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【短編恋愛小説】弓張りの月

作者: のはる

弓張の月


プロローグ


 真っ赤な血が1滴2滴と真っ白な日記帳に落ちていく。自分の手首ではないかのように、痛みもかんじず、落ちていく血をじっと見ていた。手首から、また1滴落ちた。綺麗だ。真っ白なキャンパスに真っ赤な絵が描かれていくように。真っ白な日記帳は少しずつ赤いページに変わっていく。

 参考書にも血が垂れそうになった。慌てて、手首をハンカチで抑えた。滲んでくる。ゆっくりとハンカチの奥から赤い血が。ぎゅっと抑える。

 日記のページは2023年8月16日だった。



第1話


「由美、たまには一緒に帰らない?」

 肩まで伸びた髪をたくし上げ、ピンクのマフラーを首に巻きはじめたとき、後ろから声が聞こえた。マフラーを巻き終えないまま振り向くと、セーラー服の首元に薄水色のマフラーを巻いた絵里奈が立っていた。

「ねぇ、うちの学校のセーラー服ってさ、ださいよね。今はどこの学校もジャケットだよ。右胸にワッペンを貼っててさ。格好いいよね」

 確かにそう思うが、これが私たちの学校の制服なんだから仕方がないよと、心の中でつぶやく。

「でもさ、この黒色に近い紺色のセーラー服にピンクって似合う?喪服にピンクのマフラーをつけて歩いているみたいなもんだよ」

 いつもの遠慮ないしゃべり口調に、なぜかほっとした。なぜなのだろうか。きっと約一か月もの間、一緒に帰ることがなかったから、久しぶりに絵里奈節を聞いた安心感からかもしれない。一緒に帰っていなかったといっても、一緒に帰りたくなかったわけではなく、絵里奈が勝手に一人で帰ってしまっていたのだ。

「一緒に帰ろう、なんて言葉、久しぶりに聞いたよ」

 私は自分の口角があがってることに気づいた。絵里奈の方を向いたままマフラーを巻きなおした。

「まぁ、一人で帰ってもいいんだけど、そんな元気のない姿を見れば、声もかけたくなるよ。まだ、去年の夏のラインの返信を待ってるの?忘れちゃえ、忘れちゃえ。今日から12月。2024年もあと1ヶ月で終えちゃうぞ」

「そうだよね。頭ではわかっているんだけどね」

 一瞬、ここで話を終えようとした。でも、いろいろなことを思い出すと、自分でもびっくりするほどたくさんの言葉が出て来てしまった。

「ラインできた『サヨナラ』の四文字のメッセージで終わるってありなの。中学3年のときから付き合いだして、高校2年までの2年間だよ。そりゃ、お互い違う高校だけど・・・。あの日の日記は真っ赤だよ」

「待って、そんなに興奮しないでよ」

 絵里奈は返事に困った顔になって、話すのをやめてしまった。

 私は言葉が見つからなかった。沈黙が怖く話を変えた。

「でも、絵里奈はここ一ヶ月くらい、いつも一人で、先に帰るよ、って言って、慌てて教室を飛び出していたじゃん。塾にでも行っていたんじゃないの?」

 絵里奈の顔が肌の温度を感じるほど私に近づいてきた。首元に巻いたピンクのマフラーの匂いをかくようなしぐさをするかと思ったら、耳元で「推し、推しだよ」と囁いた。

「何?おしって?」

「いいから、いいから」

 相変わらず、訳の分からないことを言う。絵里奈らしさと言えば、それまでだけど。いつも自分だけが納得して、喜んでいる。そして楽しそうだ。そんな絵里奈をうらやましく思う。

「今日はいいところに連れていってあげるから」

 その笑顔からわくわくしているのがわかる。楽しそうに話す絵里奈に断る理由もなかった。



第2話


「この先って、久志きゅうし高校じゃない?」

「由美、よく知ってるね」

 これも絵里奈の口癖。みんな知っていることなのに「よく知ってるね」と確認をする。

「みんな知ってるよ。常識だよ」

 いつもと同じように言葉を返す私。


 高校に入って、何度か久志高校には来た。去年は絵里奈に連れられて文化祭にも来た。そのことさえ絵里奈は忘れているのか。絵里奈の能天気さにはあきてれるが、私はそこが好き。

