梁山好漢綺伝「鄭天寿、白き翼にて江湖を翔ける」
蘇州城下の東、木々の緑が水路にたゆたう古い街並みの一角に、常に若い女たちの声が絶えぬ店があった。
「鄭さん、今日は若旦那はいらっしゃらないの? 髪飾りを作ってほしかったのに」
「申し訳ありません、息子はどこかに出かけたようで」
「じゃあ今日は鄭さんにお願いするけど、次は必ず『白面公子』に会わせてくださいな」
と言ったかけあいが毎日のように飛び交うその店は、名を鄭銀匠と言い、四代続く銀細工の老舗であった。
店主の鄭石は、職人には似合わぬ色白の温和な優男で若い時分から評判だった。
さらにその一人息子の鄭天寿は、すらりとした上背に足腰は細く、白磁の如く白い肌に紅い唇、穏やかな眦は憂いを含んだように濡れ、玉の如きか仙女の如きかと誰もが口を揃えるような粋な容貌を持って生まれたものだから、当然、街中の女人たちを騒がせていたのである。
だが当人には女を虜にして悦に入る気配はなく、むしろ同じ年頃の少年たちが己の容貌を娘のようだとからかったり、勝手な嫉妬を抱いた見知らぬ男に突然因縁をつけられたりするので、せっかく持って生まれた美男子ぶりも迷惑に思っている有様だった。
「天寿や、いったいどこに出かけていたの? 新しい着物が泥だらけじゃない。まさか怪我でもしていないでしょうね」
店じまいの頃合いに、人目を避けるようにこっそり裏門から家に入ったとて、父を手伝い店の裏で立ち働いている母の目からは逃れられない。
「今日は、その……友達と、棒の稽古を」
「まったく、またそんなことを。手を怪我でもしたら商売ができないでしょう。遊ぶのもいいけれど、ほどほどになさい。そして、明日は必ず父さんを手伝ってあげるのよ。あなたの銀細工を買いたいと言うお客様が、たくさんいるのですからね」
「わかったよ、母さん」
天寿に、武芸をともに嗜むような友は――さらに言えば、心からの友人と呼べるような者などいない。
少し仲が良くなったかと思えば、お前といると女を取られてしまうだとか、鄭の息子と仲良くしていれば女と近づけるだとかそんなことばかりを言われるので、もはや親友を得るのは諦めている。
だから今日とて一人、街はずれの林で棒術の稽古をしていたのだが、そんなことを言えば心配をかけるので、いつもこうしてごまかしていた。
天寿は、黙々と銀細工の技を極める父のことも、朝から晩まで父を支えて働く母のことも、心から尊敬していたし、愛していた。
だが、このような時には――心配されているのが手の怪我なのか顔の怪我なのか、客に求められているのが己の作った品物なのか己自身なのか判然としない時には――、まるで己が籠の中の生き物にでもなったかのような、一抹の寂しさを覚えるのだ。
天寿にはかつて、夢があった。
幼い頃、何という名の鳥かはわからなかったが、濃紺色をした仲間の中で一羽だけ真白な体を持つ痩せた小鳥を、同じ年頃の子供たちが痛めつけているのを見かけたことがあった。
ちい、ちい、と悲しそうな鳴き声を上げる小鳥の姿を見た天寿は、白い頬に血潮を迸らせ、子供たちを止めさせようと勇んで駆け寄った。
「ねえ、ひどいことはやめてよ!」
「ハハ、鄭のとこの『おじょうさん』がきたぞ」
だが、体の小さかった天寿が背丈も重さも倍ほどもある子供たちに敵うわけもなく、今度は己が痛めつけられるはめになったそのとき、たまたま通りがかった馬上の麗人が、天寿を助けてくれた。
「寄ってたかって一人をいじめるとは、大宋国の男児の風上にも置けぬ小僧どもめ」
ぽかりと、今にして思えば随分と手加減された拳骨をくらった子供たちはしかし、我先にと逃げ帰り、あとには小鳥を胸に抱き、着物を泥だらけにした天寿と女将軍だけが残った。
「怪我をしているね、小さな好漢よ」
少女と間違われることも多かった天寿にそう笑いかけた女将軍は、ひらりと馬から飛び降り、鎧の隙間から取り出した美しい手巾で天寿の顔を涙ごと優しく拭った。
彼女は、かわいそうに、とも、泣くな、とも言わなかった。
ただ、天寿が小さな両手に包んだ小鳥の、その白い羽を指先でそっと撫でて「優しい小鳥だ」と言った。
「ごらん、君を慰めようと、小さな嘴で君の手をつついている」
「……この子は、ぼくが守ってあげるんだ」
「守る?」
「そう。おうちに連れて帰ってあげる。だって、外にいたら、またいじめられてしまうから」
