逆鱗
腹が熱い。どうやら太い血管を損傷してしまったらしく、ドクドクと血が噴き出すように流れているのがわかる。
咲はさっさと逃げてしまった。警察に連絡しててくれればいいが…。
目の前には包丁を持った藍がいた。
「どうして…こんな事を…?」
藍はフンッと鼻を鳴らした。
「決まってるじゃない。復讐よ?わたしと別れて一週間で次の女。しかもわたしの荷物を勝手に処分した? 器物損壊罪で訴えてやろうかと思ったけど、そんな手ぬるい真似はやめたの」
藍は俺の家の前で待ち伏せしていたのだ。
咲と帰ってきたところを、急襲してきた。俺は咄嗟に咲をかばい、刺された。
「本当は苦しんで死んで欲しいけど、」にっこりと笑う。その笑顔に怖気が走る。「まぁ、許してあげるわ…」どうせ死ぬんだからね?と鼻歌まじりに言うと、俺を刺した包丁を自らの喉元にあてがう。
「お、おい…何する気だ…?」
意識が朦朧とするくせに、その光景は妙に鮮やかに見えた。
藍はしれっと答えた。
「死ぬのよ。あんたの為に刑務所暮らしなんてまっぴら。ここでさよならよ」
バイバーイ、明るい声で言って、藍は自らの喉を包丁でかき切った。
噴き出す血が俺の顔にかかった。ばたりと倒れ込む藍の姿…。
包丁が手から離れ、カラン、と音を立てた。
―狂ってる…。そう思いながら、俺も意識を失った。
目覚めた時、奇妙な場所にいた。
黒い羽の生えた…悪魔…?
そして傍らには、あの時、息絶えたはずの藍の姿があった。
思わず飛びのける。
「死んだ後も失礼な男ね。クズ。」と暴言を投げられた。
悪魔と思った黒い羽の生えた―しかしそれ以外は人間に見えた―が、パンパンと手をはたきながら言った。
「ここで不毛な争いはやめてください。あなた方には、裁判を受けて頂きます。」と。
あれよあれよ、と歩かされ、同じように黒い羽の生えた―やはりそれ以外は人間に見える―の前に引き立てられた。
そいつが眼鏡越しに、こちらを見た。手元には何やらノートが広げられている。
「では、まず…井上藍さん。あなたは彼―木梨良さんを刺し殺し、自ら命を絶った。間違いありませんね?」
藍は「はい。間違いありません。」とスパッと答えた。
何やら書き込む手元の動きだけが見えた。
「では、木梨良さん、あなたは生前、彼女を一方的にブロックし、荷物を勝手に捨てた。それを認めますか?」
うぐっ、となったが、渋々認めた。そもそもは藍が悪いのだ。嫉妬し、してもいない浮気でなじられ、嫌気が差した。
そんな時に誘われた合コンで咲に出会った。
だから関係を断ち、荷物も処分したのだ。
「それでは、結論を。井上藍さん、あなたは生前の罪で地獄行き。それが終わり次第、浄化、転生。」
「次に木梨良さん、あなたは生前の罪で、流刑。二度と転生はされないものとする」
俺は口をあんぐりと開けた。
「なんでだよっ!?俺は刺し殺された被害者だぞ!?」
冷ややかな視線を向けてくる、悪魔―彼は冷ややかな声音で言った。
「あなたは触れたからですよ…触れてはいけない<逆鱗>に」
連れて行け。の声で、どこから現れたのか、悪魔が二体現れ、暴れる俺を引きずっていった。
俺は煮えたぎる大釜に放り込まれた。
「しっかし、女を怒らせると怖いねぇ。永遠の流刑だよ」と片方が言うと、「そもそも、<逆鱗>に触れる真似をしたのが悪いのさ」ともう片方が言った。
藍が「バイバーイ」と手を振っていた。
「わたしはー、真面目に、償って、生まれ変わります!」などと抜かしている。
俺はそんなにも罪深いことをしたのか…?
煮られながら、思った。
先程の片割れが、ひょいと覗き込んできた。
「じっくり考えるんだね、何が<逆鱗>に触れたのか…時間は無限にあるんだからさ」
そう言い残して去っていった。
「俺は悪くない!!」叫びが虚しく響いた…。