 実は中学生の時も久志高校には来ている。あれは中学3年生の夏、進路選択の時、いくつかの高校に見学へいった。その中の1つが久志高校だった。小田原駅で降りて、急な階段状の坂道を登りきったところに高校が建っていた。ここの高校に通うには、毎日100段以上もあるこの緩やかな坂道を上らないといけないのか、と思ったことを思いだす。毎日100段、それを3年間。卒業するまでにいくつの階段を上ることになるのか、信じられない。とつまらぬことを考えていた。あれからもう3年以上が過ぎた。


 季節外れのクリームソーダ色した空が坂の上に見える。絵里奈の張り切りようからすると、この階段を上りきるとそこには弾けるようなわくわくするものがあるように思える。

「何をぼーっと考えてるのよ。普段、運動しないから、このくらいの階段で息を切らしてしまうんだよ」

 そう言う絵里奈の額にも汗がにじんでいるのがわかる。

「ねぇ、絵里奈。いつも一人で帰って、いつもこの階段を登って、久志高校に来ていたの?」

「まぁね。推しがいるからね」

「おしって何?」

 私の疑問に答える様子もなく、黙々と階段を上っていく絵里奈の後ろ姿を見ながら、私も言葉なく階段を上っていく。後ろから、「いち、に、いち、に」と掛け声が聞こえてきた。振り向くと駆け足でこの階段を駆け上がっていく集団があった。短パンに白いポロシャツ。背中にはKYUSIと青色のゴシック体で印刷されている。「Uが1つたらないんじゃない?」と息を切らしながら絵里奈に声をかける。

「あのユニフォームはテニス部かな。きゅうしって、誤解しやすいよね」と笑いながら返事をした。さりげない会話を楽しめるのも絵里奈だからだ。

「ねぇ、由美ってまだ去年の彼のことを考えてるの」

 突然、真面目な声で聞いてきた。

「たまにね。ラインを使う時とかかな」

「もうそろそろ、消したら。きっとブロックをされているんじゃないの。だから既読にならないんだよ。去年の夏からだよ。ラインのトークルームを削除しちゃいな。スッキリするよ」

 返事ができなかった。私もそう思うけど、いつか既読になるかもしれないというかすかな思いがあった。

「由美、自分らしく生きた方がいいよ。人に振り回されないで、自分らしくね」

 自分らしくという言葉が、心の中で引っかかった。自分らしくってなんだろう。今まで、自分らしくなかったのかな。確かに、彼の機嫌をとっていた時もあったけど。

「まあ、いいよ。忘れちゃうことだよ。嫌わたってことだよ」

「遠慮とか、気配りとか、優しさとかないのか、もう少し優しく言ってくれないのかな」

 そういったものの、これが絵里奈の優しさだと分かっている。

「由美、言っておくけど、好きになることも嫌いになることも、付き合うことも別れることも、みんな勇気がいるものだよ。勇気がなければ、流されるだけ。自分らしさを見失うからね」

 何も言えなかった。

「余計なお世話かもしれないけど、由美は日記帳を真っ赤にするほど、すべてを失ったみたいに思っていたんだよね。前にそんな話を聞かせてもらったけど、すべてを失ってなんかいないから。ここに私がちゃんといるでしょう」

 ドキッとした。高校3年になって、初めて一緒のクラスになった絵里奈、いろんなことを話せる友達。愚痴も言える、遠慮ない言葉で言い返してくれる。その絵里奈がこんなことを言ってくれるとは思わなかった。

 今夜、ラインのトークルームを削除すると決めた。赤く染まった2023年8月16日から書いていない日記帳も処分しようと決めた。私は一人じゃない。すべてを失ったりしていない。絵里奈がいるんだから。



第3話


 最後の階段に足を乗せると二人で同時に大きく息をはき、歩みを止めた。

「ここが目的じゃないんだから、着いてきて」と言うと、息が整う前にもう歩きだしている。上りきったところに学校の裏門があり、その門の横にある細い脇道を慣れた足取りで迷わずに進む。遅れないように着いて行く。静かな脇道の先から、かすかに人の声が聞こえてきた。脇道から見えてきたのは弓道場の射場の建物だった。