女将軍は、ふむ、と考えるように小首をかしげた。
「この小鳥はきっと、君と同じくらい勇敢なはずだ」
「あ……」
天寿の手からそっと小鳥を掬い取った女将軍は、その純白の体を、仲間の鳥の近くに降ろした。
しばらく白い小鳥を遠巻きに見守っていた仲間の鳥たちはしかし、白い小鳥がふわりと羽ばたき、遥か高い木の枝に咲く花をついばんで舞い降りてきたのを見ると、まるで感心したとでも言わんばかりに、白い小鳥の傍へと集まってきた。
「ぼくに、くれるの?」
「きっと助けてくれた君に、お礼がしたかったのさ」
天寿の手のひらに小さな花を載せた白い小鳥は、どこか得意げにも見えた。
「この小鳥は確かに、仲間とは少し違うかもしれない。痩せて、弱く見えるかもしれない。だが、あんなにも力強く羽ばたくことができる。それに、こんなにも優しい心を持っているのだから、仲間たちともうまくやっていけるはずだ。それを籠に閉じ込めてしまっては、きっと窮屈な思いをしてしまうよ」
「……うん、そうだね」
仲間とともに地面に落ちた木の実をついばみ始めた白い小鳥の背を、天寿もまた指先でそっと撫でた。
「さあ、小さな好漢よ、行きなさい。もうすぐ日が暮れる。ご両親を心配させてはいけないよ」
「将軍さま、どうもありがとう。ぼく、いつかあなたのように、誰かを助けられる優しい軍人さまになりたい」
「誰かを助けるのに、何者であるかは大事じゃないさ。君は、君のままでいればいい」
女将軍はただ微笑み、それ以上は何も言わなかった。
「念慈、何をしている! 旅路はまだ長いのだぞ」
遠くから呼ぶ男の声に肩をすくめ、女将軍は再び馬上の人となった。
「兄上、今参ります!」
夕陽に向かって駆けていく女将軍の後姿は、幼い天寿の目にくっきりと焼き付いていた。
あの日からずっと天寿は、軍人になりたいという想いを胸に抱えている。
「お嬢さん」などとからかわれた己でも、武の技を磨いて強くなれば、国のため、弱き者のために、鎧をまとい馬を駆り戦うことができる――それはひどく尊いことのように思えた。
だからそれ以来、体が大きくなるようたくさん食べた。憧れた岩の如く逞しい体にはなれなかったが、いつしか均整の取れた長身を手に入れた。
武術も習った。最初に教えを請うた大道芸人は、天寿を少女だと思いこんでまったく取り合ってくれなかったので、その次からはわざと顔を煤で汚し、その上さらに頭巾や笠をかぶって顔を半分隠しながら、薬売りや寺の老師、さらには隠居した武術師範の道場まで、己に技を授けてくれる人を探し歩いた。
やがて、慎ましい白梅の蕾に似た美少年は、弱い者いじめをする男の五人や六人ならば、片手で軽く打ちのめすことができるほどのたくましい「白面公子」へと成長した。
だがその一方で、天寿はすでに、己の夢が叶う日はきっと来ないと悟ってもいた。
父で四代目になる鄭銀匠は、皇族に納める装飾品も任されるほどの老舗である。また、名声とは裏腹に代々慎ましい暮らしを送り、銀細工で稼いだ金は困っている人々のために惜しみなく使うことを信条としてきたので、郷里の人々からの信頼も篤い。
もしも一人息子の天寿が軍人の道を歩んでしまえば、先祖が守ってきたこの家は途絶えてしまう。
細かな手先の作業も多いこの仕事を幼い頃から教えこまれたが、決して嫌ってはいなかった。
どのような意匠にするか考える時間は楽しかったし、美しい細工が出来あがれば得意になり、喜ぶ客の顔を見れば幸せな心地になった。
そんな息子の姿を見た両親は、天寿が家業を継ぐことにまったく疑いを持っていなかった。お前は仕事の腕もいいし、心根も優しい、きっと鄭家は、ますます誉れ高い家になる、とことあるごとに言われては、まさか軍人になりたいなどと言いだせるはずがない。
遠い地で起こった戦の噂を耳にするたびに、戦いなど無縁のままでいられるに越したことはない、と肩をすくめる父の、その肩にかかる髪に日増しに白いものが混じるようになってくれば、もはや己の選び取れる道は一つしかなかった。
そして叶わぬ夢を心に秘めたまま時は過ぎ、天寿が十九才になったある日のこと、いつもは穏やかな水路沿いの職人街に、慌ただし気な足音が響き渡った。
「おはよう、鄭の若旦那。さっきの貼り紙を見たかね」
