迷子のハンナ
「わんわん!わんわん!」
左右に振られる尻尾を追いかけ、ハンナは走る。
今日はヒジリ製作のうさぎぬいぐるみのリュックを背負って、ハンナは兄と一緒に、夕飯の買い物に付いてきていた。
ぬいぐるみと同じ耳付きフードの茶色いコートは、寒さからハンナを守っている。
もこもことした塊が、転がるように犬を追いかける。
犬は少々迷惑そうに時折振り返りつつも、とつとつ、とリズムよく歩いていた。長く薄褐色の毛は泥に汚れ、やせているのに、腹だけが膨らんでいる。
そんな野良犬のどこが御気に召したのか。ハンナは手を伸ばし、追いかけるのを止めない。
人混みを掻い潜りながら、一人と一匹はどんどん街の端へと向かっていく。
ジョージは焦っていた。
買い物の途中、はぐれたハンナを探しに、アルトたちと三手に別れた。
もしかしたらと、路地裏に入ったのがまずかったのだろう。
気が付いた時には、既に遅く。
明らかに、柄の悪い男たちに絡まれてしまった。
「お前、あの白牙鬼のとこのガキだろう。あ?いい服着てんじゃねぇかよ」
一番年嵩の男が、ジョージの前に立つ。
左右を剣を腰に差した男たちに挟まれ、逃げ道を失う。
思わず後ずさるが、背を壁にぶつけ、これ以上下がることも出来なかった。
「な、何を」
怖い。
恐怖で、上手くしゃべれない。
だが、それでも。
伏せそうになる顔を上げ、視線だけは逸らさず。
ジョージは、今にも震えだしそうな自分の足を叱咤した。
「あいつ、だいぶ景気いいみたいじゃねえか。だからよ、俺たちにもちょっと位、分けてもらいてえなぁと思うんだが」
にやにやと、だらしない口元。
何て典型的な恐喝。
叫んで助けを呼べば。路地裏といっても、ほんの少し先は大通りで、人通りも多い。
きっと、誰かが助けてくれるはず。そうじゃなくても、アルトたちが気づいてくれれば。
そう思うが、実際自分よりも体格のいい男たちに囲まれると、心は恐怖でいっぱいだった。
ぐるぐると、空回りする思考。
かちゃりと、男たちの腰から聞こえる金属音に、背筋が震える。
母さん!
いるはずも無い、母に思わず助けを請う。
「何、ちょっと腰のもんをこっちにくれりゃいいんだ」
「なあ、お前、あいつの情人なんだろう?腰振って、おねだりしてんのかぁ?いいよなぁ、それで、贅沢できるんだからよぉ」
「平凡な顔だが、この黒い髪がいいのかねぇ。それとも下の具合がよっぽどいいのかぁ?」
下卑た笑い。
さげずみ、いたぶる言葉がジョージへと降り注ぐ。
言い返したい。
言いがかりだ、と。
勝手な想像はやめてくれ、と。
でも、ジョージの舌は恐怖で縮こまり、口は言葉を吐き出さない。
「ほら、どうなんだよ。ああ?」
青ざめた顔で、今にも震えだしそうなのに。
それでも視線だけは逸らさないジョージに、正面にいた男は苛立つ。
黒ずみ荒れた大きな手で、軽く小突き始める。
それでも、ジョージは喉の奥で呻くばかりで、まともな言葉を吐けずにいた。
からかうような軽い衝撃は、徐々に暴力じみたものへと変わる。
痛みに、恐怖が増していく。
怖い。
痛い。
怖い。
ぐちゃぐちゃとしたもので、体中が満ちていく。
そして、それは頭を叩かれたことでこぼれだす。
「……ぃぁだ」
「ああ?」
「い、やだ。嫌だぁ!!」
口を付いて出た言葉は、男たちへの拒絶だった。
「!?てめぇ」
男が、胸倉を掴む。
ぐぅっと、ジョージの喉がしまる。
苦しい。
一気に距離が狭まり、男の顔で視界がふさがれる。
怒りの眼差しに、恐怖を通り越して諦めが胸に満ちる。
「ふざけんじゃ、ぐが!?」
何かが飛んできて、胸倉を掴んでいた男の手が外れる。
閉められていた喉に、一気に空気が流れ込みジョージは咳き込む。
「な、何だ?」
何かが当たった頭をさすりながら、男は物が飛んできた方を向く。他の男も何事かと顔を向ける。
人影。
誰も制止する間もなく、それは動いた。
「がぁっ!?」
一番通りに近い男が、衝撃に悲鳴を上げる。
手本のような踵落しが、男をひれ伏せさせた。
「よお、小僧」
振り下ろした足をそのままに、デュークが笑う。
顔を半分仮面で隠しているにも係わらず、誰がみてもはっきりと分かるほど口を歪め、男たちを嘲笑していた。
「な、なにしやがぁぅ!!