「え?ここって、久志高校の弓道部の練習場?」 

「静かに。みんな真剣なんだから。いつもの場所まで行くよ」

 いつもの場所ってどこなの?戸惑いもせず絵里奈は射場の横をそっと歩き、矢道の横に歩いていく。ここからは射場の中の様子も見ることができる。

「そのピンクのマフラー、目立つね。私に貸してよ。私のマフラーと取り換えてよ。今だけ。お願い」

 手を合わせて頼む姿が、不思議とかわいい。無邪気で、天真爛漫そのものだ。

「貸してもいいけど、その理由を聞かせてよ」

「ちょっとまって。もうすぐだから。射場の方を見てて。あ、いた。あそこ、あそこにいる人、分かる?」

「え?」何人かが射場にいる。いつものように自分だけが理解している絵里奈の癖がでてきた。

「分からないかな。右側から2番目に立っている人。ねぇ、格好いいと思わない?」

 まさか彼を見るために、毎日、この場所に通っていたのか。

「マフラーを貸してよ。ピンクは目立つから。きっと気づいてくれる気がする」

 矢道の横にいるのは私たちだけなんだから、そんなに目立とうとする必要もないのに、と少しあきれながら、あれだけけなしていたピンクのマフラーを貸した。

「ねぇ、弓道って凛々しいよね。凛として、張り詰めた空気感。いいいよね。彼、格好いいでしょ。私の推し」

 嬉しそうに話す絵里奈の姿をみながら、寒い中、けなされたピンクのマフラーを交換され、なんで私はここにいるのかと思いながら、弓道を見ていた。


 矢が飛んでいく音が目の前の矢道から聞こえてくる。射場からは矢を射るときの音が響いてくる。凛とした空気感の中で、さまざまな音が聞こえる。どの音も緊張感がある。まるで一滴の水が静かな池にポツンと落ち、広く深く響いていくようだ。凛とした張り詰めた空気が音を運んでくる。気づけば、弓道に見入っていた。

