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04 恨み節

「ナナポタ! ナナポタいる!?」


 ベッドは(から)、ユニットバスにもいない。残るバルコニーを、カーテンを開いて覗く。ここにもナナノは見当たらなかったが、理世は視界の端に別の姿を捉えた。


「あ……」


 非常階段の手摺に、またもカラスが止まっている。


 ──ビー玉。黒いビー玉。


 カラスは先程と同じように理世をじっと見ていたが、僅かに身じろぎすると、しゃがれた声で一鳴きした。理世にはそれが、カラスの鳴き声というよりも、体の弱った老人が絞り出した呻き声のように聞こえ、思わずカーテンを乱暴に閉めた。

 

 ──絶対おかしい。


 やはり病院で、少なくともこの三階で、何かが起こった事は間違いなさそうだった。

 

 ──早く探さなきゃ……!


 部屋を出ようと振り返った理世だったが、直後、あり得ない光景を目の当たりにして飛び上がりそうになった。

 知らない女が、ベッドの上で膝を抱えて座り込んでいたからだ。


 ──いつの間に? どうして? 


 理世はゴクリと唾を飲み込んだ。


 ──誰なの……?


 女がゆっくりと理世の方を向いた。生気のない虚ろな目、荒れた唇、頬のこけた青白い顔にボサボサの長い黒髪、簡単に折れてしまいそうな細い腕と足。ナナノと同じレンタルパジャマが、より病的に見せている。


「え、えっと……」理世は恐る恐る声を掛けた。「あの……失礼ですが、ど──」


 質問は女の叫び声で遮られた。理世はビクリと体を震わせ、ショルダーバッグを両手で抱えて立ち竦んだ。


「ムカつくんだよ」女がしゃがれた声を発した。「ムカつくんだよ。皆幸せな生活送りやがって。私はこんなに不幸なのに」


 これが異様な状況である事を、理世は充分に理解していた。誰かに助けを求めるべきなのだろう。そもそも三階に戻って来た時点から様子がおかしかったのだから、一度モカの元に戻れば良かったのだ。

 しかしそれでも理世は、逃げ出すよりも先に、とりあえずもっと話を聞いてみようと思った。


 ──きっと、とっても辛い事があったんだ。


 どうしても放っておけなかった。自分が話を聞く事で、目の前の謎の人物の気分が、少しでも晴れるのならいいと心から思った。


「どうしたんですか」理世は勇気を出し、再び声を掛けながらベッドに近付いた。「何があったんですか? 良かったらお話を聞かせてください」


 何も答えず、ただこちらをぼんやりと見ているだけの女の様子に、理世は非常階段のカラスを思い出した。もっとも、あちらの方がずっと生きた目をしていたが。

 余計なお世話だったのだろうか。しかし、本当に話したくないのであれば、穴の開く程見つめてくるだろうか。


「あの──」


「何で?」女が再び口を開いた。「何で私がこんな目に?」


「……こんな目?」


「真面目に生きてきたのに。他人(ひと)にも優しくしてきたのに。そんな私がこうなって、不真面目な奴らや意地悪な奴らがあらゆる幸せを手にしてる。不公平だよ。惨めだよ。神様なんていないんだ!」


 女は一気に捲し立てると、両手で顔を覆って俯いた。理世は素直に同情した。こんな目に、こうなって、とは病気か怪我の事だろう。そして恐らくは、軽度のものではない。


 ──どんな言葉を掛けても、怒らせちゃうだけかも。


 話したいだけ話させ、何か問われればその都度答える。それが一番無難だろうと判断し、理世は女の次の言葉を待った。

 沈黙は長くは続かなかった。


「いいよねえ、あんたは幸せそうで」


「……え?」


「私の事憐れむフリして、内心笑ってんでしょ」 


「そんな──」


 女が顔を上げると、理世は思わず息を飲んだ。虚ろだった目は血のように真っ赤に染まり、ギラついている──まるで、久し振りの獲物を見付けた死にかけの獣のように。


「そうなんでしょ?」


 女の声色は変化していた。年齢・性別問わず複数の人間のものを無理矢理混ぜたようで、違和感しかない。

 理世はようやく、この女が普通の生きた人間ではない事に気付き始めた。


「ねえ、そうなんでしょ?」


 女はベッドの上に左腕と両膝を突き、右腕を理世の顔に伸ばした。


 ──あ……。


「そうなんだろぉがぁ!?」


 顔を掴まれる直前、理世は自分の動きとは思えない素早さで後ろに回避した。女がバランスを崩して前のめりになると、最後まで見届けずに慌てて部屋を出た。

 フロアは相変わらず暗く、誰かの気配も感じられず、自分が立てる足音と息遣い以外の物音も聞こえてこない。


 ──やっぱりここから逃げなきゃ。ああでも、ナナポタは!?


 どうするべきか迷いながらも、エレベーター前まで来ると下階へ向かうボタンを連打したが、電子パネルは真っ暗で、動いている様子がない。


「そんな……!」


 ヒタ、ヒタ、ヒタ。


 ──え……?


 ヒタ、ヒタ、ヒタ。


 理世は元来た方へとゆっくり振り向いた。


 ヒタ、ヒタ、ヒタ。


 ──足……音?


 ヒタ、ヒタ、ヒタ。


 301号室にいた女が、前方左の角から姿を現した。理世に気付くと、目と口を三日月みたいにして笑った。


「待ちなさいよお」


 ヒタ、ヒタ、ヒタ。


「話は終わってないんだからさあ」


 ヒタ、ヒタ、ヒタ。


「ズルいのよ、あんたたちはさあ……」


 ヒタ、ヒタ、ヒタ。


 女が両手を伸ばした。爪が異常に長く、先が赤黒く汚れている。つい先程会話した時にはこんな状態ではなかったはずだ。


「あ……あああ……」


 理世は鉛のように思い足を何とか引き摺り、数歩後ずさった。


 ヒタ、ヒタ、ヒタ。


「何で私が」


 ヒタ、ヒタ、ヒタ。


「何で私がこんな目に遭ってあんたたち幸せなんだよぉぉぉぉ!」


 理世が叫び出しそうになったその時だった。


「非常階段だ」


 何処からともなく、知らない男の声が聞こえた。


「カラスの非常階段だ、このグズ女」


 ──え……?


 周囲を見回すも、声の主は見当たらない。


「……誰よ」


 女は理世よりも困惑した様子で、鬱陶しいくらいに頭をキョロキョロとさせている。


「誰よ……誰よ今のはぁ!?」


 理世はその隙に、女を突き飛ばすようにして301号室の方へと走った。角を曲がり、真っ直ぐ進んで突き当たりを右、部屋には入らず、ガラスのドア──非常階段へ。

 一瞬、鍵が掛かっているのではと心配になったが、ドアは意外にもあっさりと開いた。夏の熱気と空の明るさが、妙に懐かしい。


「待てえぇぇぇ」


 ヒタヒタヒタヒタヒタヒタ。


「待たないと殺してやるからぁぁぁぁ」


 理世に後ろを振り返る勇気はなかった。


 ──ごめんなさい……わたしじゃ、あなたの力にはなれそうにないです!


 理世は一目散に階段を駆け下りた。一階のドア前まで辿り着いた時、遥か遠くからあのカラスの不気味な鳴き声が聞こえたような気がしたが、構わず中へと転がり込んだ──……。

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