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9.貴方がいてくれて


 落ち葉を踏むような音がだんだんと大きくなり、その足音と重なり合うように鈴の音が聞こえた瞬間、私の目にじわりと涙が浮かぶのが分かった。

 気づけば立ち上がり、穴の外に飛び出していた。私も呼びかけるように手首の鈴を鳴らし「蒼玄! 岳!」と必死に呼びかける。そして少しの間のあと、霧からぬっと出てきたのは焦ったような表情を浮かべる蒼玄だった。


 私の顔を見て、ほっと顔をほころばせる。思わず彼の体に飛び込んでしまう。



「よかった、生きてて……!」

「それはこっちのセリフだ。よく頑張ったなぁ」



 頭をゆったりと撫でられる。彼の胸板から聞こえる心音が速い。

 勢いで抱きついてしまったのが急に恥ずかしくなってしまい、慌てて体を離した。誤魔化すように蒼玄を見ながら問う。



「どうして、ここが?」

「烏助が教えてくれたんだ」



 カアァと鳴きながら、蒼玄の肩に飛び乗った。



「霧が濃くなり姿を見失ってしまったそうだ。しかし一部だけ霧が晴れたらしく、氷織と俺を見つけて居場所を教えてくれた」

「そうだったの……」



「ありがとう」と烏助の頭を軽く撫でる。嬉しそうにまた一度鳴いた。



「良い宿を見つけたみたいだな?」



 私の後ろを見ながら、蒼玄はにやりと笑う。先ほどまで抱えていた暗い感情が消えていくのを感じながら、私も笑った。



「ひとまず飯にしよう」



 彼の提案に私はこくりと頷き、木の空洞の中へと踏み入れていく。烏助は私が食べていた干し飯の残りを食べ、すぐに飛び去ってしまった。岳を探しに行ったのだろう。

 蒼玄は落ち葉を集め、祝詞を紡いで火をつけようとしたが上手くいかなかった。



「この霧のせいか……」



 ため息と共に、茶碗に干し飯と水をいれて、戻るのを待つ。

 そして袋の中から、細かく刻んだするめを取り出し、「ほい」と渡される。固いがずっと噛んでいると旨味が出てきて、ひもじい感覚が薄れていった。

 遠慮したが、蒼玄は干し飯の半分ほどを私の器に入れた。彼はそのまた半分ほどを食し、穴の入り口あたりに置いた。おそらく烏助の分だろう。



「せめて温泉に入れればよかったんだけどなぁ」

「印を結んでも出てこないのですか?」

「あぁ。あの印は、自分の座標を教えるためのものだ。この山では磁場が狂っているのか、うまく術が発動しない」



 蒼玄は後頭部を乱暴に掻き、私の方を見て言った。



「明日のためにも今日はもう寝よう」

「はい」



 中心に集まった腐葉土を布団代わりにし、蒼玄と私の寝具用の着物を掛けて寝ることにした。

 並んで横たわると、蒼玄は真剣な表情で言った。



「おいで、氷織」

「……え」

「白霧山の気温は低い。このままだと眠っている内に体温を奪われてお陀仏になっちまう」



 彼の朱色の瞳はまっすぐに私を見据えている。そこには恥じらいなど何もない。ただ命を守るために最善の行動をとろうとしていた。

 私は唇を結び、おずおずと彼の体に寄せた。蒼玄の体にゆったりと抱きしめられる。何かの素材の香りだろうか、香辛料のような香りが鼻腔がくすぐった。

 彼の体は想像以上に逞しく、筋肉質だった。幾度となく山を登り、様々な場所へと旅をしてきた証だろう。私を包み込む腕の力強さや、温かい体温に心臓が高鳴っていく。



「……すまん」

「え?」

「助けにきたはいいが、何も役にたたなかった」

「そんなこと、ないです」



 私は首を振る。

 彼が来るまで、私は絶望の淵にいた。襲いかかる孤独に押しつぶされそうになり、膝を抱えることしかできなかった。

 しかし彼の姿を見た瞬間、冷たく敵意に満ちているように感じられた世界が安全な場所になった。彼の腕に包まれていると、まるで冷たい世界から完全に遮断されたような感覚になる。どんな危険も、どんな脅威も、私のもとまで届かないという安心感。


(ねえ、蒼玄)


 私は心の中で呼びかける。

 この状況が私にとってどれほど特別なものか、彼に伝えたかった。しかし言い表すには、あまりにも言葉が少なかった。それでも彼への気持ちを伝えたくて口を開く。



「蒼玄がいてくれて、よかった」



 呟くように言えば、少しだけ息を呑むような気配がした。

 そしてすぐに「そうかい」と頭を優しく撫でられる。



「明日は霧が晴れるといいな」

「えぇ……」



 蒼玄の吐息が耳にかかるたび、私の鼓動は速くなっていく。同時に不思議と落ち着きも感じた。


(雪の霧が晴れますように)