「ねぇねぇ、彼、私たちと同じ高校3年生らしいよ」

 返事もせずにじっと射場の方を見つめている時だった。


「君たち、内田高校の生徒?その制服はそうだよね」

 突然、声をかけられた。叱られるのか、それとも何かを聞かれるのか。ドキドキした。

 振り向くと、道着姿のままの男子が笑顔で立っていた。真っ白な上着に黒い袴をはいていた。白足袋に雪駄。めちゃくちゃ格好いい。

「はい、内田高校3年の谷川絵里奈です。よろしくお願いします」

 こんな時、自分を売り込むのかと、飽きれ顔の私。

「きみは?」

「え、私、わたしは絵里奈の友達です」

「僕も3年だよ。矢島とおる。よろしく。ここは寒いから、射場の方にこない?」

 絵里奈の顔が赤く染まっているのがすぐに分かった。私も顔の火照りを自分で感じていた。


「ここでよければ座って。でも静かにしてくれよ。後輩たちが真剣に練習をしているから」

 スチールの椅子を2つ並べてくれた。ゆっくりと話す少し太めの声に優しさを感じる。

絵里奈がこんなに緊張しているのは、珍しい。推しと言う彼が目の前にいるのだから、それもわからないでもない。

「よぉ、哲夫。内田高校の生徒が練習を見にきてくれたよ」

 絵里奈が推している彼の名は哲夫と言うのだと初めて分かった。

 弓道を間近で見ると、緊張感は半端じゃなかった。声を出すこともできなかった。身動きせずスチールの椅子に座って、練習を見ていた。

「集合!」

 部長らしき人の一声で、全員が集合した。

「今日の練習はここまでにする。哲夫先輩ととおる先輩から一言お願いします」

 キビキビした行動と掛け声。見ていても気持ちがいい。凛とした姿、めちゃ格好いい。

「私たち、帰ろうか」小さな声で囁く絵里奈。そっと頷く私。

 マネージャーらしき女子にお礼をいって、そっと射場を出た。


「ねぇ、弓道って格好いいね」

「由美は、格好いいって弓道のことじゃなくて、矢島さんのことでしょう」

 図星だった。慌てて否定する。慌てないようにしようとすればするほど、顔が赤くなっていくのが分かった。

「絵里奈は哲夫くんという名前がわかってよかったね」

 話を変えようとしたが、絵里奈は空を見上げたままだった。

「今夜はお月さん、どこにいちゃったのかな。どこにも見えないね。私たちみたいに恥ずかしくて、どこかに隠れたのかな」

 絵里奈も話を変えようとしていた。



第4話


 放課後、机の上に投げ置いた黒に近い紺色の通学バックを持った瞬間、絵里奈と目があった。それだけで分かった。

「行く?」

 ピンクのマフラーをしてきた絵里奈の一言に私も答えた。

「うん、行く。でも、なんで私と同じピンクのマフラーなのよ」

「ピンクのマフラーって、この制服には違和感あるから、目立つかなと思ってね」

 わけの分からぬ理由だ。昇降口に行くと、いつもの通学用の靴ではなく、真っ赤なスニーカーを履いた絵里奈。

「なに、その真っ赤なスニーカーは」

「目立つでしょう」

「でも、それって、いいの?」

「通学用の靴、穴があいちゃって。卒業まであと3ヶ月だから、新しい通学用の靴を買うのも、もったいないと思ってね。先生に許可もらった」

「え、そんなのずるくない。でもなんで赤なのよ」

「目立つからに決まってるじゃん」

 こんな風に言い合えるのも、あと3ヶ月なんだな。絵里奈が口にした卒業という言葉に高校生活の短さを感じた。あと3ヶ月か、なんか寂しいな。


 今日も矢道の横の観客席近くから射場の中を見ていた。観客席といっても木のベンチが一つ。それも雨水で木が腐りかけているベンチ。そのベンチには座らず、その横で眺めていた。

「ほら、あそこに哲ちゃん、いるよ」

「とおるくんはどこ?」

「射場の脇にいるよ。ほら、あそこ。わかる?」

 射場の脇にとおる君がいるのがわかった。道着を着てスチールの椅子に、少し足を開いて座っている。どっしりとした座り方に、落ち着きと弓道に対する自信を感じる。このドキドキはなんだろう。キュンとする感覚。初めてかもしれない。

「由美、もしかしてとおる君こと好きになったんじゃないの」

 私の顔を覗き込むようにじっと見る。

「間違いないね」

 自分でもわかった。きっと好きになってしまった。見ているだけでドキドキする。こんなにも簡単に人って人を好きになれるものなのだろうか、と自分が信じられなかった。

「由美、これで去年のことを忘れられるね」

「ねぇ、人ってこんなに簡単に別れたり、好きになったりできるの?」

「それはね」

 そういうと絵里奈は一瞬言葉を止め、視線を遠くに向けてからゆっくりと話し始めた。

「人って、いつも同じ状態じゃないんだよ。いつも変化しているし、成長していくしね。だから好きになる人が変わるのは当たり前だよ」

「じゃ、同じ人と付き合うって難しいの?」

「そうじゃないよ。お互いに成長しあえる関係ができればいいんだよ。いつもなんでも話しができて、お互いの変化にもそっと気づいてあげられればいいんじゃない。一緒に悩んで、一緒に苦労して、一緒に笑えばね」

