01 ナナポタ
大学生の特権である長期間の夏休みも、あと三週間足らずで終了する。
忙し過ぎるくらいに充実した毎日を送ろうと意気込んでいた理世だったが、いざ始まってみれば連日の猛暑にすっかり気力を失われてしまったし、そもそもスケジュールはほとんど埋まっていなかった。昨日はモカと三箇月以上振りに会い、楽しい時間を過ごせたが、それ以外には特に何の予定もなかった。
「あんた、バイトでもしたらどうなの。単発でいいからさ」
リビングのソファでダラけている理世に、キッチンから母親が声を掛けてきた。
「他にやる事ないんでしょ?」
「あるよ。こうやって体を休めたりさ」
「言うと思った。少しはモカちゃんを見習いなさいよ」
モカは高校卒業後、デザイン系の専門学校に進学した。ところがそれから僅か一箇月後、父親が病に倒れ、長時間の労働が難しくなってしまった。治療費や生活費だけでなく、まだ小学生の弟の今後の学費を捻出するため、中退して工場で働き始めたのだった。
「また今度モカちゃんに会う時は教えて。何かお土産持たせたいから」
「うん」
理世はソファ前のローテーブルからスマホを取ると、SNSでフォロワーの投稿や面白そうな情報に目を通してみたが、五分と経たないうちに飽きてきた。
──うーん……とりあえず見るだけでも?
労働自体はあまり気乗りしないが、求人広告に目を通すだけならいい暇潰しになるかもしれないと考え、以前利用した事のある求人サイトを開きかけた時だった。スマホが震え、モカからの着信を告げた。
──おっ、噂をすれば何とやら。
「もしもし?」
「あ、理世、昨日振り」
「うん、昨日は有難う。どしたの?」
「あのさ、明々後日の月曜日、空いてる?」
「空いてるよー」
「昨日、ナナポタが入院したんだって」
会ったばかりなのに、もうわたしが恋しくなっちゃった? 喉まで出掛かったそんな軽口を、理世はギリギリのところで呑み込んだ。
「それで、今日の午後には手術」
「ナナポタが……え、え、何で!?」
「卵巣嚢腫だって。良性じゃないかって言われてるらしいけど」
〝ナナポタ〟ことポッター那奈乃は、モカと同じく、理世の中学時代からの友人だ。栗色の髪と白い肌、少々彫りの深い顔立ちはイギリス出身の白人の父親譲り。初対面の人間には外国人だと思われがちだが英語能力は低く、本人もよくネタにしていた。
中学卒業後からしばらくの間は、何度か一緒に遊びに出掛けたり、当時利用していたSNS上でやり取りもしていたが、ここ最近は連絡を取っていなかった。
「昨日の夜、ふと思い立って久し振りに連絡したんだ。そしたらビックリだよ」
「うん、わたしも驚いてる」
「火曜日には退院するらしくてさ、あたしは明日明後日どっちも仕事だから、月曜日かなって。どう?」
「勿論行くよ!」
当日の待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切ると、理世はまだ台所にいる母に事情を説明した。それから自室に戻り、部屋着から外出着に着替え、簡単に化粧をした。
「あれ、何処か行くの?」
理世が玄関まで来ると、母が台所から顔を覗かせた。
「二丁目の神社。あそこって確か、病気平癒の御利益があるとかって、全国的にそこそこ有名じゃなかった? 良性でありますようにって、ちょっと拝んでくる」
「そっか。あの辺車の通りが多いから、気を付けて行ってらっしゃい」
自宅を出るまではよく晴れていた空は、神社に近付くにつれて雲行きが怪しくなってきた。
──ありゃ……何とか帰りまで持てばいいけど。
最短ルートである昔からの住宅街を通る途中、理世は民家の塀の上に寝そべる、赤い首輪を着けたサバトラ猫を見付けた。
驚かさないようゆっくり近付き、チチチッと舌を鳴らすと、サバトラ猫は上体を起こし、ニャアと小さく鳴いて応えた。指先を伸ばしても嫌がる素振りを見せなかったので、そのまま頭を優しく撫でると、気持ち良さそうに目を細めている。
「あはは、可愛い~。ここのお家の子かな?」
何度か頭を撫でた指を、首へとずらした時だった。サバトラ猫はハッとしたように目を開くと、まるで警戒するかのように体を引き、理世を凝視した。
「ん? どうしたのかな?」
もう一度指先を伸ばすと、サバトラ猫は慌てて塀から降り、理世が来た方へと走り去ってしまった。
「あれ……何か気に障っちゃった?」
まだまだ触り足りなかったが、本来の大切な目的そっちのけではいけないと思い直し、理世は再び神社へと歩みを進めた。