『浅草ポンペイウス』
ポンペイウスの首が塩漬けにされ、カエサルの元に届けられた時、カエサルの物はカエサルに、という言葉の意味を、首を失ったポンペイウスは吹きさらしにされた斬頭台の片隅で考えていたが、そもそもポンペイウスの首がカエサルの物であるならば、その体もカエサルの物であるべきであって、はたしてポンペイウスの物であるかどうか甚だ疑問に思うところであるが、
「ポンペイウス、久しいな」
などとクラッススがほざくものであるから、ポンペイウスとしてもここは嫌味の一つでも言ってやろうと思い、
「なんだお前、首はどうした?」
と口に出してはみたものの、どうにも、それは自分のことでもあったらしく、クラッススのやつはからからと笑い、玄関先に饅頭を一折置いて帰っていったのだが、まぁ要するに、今ポンペイウスが食っている饅頭はクラッススのそれである。
二つ、三つばかし口に放り込んでむしゃむしゃと食っていると、
「本多さぁん」
と、下宿先のおかみさんが呼ぶため、声を出して返事をしようとするも饅頭が口に入っているために、なんですか、の一声さえ出ない。仕方なしに窓を開けて首を出し、ぱんぱんと手を叩いて居所を示すと、おかみさんもポンペイウスの姿を認めて、手を上げて、その手の中にあるものをひらひらとしてみせたので、ポンペイウスは合点して階下へ降りていった。おかみさんからそいつを受け取り、んぁいあおうんぉあいあう、と礼を述べるが、それにしても、クラッススのくれた饅頭の皮がいやにもちもちしているな、などと思いつつ部屋に帰り、そいつの表面に書かれた達筆と言えなくもない文字の羅列を見た。
「カエサルのやつ、ついにクレオパトラを落としたらしいぞ」
というクラッススの言葉を思い出し、なるほど、クラッススのやつが言っていたのはこれのことだったのか、と納得しつつ饅頭をまた一つ口に放り込んだ時、いやこれは既に饅頭ではないのだという事実に気づき、急いで口から出して箱の中へ戻した。この食いかけの饅頭はその時の饅頭である。
「仕事をやめたんだ」
とクラッススが言いにやってきたのは一週間前のことで、それからろくに仕事を探す素振りも見せず、二日に一度はポンペイウスの部屋にやってきて、適当に軍人将棋をさして帰っていくのだが、その悠々とした態度を見る度に、
「お前も偉くなったものだな」
と言ってはみるものの、クラッススは意に介さず、微笑を浮かべて何も言い返さない。大体、仕事をやめたと言うが、やめる仕事があっただけでも恵まれていたというのに、クラッススのやつはそれを理解しているのかいないの、まったく知ったこっちゃないと言わんばかりに遊び呆けているわけで、随分前からクラッススの身分であったポンペイウスにとっては勘弁ならん思いであった。ブリキの缶に入っている全財産が尽きれば、いよいよ友人との信頼関係を切り売りしなければならないだろうな、と高をくくってはいるものの、できればそうならないことを願っているポンペイウスにとって、クラッススがポンペイウスと同じ底へ落ちていくのではないかと危惧感を抱かされるわけだが、それはそれとして今日の晩飯である。饅頭一個半。それがポンペイウスの晩飯であった。
ポンペイウスが晩飯を食っていると、
「晩飯でも食いに行くか?」
とクラッススが言うため、ばかやろう、てめぇ、晩飯食ってる人間の前で晩飯食い行くかだと、なめてんのか、表へ出ろい! と言いたくなる気持ちを抑えつつ、
「どこに?」
「浅草あたりに出ようかと思っているんだ」
「なに、浅草に出るのか」
などと平穏な会話を試みるも、ブリキ缶の中身が気になって、中を覗き込もうと考えるも、丁度クラッススの背に隠れているために覗くに覗けず、仕方なしに理由もなくクラッススを蹴飛ばして、冗談冗談と笑いつつブリキの中を確かめる。安い飯屋であれば問題なかろうと思い、部屋を後にしたのが夕刻のことである。
安い飯屋で五銭の定食を注文し、女給に水を頼むと水が来た。それを三杯ほど立て続けに飲み干し、クラッススにカエサルのことを訊ねると、
「なんでも偉いお役人さんの娘さんだそうじゃないか、上手くやったものだな」
などと暢気なことを言うので、
「やつは学生の頃からそうだった」
「あいつはいつも俺からノートを借りていた」
「俺だって貸したことがある」
「いつも三人でいたのに、あいつだけは上手いこといったな」
と学生の頃を思い出しつつ、何か愚痴の種はないものかと探し回るも、あいつは要領のいいやつだった、という至極どうでもよさそうな事実しか見当たらなかったところに定食が来た。
二人して定食をかっ食らうも、ポンペイウスは気が晴れるわけでもなく、悶々とした思いが募っていくばかりで、仕方なしに水を注文してはそれを飲んでいると、クラッススが唐突に切り出した。
「お前もクレオパトラを抱きに行かないか?」
「……何の話だ?」
「吉原のクレオパトラでも抱きに行かないかという提案さ」
という予想もしていないことに、どう返事をしてよいやら分かりかねていたものの、ブリキ缶をひっくり返して握ってきた全財産を考えると、吉原に行けないこともないが、行ったその後の生活が随分苦しくなるのは火を見るより明らかであったところ、日頃の鬱屈とした暮らしに嫌気がさしていたのか、ええいままよと返事をしてしまったのが運の尽きであった。
クラッススは吉原をよく知っているのか、浅草から通いの店まで道を迷うこともなく進んでいくわけで、その後ろをついて行くポンペイウスは、如何にして断ろうか考えてみるも、クラッススの歩みの早さと正確さに半ば焦燥感を覚えてしまい、まったく考えがまとまるより先に吉原の一画に辿り着いていた。
「あらぁ、倉野さぁん、いらっしゃぁい」
クラッススとやり手ばばぁは見知った仲と見えて、あれよあれよという間に奥に通され、緊張をする暇もなくクレオパトラの登場と相成った。
言ってしまえば、吉原のクレオパトラは伊達ではなかった。しかし、ポンペイウスは快楽の一方で、如何にして友人との信頼関係を切り売りするべきなのか、それを衣擦れの音と重ね合わせながら考えていた。
親譲の無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。おやじが大きな眼をして掌編を書いたぐらいで失敗する奴やつがあるかと云ったから、この次は上手く書いてみせますと答えた。どうも、自分です。
実はほとんど読んだことがなかったのですが、読んでみると夏目漱石の文章ってかなり面白いですね。現代人に読ませても十二分に通用するあの軽妙さ加減には脱帽です。