「絵里奈って、すごいね。恋愛専門家?」

「全部、恋愛小説の受け売りだよ」

 何を考えているのか分からない時もあるのに、突然、真剣に私のことに答えてくれる。

すべてを失ってなんかいない。こんなに真剣に私のことを考えてくれる友がここにいる。


「ねぇ、とおる君って、彼女いるんじゃないの?」

 絵里奈の視線の先にはとおる君がいた。でも1人ではなかった。とおる君と一緒に女子もいた。スチールの椅子を近くに並べ、楽しそうに話している。

 好きになるのにも勇気がいるって、絵里奈が言っていたのに、勇気を出す前に、終えちゃったのかも。でも好きなのは変わらない。

 とおる君と女子は、肩が触れるほど寄り添ってずっと話をしている。



第5話 


「今日は行く?」

「私、見るの辛いから、しばらく行かない」

「とおる君を見に行かないの」

「うん、行かない」

 この日から、久志高校への寄り道をやめた。好きになっても浅いうちなら忘れられる、そう思っていたからだ。放課後、図書室で勉強をしてから帰るのが日課になった。

 外が暗くなって天井から吊り下げられている蛍光灯が図書室の机を照らす。気づけば図書室には誰もいなかった。

 日曜日にも学校の図書室で勉強をした。吹奏楽部の楽器の音、運動部の掛け声も聞こえてくる。静かすぎるよりこのくらいの音が聞こえる方が私には居心地がいい。この校舎とももうすぐお別れだと思うと、廊下も教室もこの図書室も寂しいという思いと同時に、愛おしく感じる。

 母が作ってくれたお弁当の蓋を開ける。お箸を冷えたご飯に刺す。来年の4月からは母のお弁当はなくなるかもしれない。きっとなくなるだろう。今まで以上にゆっくりと食べているのが自分でわかる。

 いつもの時間より少し早く図書室を出て、小田原の駅に向かって一人歩く。街はクリスマスのイルミネーションの準備をしている。夜なのに街は明るい。今年もクリスマスはボッチだな。冷たい空気が頬に当たる。ピンクのマフラーを頬まで持ち上げながら空を見上げた。

「きれいなお月さん。明るいな。今日は15日。満月なのかな」


「由美さんですか」

 声をかけてくる人がいた。落ち着いて、少し太い声。どこかで聞いたことのある声。でも、まさか。返事をしないで振り向いた。

「あ、やっぱり由美さんだ。ピンクのマフラーですぐわかった」

 とおる君だ。声も出なかった。

「受験勉強、頑張っている」

「はい」

 初めて2人だけで喋った。深まるのが怖くて、勇気がなくて、もう傷つくのも嫌だと逃げていた自分。

「今、学校の帰りなの?」

「はい」

「今夜も寒いね。でも明るく感じるよ。満月だからかな。コールドムーンというらしいよ。今年最後の満月。寒い夜だから冷たい月なんだね。すごいネーミングだよね」

「とおるさん、詳しいんですね」

「星とか月が好きなんだよ。ここは歩道だから風もくるし寒いね。そこのマックに寄れる?時間ないかな」

「行きます」



第6話


 とおる君はキャラメルラテのカップを両手で持って、手を温めてから、フーフーして飲み始めた。私も同じ仕草で同じものを飲んだ。それだけでドキドキした。キャラメルラテは甘く、でもほろ苦かった。