水路を行く船の船頭をしている謝波は、毎朝仕事の前に店の前を通って陽気に挨拶をするのだが、今日はなにやら、日焼けした顔にしかめっ面を浮かべている。
「見てごらん。このあたりに、賊が逃げ込んだらしい」
謝波に促され、朝の店支度もそこそこに通りに出てみると、似顔絵の描かれた御触れがあちこちに貼りだされている。読めば、金陵建康で暴れ回っていた山賊どもが、官兵に追われ、蘇州に流れ着いて身を隠しているのだという。
「朝から兵が走り回っていたのは、このためだったんですね」
「らしいなぁ。このあたりは景色もいいし平和だから、物見遊山の客も多い。こんな物騒な話が出れば、商売あがったりさ。若旦那、あんたも十分、気を付けるんだよ」
「ふん、こいつらを見つけたら、俺の剣でやっつけてやる」
「おいおい、あんたに何かあれば、鄭の旦那だけじゃなく、街中の女が悲しんじまうよ。争いごとは軍人さまに任せるのが一番さ。じゃあな」
船で鍛えた逞しい謝波の背中を恨めし気に見送り、天寿はため息を吐く。
(賊を見かけたら、俺が捕まえる。そのために磨いた腕だ)
その日は御触れのせいで職人街からもめっきり客足は遠のき、昼下がりになっても人影はまばらであった。
「まったく、賊だか何だか知らぬが、はやく捕まってほしいものだ」
「あなた、そうお嘆きにならなくても、きっと軍人さまたちが捕まえてくださいますわ」
すっかり暇になってしまった店先でぼやく父に、母が遅い昼餉を運んでくる。
「そうだわ、天寿、実は米を切らしてしまったの。今日はあまりお客様も来ないし、買いに行ってきてくれる?」
「わかった。いつもの店だね」
「ええ、気を付けて、暗くなる前に帰ってくるのよ」
母から銀子を受け取り、前掛の代わりにこっそり剣を帯びた天寿は、さっそく城門近くの米屋へと出かけた。
(なんだか、不気味だな)
普段は華やかな大通りにも、今日ばかりは重苦しい雰囲気が漂っている。行き交う衛兵たちの顔には緊張が走り、時折小さな声で何事かを囁き合っていた。
(賊が潜んでいるというのだから、しかたないか)
さっさと用事を済ませようと、天寿が馴染みの米屋の入り口をくぐりかけた、まさにその時、
「火事だ――!」
街のどこかで、悲痛な叫び声が上がった。
慌てて通りに駆け出し辺りを見回せば、驚いたことに、城壁の向こうから次々と赤い炎を灯した矢が降り注いでいる。
「な、何で、こんな……!」
戦の気配さえなかった平和な街に、何百もの人馬の足音が近づいてくる。城門に目を移せば、そこには信じられない光景があった。
「蘇州知府の寇新は、建康を脅かした賊と内通し、陛下に謀反を企てようとした大罪人である! 朝廷よりのお達しで、これより城下の捜査をいたす。賊をかくまったものは、一族皆殺しと思え!」
大勢の部下を引き連れ、得意げな顔で馬上にふんぞり返る男は、かつて寇知府によって汚職を暴かれ、蘇州を追われたはずの都監であった。
「ふざけるな! 知府殿は聡明な御方、言いがかりは」
血気盛んな若い兵士の言葉は、永遠に結ばれることはなかった。
返り血をあびた顔に昏い笑みを浮かべながら、都監は声を張り上げる。
「寇の肩を持つ者は、みな同罪だ! 今からでも遅くはない、お前たちも賊を捕らえるのに手を貸せ。そうすれば見合った地位をくれてやるぞ」
都監の部下たちが次々と街に散り、店であろうが家であろうが構わず押し入って、火をつけ始める。抵抗する民が、無慈悲に切り捨てられる。怒号と泣き声が、穏やかな水郷にこだまする。
「嘘だ……」
だが何よりも天寿の心を抉ったのは、先ほどまで街を守ろうとしていた兵たちが、都監の甘い言葉に唆され、その凶行に加わっていたことだった。
(俺たちを、守ってくれるんじゃなかったのか)
考えるよりも先に、天寿は駆けだしていた。途中、水路に折り重なるように沈んだ死体が目に入った。死体の中に見知った船頭の顔があったのを、見なかったことにした。今は、己の家族が大事だった。
だが、職人街に近づくにつれ、焦燥は絶望へと変わっていった。あちこちからあがった煙が、血の滴る刀を握った兵の姿が、何が起こったかを物語っていた。
「嘘、嘘だ」
工房の壁がすっかり崩れ落ち、屋根が傾いている。
大勢の娘たちを喜ばせてきた銀細工が、無残に踏みつけられひしゃげた姿で、道に散らばっている。
「父さん、母さ……」
「て、天寿!」
