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白い雲の上から

さしあたっての第一話。

とてもよくある一人の男の話。

 〈死〉とはなんだろうか。

 〈死〉とは自らにおいて全ての終わりであり、それと同時に全てが消えるのであるとすれば、人間があくせくと生きるために働くことは、人生において何かを成そうとすることは無意味ではないのだろうか。その考えはまるで呪いのように、生きる意味を見失った人間を縛り、そしてぐるぐると振り回す。負のデフレスパイラルのようにぐらぐらと、ぐるぐると。


 今、ここにとある男がいた。いや、今というのもここというもの正確ではないのかもしれない。何故なら彼は既に死んでいるからだ。男は〈死〉というものを理解していなかった。壮年期。子供も結婚して、もうすぐ孫ができるかもしれない。昇進もあったのかもしれない。


 男の人生は決して悲惨なものではなかった。真面目に会社に勤めて早三十年。退職後のことを考え始めたり、老後の保険に入ろうなどと相談し始めてしまうようなそんな時期。順調で、幸せであったのではないかと自負していた。


 だからこそ、突然の死は現実にあったことときて実感できていなかったのだ。

 彼がが死んだことに気づいたのはいつだろうか。顔のよくわからない誰かにここに案内される途中だろうか。それとも白いふわふわとしたここに来たときであったろうか。


 兎にも角にも、彼は死んでしまっていたのだ。

 足元には白くて踏みごたえのない何かが延々と広がり、向こうには山脈のような雲が縷々として続いている。現実味ものないそんな空白に目を奪われる。


 ここに案内した者はここを次のように称した。


「貴方達の言うところの<天国>や<極楽浄土>といったところですか」


 刺激も、何もない世界。自由の代わりにそれ以外の全てを失ったような風景であった。

 足元の白い何かの隙間には時々穴のようなものがあいている。腕だけが入りそうな大きさで、落ちるはずもなければつまずくこともなさそうな大きさの穴だ。

 男は、ポツリポツリとあいた穴は何かとここに案内した何者かに尋ねてみたことがある。

 すると何者かはそっけなく、


「見ない方がいいですよ」


 とだけ言い残した。


「どうして?」


 と聞き返しても、


「精神衛生上の問題ですよ」

 だとか、

「単にオススメなだけで見たところで何も変わりはしません」


 と曖昧で抽象的な答えで濁されてしまった。

 絶対見るなと言われれば見たくなるのが心情というものだが、そうして微妙な返答をされると逆に覗きにくくなるものだ。

 それさえも計算していったのだとしたらお手上げだ。

 彼はここにきて長い間、それを見ることなく過ごしてきた。


「つまらない。何もないな。生きがいも、夢も、希望も目標も」


 死んだときのイメージとは強いもののようで、そして人間の精神とは強いイメージにひきずられるようだ。男は死んだ当時の姿のままであった。髭の剃り残しが少々、それ以外は青くなっている。くたびれたスーツにネクタイのおまけ付きだ。


 排泄も食事も必要ない。

 ただただ心地よいような理由のない幸福感のようなものだけが彼を包んでいた。

 だけどそれは理由がなければなんの意味もない。

 彼は気づいてしまったのだ。理由なき幸福は慣れてしまうと苦痛であると。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 昼も夜もない、病気も老いもない。永遠のような純白の中で彼は疲れていた。

 ふと目に入ったのが例の穴だ。

 刺激のない世界であれを見れば刺激を得られるかもしれない。

 どうしてあれを見ないように言ったのだろうか。そんな疑問が彼をさらにせきたてる。

 もしかしてとてもいいものだから見ないように言ったのだろうか。そんな風に勘ぐってしまうのもしょうがないだろう。

 とにかく彼は退屈であったのだ。


 〈死〉が〈無〉であるなるば、いっそ意識もなくなればよかったのに。

 そんな風にさえ思ってしまっていた。


 彼はとうとう誘惑に負けてしまった。

 アダムとイブがリンゴを食べたときも同じような感覚であったのだろうか。

 一歩、一歩と近づいて周りに誰もいないはずなのに思わず確認した。足元にぽっかりとあいたその穴の隣にしゃがみ込み、顔を近づけた。


 覗いてしまってから、なるほどこれは後悔すると思った。

 あまりに予想しなかった、期待外れのようでいて、退屈だけは紛らわせるような光景に思わず息をのんだ。


 そこには多くの人がいたのだ。


 お互いが励ましあったり、喧嘩したり、騒ぎながら何かをしていた。それは拷問のようであったり、宴会のようでもあった。荷物を運ばされている者もいた。何かを美味しそうに食べているものもいる。薄汚れた格好で、疲れた様子の彼らは確かにそこで何かをしていた。


 羨ましい。


 それが彼がその光景を見た時の最初の感想であった。

 彼らの中には自身らの何かを叫ぶ者もいた。だがそれさえも、贅沢なのだと感じられた。彼らはお互いに励ましあい、笑いあい、元気づけあっていた。


 何もない、自分とは大違いだ。


 だがそれは彼が悪いのではない。だってここには人と呼べる者などほとんどいないのだから。

 ずっと前に試しにどこまで行けるか試してみたことがある。どこまで行っても終わりはなかったし、どこまで行っても戻ってくることができた。


 だが彼らは?

 狭い部屋で寝転ぶ者。

 何かを必死に作っている者。

 怪我をしたり、病気で寝込んでいる者もいる。


 なんと酷い生活か、と。


 だがそれ以上にその生活を楽しんでいるようにも見えた。



 彼らはいったいなんだろうか。

 ぐるぐると頭の中に渦巻く疑問はとどまることを知らず、彼の考えはそのことでいっぱいになった。思えばここに来てから一番幸せな時間だったのではないだろうかと彼は思った。少なくとも、この答えが出るまでは自分は目標があるのだから。


「お久しぶりですね」


 またあの存在がやってきた。イメージのないことが印象と言わんばかりに、笑っているはずの顔も笑っているようには見えない。そんな存在。


「あれはなんなんだ?」

「あれ、とは?」


 ここに来てまでしらばっくれるか、と憤るも、彼は本当にわからないのだと察すると一気にまくしたてた。


「あの穴だよ! あの穴の向こうには楽しそうな光景が広がっているじゃないか。やはり私は何も成せなかった小人物としてこの何もないところに連れてこられたんだろ?」


 掴みかからんばかりの勢いで肩を揺さぶる。


「そうなんだろ? 本当はあいつらが何かを成した立派な奴らで、もう一度チャンスを与えられたんだろ? どうなんだよ!」


 目をパチクリとして聞いていたそれは、ふう、とため息をついた。


「はあ、アレを見たんですね」


 それは残念そうに、呆れて言った。


「もう一度よく見てください」


 そう言われ、落ち着いて冷静にその様子を見ようとした。


「それを乗り越えようと結託するのは、苦しみがあるから。

 あんな酷いものを美味しそうに食べるのは、空腹があるから。

 そこから逃げ出そうとするのは、自由がないから。

 その中で頑張っているのは、限界があるから。

 健康を喜ぶのは、病気や怪我があるから」


 その眼下をひしと指差し、トドメにこう言った。


「全ての害があそこにある。あの場所こそがあなた方が生前の世界で呼んでいる地獄というものですよ」

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