
そして……俺自身。
俺はベッドを降りた。なのに、そこには、俺がいた。
目を閉じたまま、今までしていた点滴をせずに、静かに、横たわっていたのだ。まさかと思い、試しに触ってみると、死後硬直が始まっていた。
……そうか。
俺……死んだのか。
俺は、随分前からこの病院に入院していた。難しい病名だったもんだから、ポンコツな頭しかない俺は名前を覚えてらんなかった。ただ分かっていたのは、とても珍しい病気だったこと、気分が落ち込みやすくなるってこと、あとは、記憶力が落ちていくってことだけだ。
――俺は確かそう、二年半前くらいにここに入院し始めた。最初は何故かひたすら不安で、何をしても楽しくなくて。心が不安定になりだしたんだ。
そのあとは、突然歩くのが下手くそになった。手もうまく使えなくなった。身体のあちこちが、俺のいうことを聞かなくなった。そんな俺を見た優子――彼女が俺を病院に連れて行った。
そして、俺の入院生活が始まった。
優子は毎日お見舞いに来てくれた。
「なあ……俺、病気、治んのかなぁ」
「絶対治るよ! 拳登、大丈夫だから!」
優子はいつでも、落ち込みがちだった俺のことを励ましてくれた。
でも、病気は悪化していくばかりだった。
……きっかけはそう、あの日の喧嘩だったのかもしれない。
「やっほう! 遅くなってごめんね、拳登」
その日、優子は普段よりも遅い時間にやってきた。走ってきたのか、短くてパーマが軽くかかった茶髪を揺らしながら。
「心配したよ! 昨日はお見舞い来なかったしさぁ……」
病気のせいもあってか、余計に心配し不安になっていた俺に、優子はそのつり目を丸くして、言った。
「えっ? 私、昨日もお見舞い来たじゃん」
その言葉が、信じられなかった。俺の記憶には、なかったから。
「嘘だ、来なかったよ!」
「いや、来たってば!」
半ばヒステリックになった俺に優子はキレて、口論になった。
――今思えばあれは、記憶を失う始まりだったのかもしれない。
それからというもの、俺は、砂時計の砂が落ちるように、少しずつ記憶をなくしていった。
ついさっき食べた食事のこと。かつての友人のこと。長らく会っていない両親のこと。そしてついには、毎日会いに来てくれていた優子のことまで、忘れてしまった。
「拳登、お見舞いに来たよーっ」
「……!」
病気のせいもあったのか、見知らぬ人が入ってきた恐ろしさに、怯えた。優子は、そんな俺の異変に気付くのが早かった。
「拳登、どうしたの?」
「――お前は、誰だ」
優子の表情が、凍りつく。
「誰なんだ……っ」
怯える俺の声に、優子は、ぼろぼろと泣いた。
「――驚かせてごめんね、拳登……。私は、優子。あなたの……」
そこで突然、言葉に詰まった。あなたの好きな人、とは言わなかった。愛する人、彼女、とも。その代わりに、優子は。
「……あなたのことを、大切に思っている人」
俺の混乱を避けるためなのか、視点を変えた言い回しをしてきたんだった。
その後のある日、俺は自分の名も忘れた。優子に呼ばれても、それが分からなくなったんだ。
「私は、優子。あなたは、拳登」
毎日毎日、繰り返しそう言ってくれた優しい声と、悲しげな目は、忘れられない。
その声と目に応えようと、俺は毎日復唱したものだった。
「お前は、優子。俺は、拳登」
すぐ忘れてしまう頭に、記憶を刻み込もうとした。
でも、それすらも出来なくなった。
ある日気が付いたら、俺の精神は追い出され、命の残った身体だけが、ベッドの上に残っていた。ちょうど、今のような感じで、俺は自分を見つめてたんだ。ただ今と違うのは、まだ生きてはいるからか、起きたり眠ったりしたこと。それだけの違いのように思えた。
記憶の障害や心の不安定さは、やっぱり病気のせいだったらしく、精神だけの俺は全て記憶を取り戻していたし、不安になりすぎることも、歩けないこともなかった。ただ、精神だけの存在を、優子が見れるわけがない。
何も喋らず、何を考えるわけでもない俺の身体の手を取り、優子は泣いていた。ひたすら目を開けて閉じるを繰り返す俺のことを、ずっと待っていてくれた。俺は何度も身体に戻ろうとした。戻って、泣くなと言ってやりたかった。
泣くな優子。俺はここにいる。お前のそばにいる。伝えたいことが沢山あるんだ。
でも、戻ることは出来なかった。
その状態が、二年続いた。
そしてある日、不意に目の前が暗くなった。激しく咳き込む声が聞こえた。でもその音すら、だんだん遠ざかっていく。
――もうだめだ。
死を悟った俺の頭に、その言葉が浮かんできて。
――さよなら、優子。
俺は、死んだ。