第9章:何よりかけがえのない日
春に種を蒔き、夏に草を取り、秋に収穫し、冬は火のそばで語らう──そんな季節の巡りを当たり前のように繰り返しながら、私たちは日々を慈しみ合うように生きていた。
子どもたちは日に日に大きくなり、夫は変わらぬ誠実さで畑を耕し、私は台所と畑と、そして育児に追われながら、いつしかそれを幸せだと心から思えるようになっていた。
ある晩、囲炉裏の火がやわらかく揺れていた。子どもたちは毛布にくるまってすでに寝息を立てていた。私は洗った器を拭きながら、その背に声をかけた。
「今日のけんちん汁、少し薄かったかしら」
「いや、うまかったよ。……昔より、もっと好きな味になった」
そう言って彼はうつむき加減に湯呑を見つめていた。
「……なあ」
その言い方がいつもと違う。何かを迷っているような、けれど心に決めているような、そんな声音だった。私は手を止めて、そっと彼に向き直る。
「なに?」
彼はしばらく黙ったまま、火の揺らめきの向こうで何かを確かめるように瞬きを繰り返し、それから──少し照れくさそうに、けれど真剣な眼差しをこちらに向けた。
「……結婚式、しようか」
私は思わず笑ってしまった。思ってもみなかった言葉だったし、何よりも彼のその言い方が、子どもみたいに拙くて、かわいらしかったからだ。
「式なんて、いまさら?」
「……そう、だよな。けど、ちゃんと、お前のことを妻だって……村の皆にも、子どもたちにも、言葉にして伝えたいんだ」
私は湯気の向こうでにじんだ彼の顔を見つめた。心がじんと温まって、なにも言葉が浮かばなかった。ただ、そっとうなずいた。
式は、ごくささやかなものだった。
村の神社──あの、春先に皆で花を奉納しに行くあの場所で。特別な衣をまとうこともなく、私たちはいつも通りの普段着のまま、手を取り合ってそこに立った。彼は羽織の襟を少し整えただけ。私はいつもの割烹着の上に、母から譲り受けた古い羽織を重ねただけだった。
けれど、その朝、村中の人々が集まってくれた。誰一人強制などされていないのに、皆が「よかったなあ」「ようやくか」と笑いながら、山道をのぼってきた。
神主などいない。かわりに村の長老が前に立ち、「ここに二人の誓いが実ったこと、村の守り神に感謝を込めて祝おう」とだけ、低い声で言った。
それだけで十分だった。
私たちは向かい合い、そっと手を重ねた。彼の手は相変わらず、ごつごつして温かかった。言葉はなかったけれど、目を見ればわかった。
「ありがとう」と、彼の瞳が言っていた。
「これからもよろしくね」と、私はまばたきで返した。
子どもたちは列の後ろから走り出してきて、小さな花を両手いっぱいに抱えていた。野に咲く名も知らぬ草花たち。摘んできた花びらを、楽しげに、空へ放った。白や薄紫の花びらが風に舞い、朝の光の中できらめいた。
「おかあさん、おめでとう!」
「おとうさんも!」
無邪気な声に、私は思わず涙ぐんだ。誰かの祝福を受けることが、こんなにも嬉しいなんて。何度も何度も手を振ってくれる村の子どもたち、拍手してくれるおばあさんたち、照れ隠しのように笑っている若者たち──みんなが、私たちを家族として、夫婦として、認めてくれていた。
あの日の光景は、今でも目を閉じればはっきりと思い出せる。
神社を下りる坂道、彼がぽつりとつぶやいた。
「……これで、よかったのかな」
「ううん。これが、いちばんよかった」
そう言って私は彼の手を握り、ただ、ありがとうともう一度心の中で唱えた。
何気ない日々こそが、永遠であればと、あの朝、心からそう願った。