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6.此岸花が咲く洞窟




 螢泉郷を後にして、一月が過ぎた。此岸花を求めて、ひたすら北へと歩き続けた旅。特段大きな問題もなく、私たちは目的の洞窟がある山へと辿り着いた。朝靄の立ち込める山道を登っていく。

 蒼玄はくるりと振り向いて言った。



「お前さん、随分と体力がついたな」

「そう、でしょうか」

「最初は少し歩いただけでへばっていただろう」



 螢泉郷へ向かっていたとき、すぐ息が切れてしまっていたことを思い出し、私は頷く。

 今は数刻なら休憩なしでも歩き続けることができる。何かと手を貸してくれた岳と、疲れを癒やす温泉を調合してくれた蒼玄のお陰だった。礼を伝えたかったが何と言えばいいか分からなくて、無言で足を前に出し続けた。


 先頭を行く蒼玄の背中には大きな翼が広がり、その後ろを私と岳が続いている。



「あと半刻ほどで着くはずだ。少し休憩して行こう」



 蒼玄が振り返って言った。私たちは頷いて、休憩の準備をする。岳は水筒を持ち、水源を探しに行ってくれた。私は切り株に座り、そっと蒼玄の横顔を盗み見た。


 数刻ほど歩いたはずだが、疲れた様子はなさそうだ。遠くの方をじっと見つめている。

 そのとき彼の頬に赤い筋ができていることに気づいた。木の枝で引っかけて傷ついたのだろうか。痛みはないのか彼は気にしていないようだ。

 すると視線に気づいたように、蒼玄がちらりと顔を私の方に向けた。慌てて目線を鬱蒼とした森の中に移す。


 周囲を取り囲む木々は天を覆うほどに高く、枝葉が絡み合って緑の天蓋を作り出している。静かな場所だと思ったが、耳を澄ませると様々な音が聞こえてくる。小鳥がさえずる声、木の葉を渡る風のそよぐ音、小川のせせらぎ……自然が織りなす音たちに耳を傾けながら、私は口を開いた。



「……私の心は治るでしょうか」



 蒼玄はゆったりと私を見つめた。そして空に視線を移して言う。まるで夕餉の話をするようなのんびりとした口調だった。



「分からん」

「そう、ですよね」

「でも、お前さんの心を溶かすためなら、どんな手段も試す価値がある」



 その言葉に、胸の内がくすぐったいような心地になる。私は口を開き、一度唇を結んだ。そして拳を握りしめ、蒼玄に尋ねた。



「なぜ、そこまでしてくれるのですか」



 洞窟を出発してから、何度も湧き上がっていた疑問だった。蒼玄は静かに問い返す。



「なぜ、とは?」

「私は命を狙われている身で、危険な目に遭うかもしれない。温泉の知識だって皆無で、温泉の調合でも役にたたない。蒼玄にとって利がないでしょう」



 さらに強く拳を握りしめた。

 私に権力があれば、金銭があれば、何か彼に返せたかもしれない。しかし私は国で迫害され、無力な存在だ。なぜそんな私のために、何月も共に素材を探してくれるのか理解ができなかった。


 少しの沈黙のあと、彼は「昔な」と口を開いた。まるで幼子に昔話を聞かせるような声だった。



「心が凍った人間と出会ったんだ」

「私と、同じ……」

「あぁ。齢はお前さんより十以上も上だがな。そいつは俺と同じ、人間とあやかしの子どもだった」

「……」

「いくら効果の高い素材を使っても、そいつの心が溶けることはなかった。村での差別を受け続け、しまいには体が動かなくなってしまった。そして最後に頼まれたんだ。『あの山の奥深くまで運んでくれ』と」



 蒼玄は言葉を止めて、じっと宙を見つめた。そして何の感情も滲ませずに語る。



「そいつを抱えて、森の奥深くに運び、土の上に寝かせた。今でも覚えている、雲一つない快晴だった。『良い日だなあ』とそいつは満足そうに呟いて、そのまま事切れてしまった」



 蒼玄は自嘲の笑みを浮かべた。その横顔はどこか後悔のようなものが滲んでいるように見える。

 彼は空から私に視線を移し、同情を帯びた哀しい視線を送った。朱色の瞳が私をじっと見つめている。



「お前さんの心は、そいつの心よりも凍りついている」



 彼は手を伸ばし、そっと私の頬を撫でた。かさついた感触が、いたわるように何度も撫でる。



「俺はお前さんの心を見たとき、ぞっとしたよ。

 お前さんの周りの人間は、世界は、どれほどの苦しみを与えてきたのかと。想像するだけで泣きそうになった」



 頬から手が離れる。彼はまぶたを伏せ、囁くように言った。



「お前さんを救うのは、罪滅ぼしみたいなものさ。だから気にしなくていい」



 そう言って立ち上がり、膝辺りについた土汚れを払う。彼の視線の先には、岳が立っていた。「そろそろ行こう」という声に、私は無言で頷いた。


 昼過ぎ、私たちは狭間の洞窟の入り口に辿り着いた。苔むした岩肌に囲まれた洞窟の口は、まるで大きな獣の口のように不気味に開いている。



「ここが目的地みたいだな」



 岳は地図を見ながら呟いた。木の枝を加工した松明の先端に火をつけると、洞窟内がぼんやりと明るくなった。



「中は暗いからな。気をつけて進もう」



 おそるおそる洞窟の中へと足を踏み入れる。松明の灯りが揺らめき、岩壁に奇妙な影を作り出す。足元はぬかるんでおり、歩くたびに水音が響いた。

 半刻ほど歩いただろうか、蒼玄が何かに気づいたように立ち止まり、洞窟の壁に松明を掲げた。



「これは……」



 火で照らされた先には、古い時代の絵が描かれていた。

 中心には三人の人間が描かれており、空に手を伸ばしていた。空からは光が漏れはじめ、地面には花々が咲いている。不思議なことに三人の頭上では晴れているのに、離れた場所では雪が降っており、地面にも積もっていた。まるで三人の周りだけ春が来たようだ。

