林檎の木
一本の林檎の木があった。
最初は若く、小さな木だった。自然の恵みを一身に取り込み、長い時を経て花を咲かせ、実をつけた。季節が巡るたびに果実は陽光を反射するほどに熟していた。いつしか大きな木となっていた。
なだらかな小高い丘の上で葉と花と果実のループを繰り返している。
◇
最初の客人は幼い少女であった。
食料探しと薪拾いをしながらここまで来たところであった。ここには薪がなかった。遠くまで来すぎたか、という不安もあった。
ぼろきれをまとっただけのみすぼらしい格好の少女は林檎の木を見つけ、裸足のまま駆け寄った。近寄ってその大きさを実感し、呆けたように口を開けてそびえ立つ巨木にたわわに実る林檎を見上げた。
──欲しい。文字通りの純粋な渇望がそこにはあった。青々とした葉が喉の渇きと対照的で、それをさらにかきたてた。
少女は欲望のままに手を伸ばすが、決して届くことはない。長い年月がそれを拒むだけの差を見せつけていた。少女は黙って物悲しげに自らの汚れた手を見た。木に登れるほどのたくましい手足ではない。棒切れのように細く折れそうでさえある。
物言わぬ木は少女を見下ろしていた。
少女が諦めて立ち去ろうとした時、一羽の鳥が林檎を取ろうとした。林檎は鳥には運べぬほどに重く、くちばしでつつくだけに終わったかのように見えた。しかし鳥が取ろうとしたその僅かな衝撃で、林檎の果実は枝から離れた。
「あっ」
かすれるようなか細いものではあったが、驚きと喜びの混ざった声をあげた。
ひとつの林檎が吸い込まれるように少女の手にすっぽりと収まった。まるでそうなることを待っていたかのように。鳥はすぐにいなくなってしまった。
少女の頬は手に持つ果実と同じように赤く染まり、目は潤んでいる。
林檎を手に入れる前は、手に入るとは思っていなかったために自分で食べることしか考えていなかったのだ。目先の渇きに唆されて、ただただ手を伸ばしただけであった。
しかし、林檎が現実となった今は、彼女の胸中では二つの感情がせめぎ合っていた。
彼女には病弱な母がいた。同じ村の人からはもう長くないだろう、もって数年だと言われていた。それでも治せはしないかと、駆けずりまわったが治せる医者も、治す薬を売っている商人も見つかりはしなかった。
普通に考えれば、林檎一つ渡したところで治るはずがない。彼女の病気は慢性的なものではあるが、体の抵抗力でなんとかなるようなものでもないのだから。その林檎を見れば、誰もが少女に食べろと言うだろう。それは何より少女自身が言われてきたことであった。周りの大人に、母親自身にまで見捨てるようにと。それよりも自分が生きることを優先しろ。だから、ここで食べたとして喜ばれることはあっても叱られることはない。
しかし。少女は母親に元気になってほしかった。そんな母親への愛情が、林檎を口に運ぶことを躊躇わせた。誘惑と愛情の板挟みにあいながら口元を微かに歪めた。
もう一度、木を見上げた。柳の下にいつもドジョウがいるわけではないように、林檎がもう一つ落ちてくることはなかった。
「どうしよう」
彼女はしばし迷い、そして大事そうに林檎を抱えて丘を下りていった。
◇
次の客人は男の旅人であった。
外套で身を隠すようにした、涼しげな雰囲気の男性だった。
「本当にあったんだな……」
丘の上には林檎の木がある。
彼はふもとの村で聞かされた少女のたわいない話をお伽話や言い伝えだとばかり思っていた。他の村人に聞いてもそんなものは知らないという。それに、大きな木だからあることがわかっても取れないと少女は言った。そんな大きな林檎の木があるものか、と。
一本だけ。しかも林檎の木にしては随分と大きな木であった。もともと育てる林檎の木は成長を阻害しているとはいえ、それでもまだ大きいように思えた。
彼は迷うことなく弓をつがえて、林檎を打ち落とした。
落ちてきた林檎を手で掴み、木の根元へと腰掛けた。
「友人にも教えてやろう」
嬉しそうに呟くと、とれたばかりの林檎にかぶりついた。シャクシャクと音がしてみずみずしい果汁が口一杯に広がる。果実特有の甘い香りが鼻腔をくすぐり、喉を果肉が通っていく。このあたりは池まで少し距離があるために、水は貴重である。だからこそ彼は村では水を遠慮した。喉はすっかり渇いており、林檎の潤いはこれでもかと彼の胃袋さえも責め立てる。体に行き渡る糖分と水分に心地よさを覚えつつ立ち上がった。