こちらに背を向ける兵士の、その右手の刀は、ぬらりと血で濡れている。
彼の足元には、先ほどまで優しい笑顔を浮かべていたはずの、この世で最も尊敬する女人の体が横たわっていた。
「なん、で……?」
ひたひたと、体中を巡る血が、冷えてゆく。
「なんだぁ?」
振り向いた兵士は、笑っていた。
「おい、こいつは誰だ」
「む、息子です! 私の、一人息子でして」
床を這って天寿に近寄った父の、誰よりも美しい銀細工を生み出してきた右腕は、あらぬ方に折れ曲がっていた。
「天寿、座りなさい、今は耐えるのだ、頼む、耐えてくれ、お前まで、喪うわけには……!」
左腕だけとは思えぬ力で着物を引かれ、床に跪く。
「ほう、貴様の息子か。だが、その腰の剣はなんだ? 職人に剣など必要なかろう」
父の震える左手が、剣の柄にかけた天寿の右手を握る。痛いほどのその力が言葉よりも雄弁に、今は耐えろと訴える。何かが胸をせりあがるのを、唇が破れるほど噛みしめて天寿は耐えた。
「こ、これは、賊が潜んでいると聞きまして、出かけるときの護身用に持たせたのです。この通り、銀細工の技しか知らぬ世間知らずの上に、この容姿ですから、何かに巻き込まれてはいけないと」
脂汗を流してひれ伏す父の言葉を聞いた兵士が、俯く天寿の顎に手をかけ、顔をあげさせる。
「これはたまげた。花も散り月も恥じらうほどの上玉ではないか。なるほど、賊には見えぬな」
兵の親指が、血の滲んだ下唇を執拗に撫でた。屈辱に背筋が冷えるのに目の裏だけは焼けそうに熱く、必死に天寿は視線を俯かせる。今この男を睨みつければ、その視線だけで賊だと言いがかりをつけられるに違いない。そうなれば、己だけでなく、父の命までも――
「隊長、そろそろ刻限です」
「……ふん、運のいい奴らめ」
右手を翻し、天寿の顔を床に叩きつけるように放した兵が、部下とともに去っていく。
「母さん……母さんッ……!」
冷たくなった母の体に駆け寄り、天寿は、もうこれ以上出る涙がないというほどに泣いた。
「母さん、親不孝な息子を許してください。武術の稽古に打ち込み心配をかけておきながら、肝心なときにその武芸で家族を、家を守ることもできず、あれほど心ひそかに憧れた官兵の横暴を許し、仇を討つため一矢報いることさえできなかった。どうか、許してください」
力ない父の左手が、夜明けまでずっと、天寿の背を擦り続けていた。
蘇州の街は、変わり果ててしまった。
都監が呼び寄せた新しい知府の連杉は、国中にその悪名がとどろく奸臣であった。
街中のいたるところに、見回りという名目で都監の部下たちが行き交うようになった。
彼らは新しい知府の威を借りやりたい放題、酒店を占拠し、税の取り立てだと勝手に民から銭を巻き上げ、気に入った女がいれば例え夫がいても召し上げる始末である。
天寿は、右手がうまく動かなくなってしまった父に代わり、建て直した工房に毎日夜遅くまでこもって懸命に銀細工を作り続けた。
皮肉なことに、新しい知府が兵を増やしたために、鎧や刀剣の飾りを作りたいという軍人たちがひっきりなしに店を訪れるようになったので、どうにか店は持ち直した。
これまで店をひいきにしていた女たちは、兵に目を付けられるのを恐れてめっきり姿を見せなくなったが、代わりに買い物を頼まれた使用人たちが、彼女たちの恋文を携えて店を訪れた。
隠居を余儀なくされた父はめっきり老け込み、恋文を開きもせずに火にくべる天寿の背に、はやく妻を娶って賑やかな家庭を作ってくれ、と弱々しい声を投げかけた。
母の仇を討てぬどころか、仇の仲間どものために槌を振るう日々に悶々としていた天寿には、結婚のことなど考えられなかったので、いい相手がいたらね、とだけ返すのであった。
そんなある日、仕事道具を買いつけるためにでかけた天寿は、とある酒店の前に人だかりができているのに出くわした。近づいてみると、何やら女の金切り声が聴こえてくる。
「私のこの着物は、お前たちが何十年働いても買えないほどの品物よ。それにこんな染みをつけるなんて、いったいどうしてくれるの?」
「お、お嬢様、どうかお許しを。わざとではないのです」
見れば、風情ある水郷にはそぐわぬほどにけばけばしく飾り立てた女が、あろうことか酒店の老店主を足蹴にして何にやら喚き散らしている。どうやら、運んできた酒を着物に零されたので、腹を立てているらしい。