 彼らの周りには人々たちが敬うように額を地面につけ、供物を捧げている。


 何かの信仰を表しているのだろうか。



「何を意味しているのでしょうか」

「分からん。ただ、この洞窟が単なる自然の造形物ではないことは確かだ」



 私たちが進むにつれ、洞窟は徐々に広くなっていく。やがて大きな空間に出た私たちは、驚きの光景を目にした。


 洞窟の天井に小さな穴が開いており、そこから太陽の光が差し込んでいた。その光に照らされ、地面には一面の花畑が広がっている。よく見ると花々はまだ開花しておらず、蕾の状態だ。



「きれい……」

「こんな洞窟の奥で花が……」



 私と岳は思わず声を漏らした。蒼玄は満足げに「此岸花だ」と言った。

 私たちは花畑の中へと足を踏み入れた。此岸花はゆらゆらと揺れている。赤い蕾はやわらかく閉じられ、咲き誇る瞬間を今か今かと待っているようだ。


 蒼玄はしゃがみ、一輪の此岸花に触れようとした。その瞬間、花から眩い光が放たれ、視界が真っ白に包まれた。



「……っ!」



 私が目を開けると、そこは見知らぬ村だった。周りを見渡すが、蒼玄も岳もいない。いるのは古びた着物を着る村人だけだ。突然現れた私の姿に驚くことなく、村人たちは牛を引き連れたり稲を運んだりと、日常を過ごしている。どうやら私の姿は見えていないらしい。

 突然の光景に困惑していると、一人の子供が現れた。鳥の子色の髪に朱色の瞳、そして背中には小さな翼が生えていた。私は息を呑む。



(蒼玄……?)



 幼い蒼玄は人間の母親と天狗の父親に囲まれ、幸せそうに笑っていた。両親は優しく彼を抱きしめ、愛情たっぷりに接している。



「蒼玄、お前は特別な子だ」

「愛しい子。大きくなってね」

「うん!」



 しかし、その幸せな光景はすぐに暗転した。

 私の目の前に広がったのは、地獄のような光景だった。乾いた土と枯れた草木、痩せ細った家畜たちの死体が放置され、「おっかぁ!」と倒れた母親の傍で子どもが泣いている。

 そして幼い蒼玄は、冷たい視線に囲まれていた。



「化け物!」

「お前らが災いを呼び寄せたんだ!」



 村人たちの罵声が幼い蒼玄に浴びせられる。彼は怯えた表情で身を縮めていた。両親は必死に蒼玄を守ろうとするが、村全体が彼らを受け入れようとしない。


 やがて、彼らは村八分にされてしまう。食べ物も満足に手に入らず、誰も話しかけてくれない。そんな中でも、両親は蒼玄を守り続けた。しかし、過酷な生活は蒼玄の母の体を蝕んでいった。ある日、母は重い病に倒れ、そして息を引き取ってしまう。



「母さま! 母さま!!」



 幼い蒼玄の叫び声が家の中にこだまする。

 蒼玄の後ろでは父が拳を固く握りしめていた。


 時は過ぎ、青年になった蒼玄は山の中で獣を狩っていた。弓矢で命中させ、兎の耳を持ちながら「今晩はご馳走だ!」と嬉しそうに声をあげる。

 家で待つ父親のもとまで走り、「父さま!」と呼びかけた瞬間だった。彼の手から兎の死体が落ちる。


 父親は腹に深々と刃物を刺し、自死していた。


 蒼玄は叫んだ。言葉にならない咆哮をあげ続ける。目から大粒の涙を流しながら、父の亡骸に縋り付いた。「なぜ、なぜ、俺を置いて……!」と叫ぶ彼の姿がどんどん遠くなっていく。



「氷織!」



 鋭く呼ぶ声に私は現実に引き戻された。

 目の前には、憔悴しきった蒼玄がいた。



「蒼玄……」

「大丈夫か?」



 私は言葉を返せなかった。先ほど見た光景が頭の中に流れ込み、心臓が嫌な音を立てる。岳も同じものを見たのだろう、言葉を発することなく立ち尽くしている。

 私は荒く息をつき、呼吸を落ち着かせたあと、ようやく一言だけ発した。



「あなたの、記憶を……」

「……」



 蒼玄は眉根に深い皺を刻み、そして少しだけ笑った。見ているだけで泣きたくなるような笑みだった。



「『己の影』とはよく言ったもんだな」



 蒼玄は太陽の光に照らされてできた自身の影を見つめる。



「深い傷を残した記憶は、逃れたくても逃れられない。まるで影のようにぴったりと張り付いている」

「……」

「ご覧」



 蒼玄は視線を花々たちに向けた。飛び込んできた景色に私は息を呑む。



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