足蹴にされた男がもがくが、ぐりぐりとそのまま地面へと強制的に仲良くさせられる。
「これ以上の助けが欲しくば、菓子を寄越せ」
「持ってません!」
「よし、夕飯をご馳走してくれるのでかまわない」
何がよしなのか分からない。
だが、ここで反論して立ち去られても困る。
ジョージは、結局恐喝されるのかと内心思いながら、デュークの言い分を飲む。
頷いて見せれば、デュークは満足げに鼻を鳴らした。
「てめぇ、ふざけやがって!」
無視された形の男たちは、顔を怒りに真っ赤にして、デュークへと剣を抜いた。
対するデュークは、丸腰だ。
服も寒さから厚着ではあるが、防御力など大して期待できはしない。
だが、デュークは笑みを崩さず、挑発するかのように、顔の横で両手を振った。
それは、この場でジョージにだけ分かるハンドサイン。
下がれ。
訓練所で、何度も見たそれ。
声が届きにくい遠方からでも、分かるように使われるそれ。
男たちは、気づかない。
れろれろと、舌までだしてからかうデュークの手の意味を。
男たちの視線がデュークへと注がれ、取り囲むように動く隙に、路地の奥へとゆっくりと静かに下がる。
振り下ろされる剣を交わすデュークは、歌いだす。
それを挑発と受け取った男たちは、罵声を上げながら襲い掛かっていく。
「!!おい、てめぇ!」
男の一人が、ジョージの動きに気づく。
が、伸ばされた腕がジョージを捕らえるより先に、不可視の壁がジョージを守るように立ちふさがった。
「な!?」
見えない何かにはじかれた男が、驚きに振り向けば、不思議な色をした水の鎖が視界に広がる。
その向こうに、歌うのを止めたデュークの姿が見えた。
仲間の男は、一人、また一人と、鎖に打たれ、地面へと崩れ落ちていく。
「魔法使い、だと!?」
自分以外、仲間が地に倒れ付す様に、男は顔が引きつるのを止められない。
「いいや、違うね」
驚愕する男を否定する。
「どこにでもいる平凡な教師さ」
笑いながら言うデュークに、男は剣を持つ手に力がこもる。
「そうかい。だが、いい気になるなよ。魔法使えんのは、てめぇだけじゃねえ」
男の笑みに、デュークの口元から笑みが消える。
「≪解呪≫!」
男の魔力が込められた声に、デュークの周囲の水の鎖が支えを失い、地面へと落ちる。
パシャリ、と、音を立て、足元に水溜りが生まれる。
それを合図に、男が間合いを詰め、切りかかってくる。
だが、デュークとて伊達に教官をやっているわけではない。
男の剣を軽々と往なすと、更に間合いを詰めて拳を当てていく。
男は、殴られた腹を片手で押さえると、壁際へとよろめく。
止めとばかりに、足を振り上げる。
が、何かに足首を掴まれ、デュークは動きを止める。
打ち倒されていた男の一人が、往生際悪く手を伸ばしていた。
足は目標を変え、振り下ろされる。
だが、それは大きな隙を生む。
「うおぉぉぉっ!」
壁にもたれていた男が、声を張り上げる。
足首は、弱弱しい力ではあったが、未だ掴まれていた。
「!!」
最後の悪あがきか。
男が振るった剣が、デュークの仮面を掠り、下へずらす。
「チッ」
体勢を崩しながら、デュークがパチンと指を鳴らす。
魔力の塊が放たれ、男の鳩尾にあたり、後方に叩き倒す。
壁へと、男の体が勢いよく打ち付けられる。
水気を含む嫌な呻きを吐くと、男はそのまま地面へと崩れ落ちた。
「つ、強い……あ、大丈夫ですか、デュークさ、ん!?
ジョージは目を疑った。
デュークの輪郭がゆらゆらと、ぶれて見えた。
男に叩かれた影響なのか?