「酷い話だ。俺は見たよ、あの女がわざと店主の足をひっかけたのさ」
「あんな風に兵を引き連れて、まるで脅しだ」
遠巻きに見守る客たちも、彼女の引きつれている兵を恐れて大きな声はあげられない。
だが、女が「弁償できないなら店に火をつけてやる」とまで叫びだしたのを聞き、いてもたってもいられなくなった天寿は、兵と争って面倒を起こさないと約束した父に心の中で詫び、人波をかきわけ、女が老店主をひっぱたこうと振り上げた腕をぐいと掴んだ。
「お嬢さん、やめろよ。過ちがあったかもしれないけれど、相手は老人だぞ」
「な、なんですって?」
厚い化粧を施した女が、目を見開く。
「貴様、この御方をどなたと心得る! 知府殿のご息女、連浩春様だぞ」
「どこの誰だろうが、男だろうが女だろうが関係ない! 弱い者に言いがかりをつけて、いたぶって楽しむなんて、最低だ」
知府の娘と知っても、兵に刀を向けられても、天寿はひるまなかった。これまで、父に害が及ばぬようにと兵たちの狼藉を見てみぬふりをしていたが、もはや我慢も限界だった。
「お前たち官兵は、知府の威を借りてやりたい放題、俺たち民のことなんか、ひとつも考えちゃいない。いつまでも俺たちがやられっぱなしだと思うなよ」
「小僧、言わせておけば……!」
顔を青くした兵たちが、天寿に斬りかかろうとしたまさにそのとき、女が「おやめ!」と甲高い声で叫んだ。
「公子、あなた、名を名乗りなさい」
「あんたのような冷酷な人に、名乗る義理はない」
女の腕を乱暴に放し、天寿は震える老店主に手を差し伸べ、彼を立たせてやった。
「今後この人に手を出せば、お姫様だろうがなんだろうが、俺は容赦しない」
天寿に睨まれた女は、懐から取り出した扇子で真っ赤に染まった顔を煽いだ。
「ま、まあいいわ、今日のところは勘弁してあげる。もうこんな襤褸の店になど、来るものですか! お前たち、行くわよ」
「しかし、あの若造」
「黙りなさい! 帰るのよ」
野次馬たちは口々に天寿の名を呼び、快哉の声をあげる。だが、天寿は老店主が怪我をしていないことに安心すると、群がる人波から逃げるように足早に家へと帰った。
(あんなことをして、父さんや店に仕返しをされたらどうしよう)
だが、幾日たっても案じたようなことは怒らず、杞憂だったのだろうとすっかり悩むこともなくなったころ、突然鄭銀匠の店の前に煌びやかな輿が乗りつけた。
「一体、どちら様で……」
工房の奥で作業をしていた天寿に代わって店先に出た父に、輿を囲む兵の一人が、薄気味悪いほどに優しい声をかけた。
「旦那様、鄭天寿という名の若者が、こちらにおいでですかな」
「は、はい、天寿は我が息子です」
「今すぐここへお連れしてくれませぬか。これは、知府殿たっての御依頼なのです」
知府殿、と聞いて顔色を変えた父に呼ばれ、天寿は慌てて店先に出ると、父と共に跪いた。
「知府殿よりの御依頼とは、銀細工の御注文でしょうか」
だが、兵たちは顔を見合わせてにやにやと笑い、肩をすくめた。
「ほう、さすがお嬢様の目にとどまっただけはある。なんとも美しい若者だ」
「は……?」
訝し気に顔をあげた天寿の前で、まるで待ちきれぬというように自ら籠の御簾をはねあげて姿を現したのは、忘れもしない、あの日天寿にやりこめられた知府の娘の連浩春であった。
「鄭公子、この日を待ち望んでいましたわ」
あの日と同じくけばけばしい着物を纏って居丈高な笑顔を浮かべた浩春は、愕然とする天寿の手を取って立たせると、うっとりとこちらを見つめた。
「あの日は、私が間違っていたわ。あなたに言われて目が覚めたの。そこで、お父様にすべて包み隠さずお伝えしたら、お父様はあなたの勇敢さと義侠心に大層感心なさって、私の望みをお聞き入れくださったのよ」
「お嬢様のお望みとあらば、どのような細工でもお作りいたしますが」
「馬鹿ね、銀細工など腐るほど持っているわ」
ふんぞり返り、浩春は得意げに言い放った。
「あなたを私の婿にします。こんな薄汚い工房で毎日煤にまみれながら細々と暮らすことなんかない。私の婿になれば、将来あなたは蘇州の知府よ。これ以上の栄誉はないでしょう?」
途端、頭を槌で殴られたかのような痛みに襲われ、天寿はふらりと足をもつれさせた。
(この女と……蘇州を滅茶苦茶にして、母さんを死なせた男の娘と、結婚?)