「ピンクの満月もあるんだよ」

「お月さんがピンクになるの?」

「そうじゃないけど、4月の満月のことをピンクムーンというんだよ。その頃にはお互い大学生かな」

「私、受験勉強、頑張らないといけない。とおる君はどこ受けるの?」

「俺は弓道で推薦もらってて、だから今は後輩の指導をしてる。でも、受験で合格した人に差がつかないように赤本で勉強してるよ」

 すごい。もう大学が決まっている。それなのに勉強もしてる。

「9月にはここのマックに月見バーガーがあったから、よく食べたよ」

 とおる君は本当にお月さんが好きなんだなぁ。

 マックにいる時間は何を話したのか、ただ私は「はい」としか返事をしていなかった気がする。



「もうそろそろ帰ろうか。勉強あるんだろう」

 勉強なんかない、と言いたかった。あと少しだけ、と言いたかった。マックのドアがあかなければいいと思った。でも、返事をしなければ。

「はい」


 店の外に出た。風が冷たい。慌ててピンクのマフラーを頬まで持ち上げた。とおる君が教えてくれた冷たい月、コールドムーンを見上げた。とおる君も見上げていた。

「やっぱり、外は寒いね。月が凍ってるかもな」と、笑いながら話すとおる君の横顔をじっと見ていた。

「由美さん、外は明るいね。もうクリスマスムードだよ。クリスマスイブも勉強かな」

 「勉強なんかない!」と言いたいのに、「はい」としか言えなかった。

「学校帰りでもいいから少しでも会える?」

 え?誰が誰に言っている言葉なの?ぽかんとしたままとおる君の顔を見ていた。

「だめかな?」

「いえ、大丈夫」

 勇気が出た。絵里奈が教えてくれた。別れることも付き合うことも勇気だと。

「ありがとう」

 ありがとうを言うのは私の方だよ。

「ライン、交換しておこうか」

 忘れかけていたラインのことを、急に思い出した。嬉しいのに、ためらってしまった。勇気だ、勇気。別れることも忘れることも勇気なんだ。絵里奈、ありがとう。

「どうしたの?無理?」

 勇気を出した。忘れる勇気とつながる勇気を。カバンからスマホを取り出した。慌てていたから、手作りした熊ちゃんも一緒に出てしまって、歩道にぽとりと落ちた。とおる君が拾ってくれた。

「これ、由美さんが作ったの?めちゃ可愛いね」

「え、良かったらあげます」

 勇気が出た。とおる君はその場で通学バックにつけてくれた。射場で一緒にいた女子に叱られるのでは、と思った。でもそれは言えなかった。スマホの指紋認証をする指が震えているのがわかった。

「寒いけど、大丈夫?」

 見ていたんだ。私の指が震えていたのを。

「はい、これ。私のラインのQR」

 とおる君は自分のスマホを私のスマホの上に乗せるようにして、QRコードを読み取った。息が詰まるほどドキドキした。スマホなのに手が重なっているようだった。

 それから小田原の駅までどう歩いたかの記憶がない。電車に乗った時、ラインのメッセージがきた。とおる君だ。「今日は受験勉強の邪魔しちゃってごめん。24日、楽しみにしている」

 すぐ返信ができなかった。何を書いていいのかわからなかった。ずっととおる君からのメッセージを見ていた。車内にアナウンスが流れた。次の駅で降りなければいけない。「ありがとう」と文字を打ったら、熊さんがありがとうと言っているスタンプが出てきた。そのスタンプを送信してしまった。



第7話


「由美、最近、ウキウキしてるけどいいことあった?」

 口角が思いっきり上がっていた。

「うん、何にもないよ。受験勉強しないとね」

 絵里奈はニコニコして、それ以上は聞かなかった。絵里奈のおかげだよ、ありがとう、と叫びたかった。


 とおる君からは、1日1回だけラインがくる。受験勉強の邪魔はしたくないと、とおる君が決めたルールだった。

 15日の満月の日から、時の経つのが早く感じる。今日は22日、日曜日だ。クリスマスイブまであと2日。会う約束をしているなんて絵里奈には言えない。言うのが恥ずかしい。


 夜7時。いつもの時間。とおる君からラインがきた。返信は2回と決めていた。これもとおる君が決めたルール。

「ごめん。24日、だめになった」

 体が固まった。会うことをどれほど楽しみにしていたのか、わかって欲しい。でも、絵里奈は一緒に悩んで、一緒に苦労して、と言っていた。きっと何か理由があるんだ。そう思うようにした。

「大丈夫、了解だよ」

 メッセージを送ったものの不安。もう今年は会えないのかもしれない。年が明けたら受験も始まる。会えるのかわからない。去年の夏のラインを思い出した。とおる君から、突然「サヨナラ」ってメッセージがきたらどうしよう。どんなに勇気を出そうとしても、力が入らない。大丈夫って、返信してる自分。何が大丈夫なの、自分で自分を責めている。

 とおる君からの返信がこない。ますます不安。



第8話


 30分後に返信がきた。

「友達から電話が来て、返信が遅くなってしまった。ごめん。23日はどう?23日は会えるかな?会えそうなら明日の朝、23日の朝の月を見て」

 え、会う日がイブではないけど1日早くなった。え、23日って明日だ、どうしよう、明日会えるの。

「うん。放課後、道場に行く。ちゃんと月もみる」

 すぐに返信をした。約束の2回目の返信が終えた。もっといっぱい書きたかった、もっとたくさん伝えたいのに。

 明日になれば会える。でもなんで明日の朝、月を見るのかな?朝、月が見えるのかな?とおる君の言っていることがわからなかった。


 布団に入ってもなかなか眠れず、また起きて、制服のシワとピンクのマフラーをもう一度確認した。また、横になり、リモコンで天井の明かりを消した。明かりの残像が、あの日、とおる君と一緒に見た満月になって丸く残る。明日はどんなお月さんなのかな。満月から1週間、もう月はかけているのかな。


