少女のコメント
決して、印刷、出版される代物でないことは重々承知していた。わずか三十人ほどの読者諸兄に向け書き綴るのが単なる自己承認欲求を満たすためであり、あくまで趣味としての文筆活動だと言い聞かせるのが常だった。ここで、三十人ほどと推定を及ぼしたのは、小説を発表しているブログのアクセス数からそう考えたに過ぎない。ただ、ブログとFacebookを同期させていたから、少なからずその内の数名は私の、そこでの友達と称されるコネクションであったのも確かだ。
いつものとおり、ブログにアップした。と共にツイッターとフェイスブックにもそれが反映される設定にしていた。そして、少女から寄せられるコメントを待つのだった。その少女とはまさにFBでの友達で、それを介してコメントなどをやり取りする以外何もしない間柄だった。もっともここで彼女を少女と、しかも、早熟な文学少女であるとの考えは、私自身が描いた理想というべきで、いわば、推察の域にとどまるものだった。それというのもプロフィールに誕生日は記していたものの、生まれた年はそうしていなかったし、写真もどうやら飼っている猫の様だったからだ。ただ、そのコメントの醸し出す雰囲気にあどけなさがあったため、年端のいかない御仁であると考えたのだ。他方、私の作品を褒めそやす点は、男女の機微の描写、抒情性といったもので、もし、想いのとおり思春期にある女性であれば、かなり早熟であると考えられた。そうして、彼女を思い浮かべるうちに空想とも妄想ともつきかねる次第となっていた。そう、彼女のはにかむ仕草やそこにたたずむ清純さや清廉さが、かつてあった青春の、あの特有の甘酸っぱくある事象の象徴であるが如くに彷彿とさせるのだ。しかし、悲しいかな、それは、自身と乖離した、体験に基づかない事象だった。青春を振り返り感じるのは惨めさだけだった。それもこれも不器用で、異性にまったくいいところが見せれなかったからだ。一方、その無様さが、どことなく愛着を感じずにいられないのも確かで、むしろ、こうあってかく然るべきだと思うぐらいとなっていた。
だが、今や、たとえ想像の中にあっても若いみそらの御仁からコメントをもらうのは優越感をもたらし、今や癒やしでもあったのだ。この気持ち、ある意味、上気というか、悪乗りは、畢竟、大胆にも、その彼女に会いてえみたいという欲求を育んでしまったのだ。そういえば、私の作品で、恋人と食す苺のショートケーキの叙述に関心を示しコメントを寄せてくれたのを思い出したのだ。
―確か、苺のショートケーキにコメントをくれたが、好きなのかい。―
私は、メッセージを利用したのだ。どうしてもコメントの返信だと格式ばり、儀礼的に陥るからだ。やや、上から目線であったが、包容力をにじませる文面にしてみようとした。だが、これに対しては何も返信が来なかった。やはり、早熟なのか。このいつもと違う雰囲気に某かを察したのだろう。