件の凶行が、朝廷の派閥争いに端を発したでっちあげの「捜査」だったことは、とっくに民の間に知れ渡っていた。数日前に処刑された寇新は、連知府に陥れられたのだ。
「あら、嬉しくて言葉も出ない? それともまさか、断って私に恥をかかせるようなことはしないわよね?」
「……その、突然のことで、何と言っていいか」
「ふふ、あの日はあんなに大胆に私に手をあげたのに、今日はずいぶんしおらしいのね。そういうことだから、明日までにここを出る支度をして頂戴。もちろん、あなたのお父上も一緒に連れて行ってあげる。その体じゃ、一人でここにいてもみじめでしょう」
無遠慮な手つきで頬を撫で、下品な目つきで舐めるように己を見つめた浩春は、高慢に鼻を鳴らし、輿に乗った。
「婚礼は盛大に執り行うわ。私も支度をしなくては。それでは、明日の夜、迎えをよこしますからね」
暫し茫然と立ち尽くしていた天寿は、輿の影が見えなくなった途端、がくりと床に膝をついた。
「息子や、しっかりしなさい。いったい、どういうことなのだ」
忘れようとしてきた悔しさや屈辱が一気に舞い戻り、震える天寿の体を抱きしめる父の腕もまた、小刻みに震えていた。
「少し前に、あの女が酒店の老店主に狼藉を働いていて……」
あの日の出来事を、天寿はすべて父に語って聞かせた。
「父さん、ごめんなさい。俺が、余計なことをしたばっかりに、俺のせいで……!」
「天寿、何を言うのだ。お前は正しいことをした。父さんはお前を誇りに思うぞ。ただ見過ごすことしかできなかった私に比べ、お前はなんと勇敢なのだ」
「あの女と結婚なんて、まっぴらだ! 母さんを、みんなを、街を奪ったあいつらと家族になるなんて、俺にはできないッ……」
血を吐くような天寿の声に、父はただ、俯いていた。
拒むことができないのは、わかっている。ここで拒めば、父も、下手をすれば職人街の仲間たちも、きっと命はないだろう。
「天寿や、お前にこんな思いをさせてしまうなんて……」
きつく閉じた瞼の裏に、白い小鳥が舞う。夕陽に向かって駆ける女将軍の背が、遠くなってゆく。
「天寿は母の仇も討てず、四代続いた店も守れぬ不孝者。どれだけ強がりあがこうと、所詮は守られることに甘えた籠の鳥だったのです。でも、そんな俺でも、あの女と結婚すれば、父さんの命だけは助けることができる。だから、どうか行かせてください。いずれあの女や連の気に入りになれば、店を再開させることもできるかもしれません」
「天寿……すまない、天寿……」
ひとしきり泣き合った父子は、うつろな顔で店の片づけを始めた。心のどこかで家から離れたいと願っていたくせに、先祖が、父が、命をかけて大切に守ってきた店を失ってしまったのだと思えば、それが何よりもつらかった。
次の日、迎えの使者より先に、天寿の婿入りの身支度をするという小間使いたちがやってきた。
きつい香りのする花を浮かべた湯で体を洗われ、見たこともないほど豪奢な着物を着せ掛けられ、髪に念入りに櫛をあてられ、薄化粧を施される間、天寿はただひたすら押し黙っていた。
「ああ、鄭公子、まるで天界の方のようにお美しいですわ」
支度を追えたらしい小間使いたちが、夢見るような瞳で己を見つめる。
「終わったなら、出て行ってくれ。父さんと話がしたい」
「仰せのままに」
女たちが去ると、天寿は、居間で待つ父のもとに戻った。
「息子よ、ひどい顔色だ。まるで血の気がないではないか」
唐突に立ち上がった父が、きつく天寿を抱きしめる。
「……逃げなさい、天寿」
それは、聞き違いかと思うほど、小さな声だった。
「父さん?」
「静かに、何も言うでない。表で衛兵が聞き耳を立てている」
なだめるように左手で天寿の背を叩いた父の声は、いたって落ち着いていた。
「昨夜、お前の話を聞いて、父は己を恥じた。今まで店を、家族を、お前を守ろうと言う想いがあったとは言え、お前にどれほど窮屈な思いをさせていたのかと……。お前はこんなにも勇敢に、弱い者のため、家族のために戦ってくれているというのに、私は己の保身しか考えていなかった。お前が武の道に憧れていたのは知っていたが、お前の優しさに付け込み、何も気づかぬふりをして、お前に店を継がせる道を強いてしまった。容姿を気にしているのもわかっていたが、店が繁盛するからと、お前を商売に利用してしまった。母さんを殺した男を前にしてお前が剣に手をかけたとき、止めるべきではなかった。お前の心に傷を負わせたまま、そのうえ私は、面倒ごとを起こすなと、義に篤いお前に悪を見過ごせと言ってしまった。お前を籠の鳥にしてしまったのは、この私だ。その上お前に仇への婿入りを勧めたとあっては、亡き先祖に顔向けができん」
普段饒舌とは言い難い父が、まるで何かを語り残すことを恐れるかのように滔々と話すのを、天寿はただ、息を潜めて聞いていた。