「由美、今日は慌ててるけど、帰りにどこか行くの」

「内緒」

「あ、もしかして」

 そういうと、私の顔を覗き込むように近づいてきて、ニタニタしていた。

「勇気よ、勇気だからね。わかった」

 それだけ言うと、いつからかお揃いになったピンクのマフラーを首に巻き始めた。

「もうすぐ冬休みだけど、図書室に来ることあったら教えて。私も本気で勉強しないとやばいから」

 そう言いながらも、絵里奈はちゃんと模試も受けてるし、希望校の合格ラインに入っていることは知っていた。

「うん、いつもありがとう。私は一人じゃないって絵里奈が教えてくれたから、受験も一緒に頑張ろうね」

 絵里奈の口角が上がったのがわかった。


 100段の緩やかな階段坂を登っていく。息が切れてハアハアすることもなく上っている。それより、心臓のドキドキが苦しい。まるで胸の中の心臓が一回り大きくなって、荒く息をしている感じだ。一段一段、自然と足が上がる。ワクワクしている自分がわかる。

 階段の途中で空を見上げた。空に浮かんでいる白い雲が赤く染まっている。もうすぐ沈もうとしている太陽が1日の最後の光を真っ白な雲にあてているのだ。

 去年の私、私は、真っ白な日記帳を真っ赤な血で汚していた。いま見上げている雲は同じ赤く染まっていても、太陽の明日への希望の光を受けて輝いているように見える。


 でも、とおる君はなんで24日のクリスマスイブに会う約束が1日早い今日になったのだろうか。もしかしたら他の人との約束があるのだろうか。そんな不安が頭に浮かんだとき、足が止まった。

 会いたいのに「会うことをやめたほうがいいのか」と心の奥に潜っていた不安な気持ちが湧き出て来るのがわかった。

 また、空を見上げた。「勇気よ、勇気」。絵里奈の声が聞こえた。

 最後の一段に足を乗せた。会いに行こう。裏門の脇道を進んだ。そっと歩いている自分の足音しか聞こえてこない。足を止めたが、聞こえてくるのは風にあおられて擦りあう木々の葉の音。ササ、ササ。ガサガサ、鳥が木から飛び立った。いつもならこのあたりで弓道部の声が聞こえるのに、今日は静かだ。


 道場についた。シーンとしている。誰もいないのか。「サヨナラ」と言うメッセージが来ているのでは、と思ってスマホを見た。まだ、日記帳を血で赤く染めた日が忘れられない私。

 射場が見える矢道の横にある木のベンチのところへ来た。人の気配を感じない。「やっぱり誰もいないのか。やっぱりそうだよね、こんな私だものね」呟いたつもりだったが、自分でも聞こえるほどの声だった。


