猫
――とにかく逃げなければ。
日没後、だいぶ時間もたった森の中を、男は必死に駆けずり回っていた。
頭上の冴え冴えと照る月は、鬱蒼と生い茂る木々に阻まれながらも容赦なく男の居場所を曝す。
息を切らし、身体の至る所を流れゆく汗もそのままに、男は走り続ける。
その時、男の行く手を人影が遮った。男をみとめるなり、すぐさま突進してくる。
男も怯むこと無く走り、殴りかかってきた人影の肉球をすれすれで避け、正拳のカウンターを腹にかました。もふもふとした毛の感触が一瞬、拳を撫で、人影はくの字で吹っ飛ぶ。
「すまん、申し訳ない、俺だってこんなことしたくない!」
叫びながら、頭上を見やる。太い枝の上から今まさに跳躍し、男の首を狙わんとしている連中の多さに、目を見張った。
逃走。男の取った選択肢はそれだった。一目散に駆け出す。木々の枝に傷つき、葉っぱを這う虫の感触に慄き、蜘蛛の糸に絡まりながらも、走る走る走る。が、夜の森はそうそう甘くはなかった。視界の悪さ故に見落とした木の根につまずき、盛大に転んでしまう。
この、転んだ体勢のままで一息つけてしまえばこれほど楽なことはなかったが、しかしそうもいかない。口に入った土を吐き出し、まだ転倒のショックから完全には立ち直れていないながらも身体を立て直す。
と、ふいに、手を伸ばせば届く程度の距離にある茂みが、音を立てて揺れた。
「ひっ」
――今度こそ追いつかれた。
明らかに自然発生する現象ではない。またしても見つかってしまったのだ。つまり、既に一匹はこちらを視ている。となれば、後に続く無数の"奴ら"によって、すぐに包囲されてしまうだろう。
今度こそ、止めを刺されてしまうかもしれない。
がさっ、と、真後ろの草木が音を立てた。
恐る恐る振り向く。同時に、無数の視線を感じる。明らかな、獲物を視るときの狩人のもの。
「覚悟するにゃあ、ご主人」
声と同時に、幾つもの人影がぬっと姿を現した。
頭の上部についた二つの三角形、柔らかな体毛、揺れる尻尾、対照的な癒しの肉球と狩りの爪。加えて、樹木の枝にも軽々と登る身のこなし。猫だった。
しかし、今、男を囲んでいる連中は人の形をしている。となれば答えは一つ。
「猫風情が人間に牙をむくか……」
口ではそう威嚇したものの、男は内心、焦りに焦っていた。この状況をいったいどうやって打破しろというのか。男の身体能力では、同時に相手するのは二匹や三匹が限界だ。
猫に睨まれた鼠の気分を、この時男は完璧に理解した。そして、だからこそ。
「窮鼠……」
飛び掛ってくる猫どもに、正面から向かっていく。
「猫を噛む!」
と、男はそこで目覚めた。寝間着は汗ですっかりびしょびしょだ。
男は汗の理由を探して、夢を思い出し、跳ね起きた。急ぎ玄関に向かい、そこですやすやと眠る猫をみとめると、とても深い安堵の溜息をついた。魂を吐き出さんとするかのごとくだった。
「安物のエサを与え続けるだけであんなにも激昂するものとは。せめて本物の猫は化け猫にならぬよう大切にしよう」
そう言って、男は猫を抱き上げ、暖かい布団の上に寝かせた。
「さて、朝飯だ。この子は俺と同じ焼き鮭で大丈夫だろうか、それとももっと何か好きなモノがあるだろうか……」
男が呟きながら出て行った後、寝室には猫の鳴き声が響いた。尋常な猫の鳴き声ではなかったが。
「人間なんてちょろいもんにゃ。ちょっと悪夢をみせれば御覧の有様にゃ」