慌てて目をこするも、ジョージの視界に映る光景は変わらない。
ただ、デュークだけが幾重にもぶれて見える。
それも、徐々に酷く、別人が数人重なって見え始める。
「おい、目がどうかしたのか?」
理解できない光景に目を覆い蹲ってしまったジョージに、デュークは驚き、声を掛けた。
顔を覗こうと腕を伸ばし、自身の腕がぶれて見えることに気づく。
「チッ!壊れたか」
仮面を外す。
すると、輪郭のぶれが無くなり、そこには美しい女性の姿があった。
服も髪も先ほどのデュークと同じものでありながら、まったくの別人がそこには居た。いや、仮面に込められていた力が、先ほど前でのデュークの姿を周囲に映し出していた。
重ね着の服の上からでも、分かる凹凸の有る女性らしい肢体。思わず見とれるほど整った容姿。長い睫に縁取られた瞳は、不思議な色を宿す。
「あー、またダークの奴に何か言われるじゃねぇか」
なのに、口から吐かれる言葉は、外見を裏切るいつものデュークであった。
「ったく。やっすいもんじゃねぇのに」
仮面を眺め眇めつ、悪態をつく。
足は、地面の小石を蹴り、倒れた男たちにぶつけている。
仮面に走る傷は、施された刻印を欠けさせていた。
「しかたねぇなぁ」
仮面を懐に仕舞うと、フードを深く被り、呪文を唱える。
「≪幻影姿≫」
魔力光がデュークの体を包み、消える。
後に残ったのは、いつもの仮面をつけたデュークの姿だった。
「で、お前は、いつまでそうしてんだ?」
目を覆ったまま、ぶるぶると小動物のように震えているジョージをつま先でつつく。
「ちょ、いた。いたい。え、あれ?ぶれてない!?」
ぱちぱちと、まばたきしながら慌てるジョージに、デュークは更につついて、立つことを促す。
「ほら、とっとと立って、他の奴と合流するぞ」
「え?」
「ちみっこ、探してんだろ?お前まで迷子になってんじゃねえかって、アルトが言うからな。あっちは、あいつらに任せて、俺がわざわざ迎えに来てやったんだよ。ま、迎えに来て正解って奴だな」
伸びている男たちを親指で指し示し、笑う姿にジョージも釣られる。
「そ、そうだったんですか。あ、ありがとうございます。……もしかして、アルトたちにも食事たかってません?」
にやりと、笑ったままデュークは答えない。
多分、たかっているな。
ジョージは助けてもらった手前、こらえはしたが、溜息をつきたかった。
「じゃあ、こいつらは俺が何とかしておくから、お前はとっとと、アルトのとこに行きな。いつもの菓子屋前だそうだ」
「あ、はい」
立ち上がり、泥の付いた足でつつかれ、汚れた尻を叩く。
先ほどまで怖い思いをした路地裏から通りに出て、待ち合わせ場所に向かう。
甘い香りが漂う店の前には、アルトたちが立っていた。遠くからでもはっきりと分かった。ただでさえ、大きなダークがフレートを肩車していたのだから。
ほっと安堵しながら、ジョージはアルトたちに合流した。
汚れていたからだろう。心配と労いの声を掛けられる。
そんなジョージたちのやり取りを遮るように、ダークが声を掛ける。
「最後にはぐれたのは、ここでいいのか?」
「あ、はい。そうです。ここでお菓子を選んでいる、と思っていたんですが」
アルトが肯定する。
肩車されているフレートも、こくこくと頷いている。
「媒体は何を?」
ザヴィエが尋ねる。
ジョージには分からないが、ダークが何をしようとしているのか察しているのだろう。
「血縁者がいるからな。まったく知らない相手でもないし、今回は、別に必要ないな」
「そうですか」
「では、ザヴィエたちは少し離れていてくれ。≪痕跡感知≫」
ダークが魔法を唱える。と、同時にダークの目元が淡く光る。
ぐるりと周囲を見回した後、ハンナの痕跡を見つけたのか、ゆっくりとダークが歩き出す。肩車はしたままだ。
ジョージ達ははらはらしながら、その後を追いかけた。
「……居た」
空が茜色に染まった頃。
街外れの空き地で、ハンナは見つかった。
ぬいぐるみを枕に、くうくうと木の根元で丸くなって寝ていた。
ぬいぐるみの背のファスナーからは、おやつにと持たせていた菓子がこぼれ、それをやせた犬が口にしていた。
ハンナを起こさぬように、ゆっくりと様子を伺いながら。
「ハンナ、よかった」
犬を刺激しないよう、ゆっくりと近づけば、犬はそっとハンナから離れた。
「ハンナ。起きて、ハンナ」
目覚めた後、ハンナは暴れた。
抱き上げて、連れ帰ろうとする皆の手を掻い潜り、大人しくしていた犬にしがみつく。
「きゃん!」
甲高い鳴き声があがる。
「わんわん。わんわんも!」
犬の尾を掴んで離さない。
「放しなさい!こら」
「やー!」
駄々をこね始めるハンナ。
抱き上げて、手を放すように言うアルト。
きゃんきゃんと、哀れな犬。
ジョージたちは、手が出せず、わたわたとしていた。
誰も帰ってこないので、不安になったヒジリが迎えにくるまで、そのぐだぐだとした三すくみは続いた。
結局、犬もヒジリたちもハンナに根負けする形で、連れて帰ることにした。
犬はオハナと名づけられ、薪置き場横の空き木箱が寝床となった。
オハナが身重だと気づくのは、もう少し後のことだった。