 ガタッ


 誰かいる。とおる君がスチールの椅子を持って射場の横に立っていた。

「あ、由美さん。来てたんだね。気づかなかったよ」

 あ、来てよかった。迷ったけど、勇気を出してここに来てよかった。

「こんにちは。今日は誰もいないのですか」

「そうだよ。今日は誰もいないよ。授業が早く終えてるから早めに練習を始めて、早めに終えたんだ」

 どうしていいのかわからずに立っていたら、私を射場に呼んでくれた。

「ねぇ、ここに座って」

 さっき持っていたスチールの椅子が2つ並べられていた。ドキドキしていた。誰もいない場所で、二人で並んで座っている。

「寒くない?」

「はい」

「受験勉強は頑張っている?」

「はい」

 会話が続かない。

「明日はクリスマスイブ。今年ももうすぐ終わるね。受験が終わるまでは、勉強に熱中してほしんだ」

「え?どう言うこと」

「次に会うのは由美さんが受験を終えたときにしようかと思っている」

 それって、お別れのことなの。心が乱れ、頭の中で思考が止まってしまった。返事もできなかった。


「由美さん、空を見て。思い出して。初めて会った日の月を。12月1日だったね。友達と一緒に道場に来てくれた日」

 とおる君は、私たちの出会った日のことを覚えていてくれた。そしてゆっくりと話し出した。

「あの日は月が見えなかったでしょう」

 確かに絵里奈と「私たちみたいに恥ずかしくて、どこかに隠れたのか」と話したことを思い出した。

「あの日は、新月といってお月さんが真っ黒の日だったんだよ。よく新月の日に、新しいことを始めるといい、と言われている。僕は新月の日は、新しい出来事のスタートの日だと思ってるんだ。その日に初めて由美さんを見た。由美さんを見たときに、新しいことが始まった気がしたんだ」

 お月さんのことに詳しいとおる君だけど、そんなことも知っているんだ。私は黙って聞いていた。

「駅であった日を覚えてる?マックに行ったときだよ」

「うん、もちろん覚えてる」

 一緒にキャラメルラテを飲んで、この日の満月をコールドムーンというんだと教えてくれた日。

「あの日は満月だったね。普段、めったに声をかけることのない僕が、駅の近くで由美さんに声をかけた日。満月って、積極的になれる日と聞いている。だから僕は由美さんに声をかけることができたのかもしれない」

 あの時、声をかけてもらわなかったら今日二人だけでいることはなかった。

「今朝のお月さん、見た?」

「うん。朝もお月さんが見えるんですね。左半分しか見えなかったけど」

「そうだよ。今日23日のお月さんは、下弦の月っていうんだよ。弓張の月とも言うけどね。左半分だけの月なんだ。左半分だけのお月さん、何かに似ていなかった?」

 突然言われても、今の状態で考えることなんかできない。

「弓道の弓と弦に見えなかった?」

 そう言われると、見えなくもない。

「見えた気がします」と曖昧な返事をしてしまった。

「下弦の月を弓張の月というのは、きっと弓に見えるからじゃないかな」

「うん」

 「うん」と返事をして気づいた。「はい」と返事をしていた私が知らぬ間に「うん」と気安く返事をしている。それだけで、とおる君に心は少し近づいている気がした。

「由美さんの受験が終わるまで会うのを我慢しよう」

 返事ができない。

「その代わり、弓張の月を思い出してほしい」

「え?」

「弓張の月、あの弦を由美さんにひいてほしい。そして僕の心に・・・」とおる君が照れているのがわかった。それが嬉しかった。

「私も話していい? 弓張の月、受験終わるまで毎日思い出す。その代わり、とおる君もあのお月さんの弦をいっぱいにひいて、矢を私の心に。お願い」。言った途端に顔が真っ赤になった。口から心臓が飛び出しそうになった。息が止まりそうだ。とおる君の顔も赤くなっているのがわかった。


 しばらく会話がなくなった。

「寒いね。もうそろそろ帰ろうか」

「うん」

 とおる君が道場の明かりを消してた。100段もある階段で肩がぶつかるほど近くで歩いた。とおる君のカバンには、私の手作りの熊ちゃんが付いていた。




エピローグ


 お月さんに導かれるようにとおる君と出会えた。受験勉強をしながら、私もお月さんのことを気にするようになった。

 とおる君からのラインのメッセージは、今までの約束通り。一日一回、返信は2回まで。それでも繋がっていることが嬉しかった。


 2023年8月16日、私は真っ白な日記帳を手首から流れる血で赤く染めた。まさか、この日が新月だとは知らなかった。どん底にいると思っていた私。でもあの日は私のスタートの日だったんだ。


 このことに気づかせてくれたのもとおる君だ。とおる君と出会わなかったら、あの日は辛い思い出として一生心に残ってしまったかもしれない。でも新月だと分かった時、あの日はすべてのスタートの日だと気づかせてくれた。


 そうだ、どんな辛いことがあっても、その日は次へのスタートの日になるんだ。

 






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