閉鎖的アポトーシス
解離
ふと考えた。
もしかしたら生きている人間は自分しかいないのではないか。自分以外は所謂哲学ゾンビのような、この世界を廻すパーツに過ぎないのではないかと。
勿論、私は様々な人の感情や価値観を見て、そのどれもが私と異なっているのを知っている。それでもやっぱり私以外が生きているという実感が湧かないのだ。
画面の奥のコメディアンも、ふんぞり返る権力者も、床に臥した老人も、今まさに生きようともがいている病人も、愛してると囁く彼も、隣で語らい笑う級友も、皆が生きているということが実感をもって理解が出来ないのだ。馬鹿げたことであり、愚かな事だとも思う。だがやはりどうしても納得がいかない。
この疑問を解決するにはもしや殺人が効果的かもしれないが、その為に自らの手を血に染めようとは思わない。
だから、この問をただ風の便りとして投げ込んだ。或る人は自分の為だけではなく、生きている人全ての為に憤慨した。或る人はお前は全く人を愛したことが無いのだと吐き捨てた。
私はこれに相槌を打ちながら自分に向いた感情を見て、成程確かに人は生きているのかもしれないと思った。自らにはない考え方に舌鼓も打った。だがやっぱり確信までは至らないのである。なんと傲慢な我が脳髄か。人を人とも思わぬ畜生よ。それならば果たして自分は生きているのか。これは生きてると実感をもって言えるのである。
振り返って私は気づいた。パーツから外れたからこそ、今の私がいるのではないかと。そしていつかこのパーツに戻ることを望んでいるのではないかと。