「自然の恵みは最低限に享受しよう。また今度は花が見たいものだ」
そう言ってまた丘を去っていったのであった。
変わらず残ったのは林檎の木だけである。
◇
次の客人は商人であった。
小さな馬車を御者と馬に牽かせていた。立派なヒゲに恰幅の良い肉体、身なりの良さが彼に経済的な余裕があることを示していた。
「おい、ハシゴをおろしてくれ」
馬車から降りて中にいる使用人にそう言うと、噂の林檎の木を見た。
なるほど大きい、と商人は納得した。そしてこれが見つからなかった理由も察することができた。
「ここに来る理由がないのだろうな」
「でしょうね」
とはいえそのうち見つかるだろうと思った。
だが、たった一本。しかも高くて取りづらい林檎の木のためにわざわざ足を運ぶ利益がとれほどのものか。頭の中で計算して採算が取れないと結論付ける。もっとこの近くが有益な交易路であれば。そんな無意味な仮定と共に、この場所に利益を求めることを諦めた。
「どうせここにはついでによったようなものだしな」
そう言ってハシゴを使って林檎をとった。
幾つかもぎ取って、背中に背負える程度のカゴがいっぱいになったところで止めた。
「あまり取りすぎると、出処を聞かれてややこしいですからね」
そう言う御者の言葉もあながち間違いではない。
「本来の商品は薬だからな」
あまり果実を売り物としてアテにされても困る。と付け加えた。
そしてカゴを馬車に積んだ。馬はちらりと林檎を見たが、すぐに興味がなさそうに足元の草をむしゃむしゃと食べ出した。
それを御者が止めて、またゆっくりと丘を馬車が行った。
◇
最後の客が来るまでにまた時間が経った。
十年、二十年と経ち、いつしか林檎の木にも衰えが見られ始めた。たわわに実っていたはずの林檎も数を減らし、以前のような生命の息吹は感じられなくなってきている。
最後の客人は少年だった。翡翠色の瞳に灰色の髪は親だけが愛した異形の容姿。だが顔立ちだけは恐ろしく整っていた。美しく、そして優しく儚い少年であった。
その桃色の唇に触れられるならば、さぞかし林檎も幸福であろう。もしも木に親心などがあれば、そんなことさえ思っていただろう。
揺らぐような大きな双眸が林檎をとらえた。
少年は迷うことなく、木をひょいひょいと身軽に登っていった。木の枝も折れることなく、少年は林檎を手に入れることができた。
少年にはもう家族はいない。
ならば林檎は少年の糧となるのか。
そうではなかった。
少年は木から少し離れて陰にならない場所を探した。
「ここなら大丈夫かな」
彼は骨ばった痩せぎすの手で、赤紫色の土を掘り返していく。頭が入るかどうかとうほどの穴を掘り終えると、両手が土に汚れていた。彼は申し訳なさそうに林檎を手にし、穴の底へと置いた。
食べないのか。少年は木にそう聞かれた気がして答えた。
「僕はここに恩返しをしにきた。お母さんが助けられたって。けどね、全然返しきれないんだ」
そう言って悲しげにまつ毛を伏せる。
土で林檎が見えなくなり、丸くそこだけ土の色が変わっていた。
「でも、僕がこうして埋めた林檎が、いつかまた大きくなって」
愛おしげに埋めた場所を撫でた。
吐く言葉全てが静謐なこの場を支配するように溶けていく。
「そしたらまた、恩返しができるかな」
少年は誰かから聞いたような唄を口ずさんだ。そして柔らかく微笑む。
木はその別れを惜しむように揺れた。少年はその感覚を風のせいだけではないと目を見張る。だがその驚きもすぐに柔らかな微笑みの中に消えていく。
じゃあまたね。それはどちらの声だったのだろうか。そもそも本当に言ったのかさえわからない。ただ、木と少年の間にはそんな別れの挨拶があったのかもしれない。
◇
今も詩人たちの間で語り継がれる林檎の木。
少年が去った後、少年が埋めた林檎だけがすくすくと育った。
林檎の木は種を落とし、新たな世代へと命を繋いだ。
木は自然の恵みを受け、そして人へと与える。人はどれだけ返せているだろうか。
そうして命は巡っていく。
そしてその詩人たちはいつも同じよう締めくくる。
"少し場所は変わってしまったが、今もそこには大きな林檎の木が生えている。"
そんな風に。