(岳と無事に出会えますように)


 心の中で祈りながら、私の意識は徐々に遠のいていった。



 *



 次の日、私を目覚めさせたのは烏助の声だった。朦朧とした意識の中、何か温かいものに包まれている心地がする。

 そして目を開き、息を呑む。蒼玄の寝顔が目の前にあったのだ。



「……っ」



 思わず小さな声が漏れる。幸い、彼はまだ夢の中だ。普段の凜々しい表情と比べ、寝顔はまるで少年のようだった。


(きれいな人……)


 前から思っていたが、蒼玄の顔をまじまじと見つめていると改めて感じてしまう。

 高い鼻筋や、朱色の瞳を隠すやわらかなまぶた、そして僅かに開いた唇。全てが完璧な調和を保っている。長いまつげが今にも私に触れそうだ。

 額に垂れかかった鳥の子色の髪が、彼の顔をより柔らかく見せている。思わず触れたくなる衝動を、私は必死に抑えた。


(ど、どうしよう)


 動きたくても動けない。彼を起こしてしまうのも申し訳ないし、この瞬間が終わって欲しくないと願ってしまう自分もいた。

 少しばかりの罪悪感を抱えながら、私は彼の寝顔を眺めた。もう少し、もう少しだけと言い訳を心の中で呟く。



「氷織様!」



 外から私を呼ぶ声が聞こえ、慌てて体を起こした。反動で蒼玄の体がごろんと転がってしまう。



「うあ!」

「ご、ごめんなさい、蒼玄」



 蒼玄は上半身だけ起き上がり、ふわりと欠伸をした。半目できょろきょろと周りを見渡している。まだ寝ぼけているらしい。


「氷織様!」と再び呼ぶ声が聞こえ、岳が現れた。木の穴をのぞき込み、私たちを捉える。そして安心したように泣き笑いの顔をした。

 岳は泥だらけで顔には細かい傷はつけていたが、目立った傷はなかった。行きには持っていなかった麻の袋を左手に持っている。

 私は立ち上がって駆け寄った。



「岳、よかった……!」

「氷織様も……! はぐれたときはどうなるかと……!」



 うっと腕で瞳を押さえる。彼の優しさに心温まるのを感じながら、岳の肩に止まる烏助に目線を合わせた。



「また烏助が頑張ってくれたの?」

「それもありますが、ほら」



 岳は後ろの方に目線を向けた。白く立ちこめていた霧が消え、朝日が山の斜面を照らしている。



「霧が、晴れてる……」

「珍しいなァ」



 蒼玄がぼやきながら外の景色を眺めた。「昨日もだが、白霧山の霧が晴れるなんて聞いたことがない」と思案顔で呟く。

 岳は「そうだ」と思い出したように袋を広げた。



「捜していた『霧氷の実』とはこれか?」



 袋の中には氷の丸い粒が入っていた。よく見ると氷の中心に若草色の実が埋め込まれている。



「氷でできた実があったから採取してみたんだが……」

「おぉ、これだこれだ!」



 一粒つまんで、蒼玄は朝日の方にかざすと、氷が反射してきらりと光る。心に浮かんだ疑問を口にした。



「なぜ氷に包まれているのですか?」

「氷に含まれた栄養を摂取して大きくなると言われている。あとは鳥に食べられないようにしているそうだ」



 蒼玄が説明をし「よくやったぞ、岳」と目を細めた。岳はふんと鼻を鳴らす。



「烏助もな」



 烏助のくちばしあたりをつついて褒めれば「カアァ」と鳴いた。そして肩を回しながら、私たちが寝ていた場所へと踵を返す。



「霧が晴れている内に下山するか」



 寝ている間に濡れてしまった着物を、羽団扇で乾かしてもらい、私たちは帰路についた。


 昨日の霧が嘘かと思うくらい完全に晴れている。朝日が山の稜線を照らし、白い光が森を染めていく。木々の葉は露に濡れ、光を受けて無数の宝石のように輝いていた。

 樹木は夜の間に積もった露を滴らせ、その一滴一滴が光を受けて虹色に輝いている。木々の間を抜ける風が、さわやかな風を運んでくれていた。


 私は思わず深呼吸をした。澄んだ空気が肺いっぱいに広がり、新たな一日への活力が湧いてくるのを感じる。


 そして前を歩く蒼玄の後頭部を眺めた。同時に、朝に見た幼さが残る寝顔を思い出す。顔が熱くなるのを感じながら、私は一歩ずつ足を前に踏み出し続けた。


 半日ほどかけてようやく下山することができた。白霧山の方向を見れば、中腹あたりで霧が覆っているのが見える。



「運がよかったですね」

「えぇ」



 岳の言葉に頷く。蒼玄は無言で霧を見つめていたが、気を取り直すように嬉々として言った。



「さぁ、温泉の準備をするか!」



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