「お前ほどの腕があれば、表に立っている男を打ち倒し、鎧を奪うことも容易いのだろう? 兵士のふりをして城門を抜け、どこか追っ手のこない遠い地へと逃げるのだ。お前は知らぬだろうが、仇の裏で糸を引く悪は、あまりにも大きい。今はお前の思うまま、自由に羽ばたきなさい。そしていつか、母さんを奪った者たちを、この国をむしばむ悪を打ち倒す、強い男になるのだ」
「でも、俺が逃げたら、父さんは……」
「案ずるな、父さんにも考えがある。幸い、職人街の者たちが、手を貸してくれることになっている。杭州にいる親類を頼るつもりだ」
きつく抱きしめていた息子の体を離し、父は笑んだ。
「この国は広い。きっとどこかに、お前が幸せになれる場所がある。さあ、行きなさい。時がない」
「……父さん、いつか必ず、迎えにいきます」
父に三拝し、天寿は立ち上がった。
重苦しい着物を脱ぎ棄て、右手に剣を携え、そろりと玄関の扉を開けた。
眩しいほどの日の光が、胸が苦しくなるほどに爽やかな風が、天寿の体を包みこんだ。
とにかくこの頃、女に縁のない日々が続いていたので、男はすこぶる苛立っていた。
「まったく、こんな山奥じゃなかなか良い女に巡り合えねえってのに、ついこの間見つけた女も、兄貴が逃がしちまったしなあ」
ぶつくさとぼやく小柄な男は、ぎろりと子分たちを見回した。
「やい、お前ら、俺の妻にふさわしい女がいないか探して」
「い、いましたよ、二の兄貴! ありゃあ、たまげるほどの上玉だ!」
「なんだと?」
杉の木の間から身を乗り出す子分を押しのけ、眼下の山道に目を凝らせば、岩の上にちょこんと腰掛けて、女が一人、休んでいる。
「いよいよ俺にも、運気が向いてきたというわけだ」
いささか、いや、かなり男よりも上背がありそうだが、雪のように白い顔に紅い唇、 穏やかな眦は憂いを含んだように濡れ、絹糸のような髪を肩に垂らし、まるで流れの大道芸人のような質素な着物を纏ってもなお、その美貌は天界の仙女の如きであった。
「お前らは手を出すなよ、俺の獲物だ」
男は薄汚れた手でいそいそと髪をなでつけると、転がるように山道を下り、女のもとへと駆け寄った。
「へへ、お嬢さん、こんなところに一人でいちゃあ危ねえよ。知ってるかい? この清風山には、王英っていう男前の山賊がいるんだ」
間近で見ると、細くはあるが、案外堂々たる体躯をしている。突然現れた王英の姿にも動じず座ったままのところを見れば、女義賊かもしれない。
「まあ、少し気が強いくらいのほうが……」
「王英っていうのは、ちびで醜男で女好きの、どうしようもない矮脚虎のことだっけ?」
「お嬢さん、あんた、可愛い顔してひどいことを言うねえ。違うよ、王英っていうのは、背は低いが義に篤く、顔は多少癖があるが、誰よりも男気溢れ……うわあ!」
気が付けば、男の頭上には、青空を背負ってにやりと笑う白い顔があった。
「王英って野郎は、女に入れあげすぎて目ん玉が腐っちまったみたいだね。俺が本当に『お嬢さん』かどうか、確かめてみるかい?」
「なっ……お、おい、待て、まさか、お前、ぎゃあ! 人の話を最後まで、うおお、聞け!」
長い脚が、刀の切っ先が、次々と降り注いでくるのを器用に躱しながら、男――矮脚虎王英は、やっとのことで立ち上がった。
「まったく、突然斬りかかってくるこたぁねえだろうが!」
「助平な顔をして近づいてきたあんたが悪い」
「こ、この顔はもともとだ! 畜生、白い面に、生意気な口の利き方、型はねえが見上げた太刀筋……さてはてめえ、にっくき白面郎君の鄭天寿だな?」
仙女のごとく美しい女――もとい江湖を渡り歩く元銀細工師の男・鄭天寿は、瞳を細めて刀をかまえた。
「王英殿、俺もあんたの噂は聞いてるよ。女の尻を追いかけまわすちびすけだってね」
「くそう、お前はいいよな、悪人どもを成敗するなんざ俺だってやってることなのに、生まれつき顔がいいだけで、俺の千倍も万倍も持て囃される! おまけに得意の銀細工で女たちに髪飾りを作ってやってるくせに、言い寄ってくる女をみんな突っ撥ねるって話じゃねえか。まったく羨ま……いや、女人の心を弄ぶ極悪人め。俺が成敗してくれる!」
「俺を好きになるのは女の勝手、女なんかに縛られず好きに生きるのも俺の勝手だろ。男の嫉妬は見苦しいよ、王英殿」
「うるせえ! 俺はなあ、お前みたいな糞生意気で顔のいい若造が大っ嫌いなんだ!」
小柄な体を震わせ、猪のように突っ込んでくる王英の太刀筋は、天寿と同じく荒々しい、我流のものであった。
(おもしろいやつ)
五合、十合と渡り合ううち、久方ぶりに、天寿の身の内に血潮が滾ってくる。
蘇州を逃げ出してから、道端で剣術を見せ、あるいは銀細工を売って小金を稼ぎながら、江湖を渡り歩いてきた。
とにかく旅路には路銀が入り用だったので、あれほど引け目に思っていた己の容姿が銭を稼ぐには好都合だと気付いてからは、これも天に与えられた才と存分に愛嬌を振りまいた。
己の腕ひとつで生き、己の義のままに悪人どもをぶちのめす日々は、これまでの人生が嘘のように痛快だった。特に王英のように、己の容姿を見てすっかり舐めてかかってくる奴らを返り討ちにするのは、一際愉快だ。
そうしていつしか江湖では、白面郎君の鄭天寿などと二つ名で呼ばれるようになった。憧れ、そして憎んだ軍人としての生よりも、弱き者のため、江湖の好漢として気ままに生きる日々は、はるかに天寿の気風に合っていた。
「ふん、清風山の山賊なのに、この程度かよ」
「言わせておけば、若造め!」
湯気をあげる薬缶のような顔で刀を振り回す王英からひらりと身を躱し、がら空きの背に斬りかかる。だが、すんでのところでちょこまかと身を翻した王英が横ざまに薙ぎ払った刀に刃をはじかれ、体の割に重いその太刀筋に、天寿の足がよろめく。
「……若造、正直に言うが、この俺様と渡り合って互角とは、お前、なかなか筋がいいぞ」
「あんたも、ちびの割には腕が立つね」
「お前はどうしてそう、一言多いんだ!」
間合いをとった二人の間を、ふわり、春の風が吹き抜けた。
「ああもう、わかった、引き分けだ。これ以上戦ったって、女に褒められるわけでもねえしな」
「ま、そういうことにしといてあげるよ」
部下に刀を預けた王英に続き、天寿もまた刀を鞘に納めた。
「おいお前、口は生意気だが、本当に筋がいいじゃねえか。女以外でこの王英さまの血潮を滾らせてくれたやつは、兄貴以来だ。楽しかったぜ、色男」
とことこと駆け寄ってきた王英は、ひどく嬉しそうに笑いながら天寿の肩――正しくはその少し下の背中をばしばしと叩いた。
「兄貴って、もしかして、錦毛虎燕順のこと?」
「俺の兄貴といやあ、それ以外に誰がいるって言うんだ。それにしても、お前みたいな若造にまで名を知られているとは、俺たち清風山もこれでなかなかなもんだ、そうだろ?」
「清風山の名を聞けば、官兵や役人どもも震え上がるっていうのは江湖でも有名な話だ。あの小李広花栄や鎮三山黄信でさえ手を焼き、一目置くほどだってね」
「ああ、そうさ。あの堅物どもめ、俺たちは弱い者いじめをするやつをとっちめてやっているってのに、目の敵にしやがって。ま、燕順兄貴と俺が組めば、天下に怖いものなんかねえや」
王英は、得意げに笑った。それは、己の義に生きる、眩しい好漢の顔だった。
「なあ、鄭天寿よ。お前、江湖を渡り歩いているらしいが、どこかに身を落ち着ける気はねえのか? 特別に、お前を仲間にできねえか燕順兄貴に頼んでやるよ。お前ほどの腕があれば、俺の次に偉い大王になれるに違いねえ。好漢が増えれば、山の士気もあがるってもんよ」
「え……?」
それは、まったく思いもかけぬ、言葉だった。
「な、なんだよ、清風山じゃ不満だってのか?」
「ち、ちがう、そんな、わけじゃない……だって、そんなこと、言われると思ってなくて……仲間に、なんて、俺、言われたことないから……」
熱いものが、胸いっぱいにこみ上げる。
今、天寿は、生まれて初めて、ありのままの己の生きざまを認められたのだ。
「な、何だお前、さては女に好かれすぎて、友達がいねえんだな? へへ、俺ほどの男前になれば、女も言い寄ってくるし、慕ってくる友も大勢……お、おい、大の男がみっともねえだろ、泣くんじゃねえ! おまけにその顔で泣かれたら、こう、ものすごく悪いことをした気になるじゃねえか……ああ、もう、俺の襟巻きで洟をかむな! まったく、ほら、荷物持って、こっちにこい、兄貴に会わせてやるから……」
ひきずられるように山を登りながら、天寿は王英の襟巻きでごしごしと涙を拭う。
「よう、王英、また随分と珍しい獲物を捕まえたな」
突如、低く唸る獣のような声が、愉快げに山道に響いた。
「なんだ兄貴、こんなところにいたのかい」
顔をあげれば、傾き始めた太陽を背負い、岩のような大男がこちらを見つめている。
「見てたぜ、色男。どこの白鷺が迷い込んだのかと思えば、こいつと互角にやり合うたぁ、なかなか気骨のある奴だ」
気ままに跳ねる赤茶の髪を揺らし、同じ色の髭にまみれた顎を掻き、灰色の瞳を細めながら、男が笑う。
「……優雅な白鷺だって、危機が迫れば、嘴で敵を刺し殺すくらいわけもないさ」
「ほう、こりゃあ気の荒い白鷺もいたもんだ。こいつぁ、ほかの山に放すにはちと惜しいが、捕まえておくのも一苦労。どうしたもんか、なあ、王英?」
すっかり湿った襟巻を投げ捨て、王英が肩をすくめる。
「けっ、こんなべそかきだ、どうせ放っておいてもここに戻ってきやがるさ」
「じゃ、決まりだ。くそったれの官兵どもも、腐れ役人どもも、羽搏き回って、つっつき回って、ひっかき回してくればいい。帰ってきたら、餌くらいはくれてやる」
くるりと身を翻した大男が、それに続いて王英が、山道を登り始める。
「こりゃあ俺たち、もっとでかいことができそうだ、なあ、鄭天寿」
「期待してよ……燕順兄貴」
清風山の男たちの背は、天寿が追いつけるようにゆっくりと、夕陽のほうへ向かっていった。
<了>




