黒い鳥に喰われる
・冬馬
外は重い漆黒におおわれていた。夏の始まりの風は湿気を含み始めていて、冬馬はもう一度深くため息をつくと狭い部屋に戻った。七海はもう小さな寝息を立てて眠ってしまっているようだった。冬馬はその頭を軽くなでパソコンの前に座りなおす。
冬馬は小説家だ。いや、エッセイや依頼されたレビューなんかも書いているから、物書きに近いか。冬馬の力量では、七海のバイト代と合わせても小説だけで食べていくことはできず、幅広く手を出しているのだ。今は連載中の小説を書いているところだった。主人公が社会の権化である「黒い鳥」と戦う話だ。この黒い鳥を主人公の超えることのできない壁として描写した前回では、次回を待ち望む声がネットにあふれた。
七海は冬馬のかなり初期のファンだ。そのころ箸にも棒にも掛からぬ冬馬の小説を数多くある小説の中から見つけて感想をくれた。そこからやり取りするようになり、いつしかともに暮らす仲になった。七海はずっと冬馬の心の支えだった。
・七海
七海はケータイのアラームで目を覚ます。隣を見ると冬馬が真っ黒な画面のパソコンに伏せて眠っていた。また遅くまで書いていたのだろうか。その眼には薄くクマが現れている。付き合った当初は、いつでも何かを書いているし、出かけたら突然ひらめいたみたいにメモを取り出すし、なにかと面食らった。それでもいやだと思ったことはなかった。もともと冬馬のファンだったから、自分をよそにひたすらパソコンに向かっている彼をみて、新作が読めるのかとわくわくしさえした。自分と冬馬の分の昼ご飯を作り、バイトに行く旨をメモに書いて家を出た。冬馬はおそらく昼過ぎまでおきないだろう。
・冬馬
学校に遅刻する夢をみて慌てて飛び起きた。リアルすぎて冬馬はしばらく起きた体勢のままで今おれは学生じゃないぞと自分に言い聞かせる必要があった。落ち着きはしたが目覚めは悪く最悪の気分だった。こんな夢を見たのは今日入稿しなければいけない、アプリのレビューが書き終わってないからだろう。もう書くことは決まっていて書くだけなのだが、ついつい小説のほうに手をかけてしまった。レビューとは違い、小説はかけるときにかけるだけ書いておかないと、不調になったとき原稿をおとしてしまう。冬馬は七海がつくった昼食をたべ、急いでレビューに取り掛かった。
半ばほど書き、軽く休憩しつつ業務関連のメールを返す。この前雑誌に載せる為に書いた短編の修正依頼が届いていた。丁寧かつ柔らかい口調だが、ちゃんと読むと方向性の変更をお願いされているとわかる。かなり大きな修正が必要となるだろう。もの書きは神経質な人が多いのか、指摘やお願いにひどく気を使われる。大量のメールの中でそれに配慮して真意を探るのはなかなかに骨が折れた。集中力を切らさないように電話を断っているのもそれに拍車をかけたが、仕方がなかった。返信にきりをつけた後、しばらくかけてレビューを終わらせた。気分転換に冬馬は夕暮れの町に出かけた。
・七海
「花?と、お酒?」
七海が帰ると見慣れた部屋に見慣れないものが増えていた。大量のお酒が机に置かれており、冬馬は陶器製の小さな鉢を抱えていた。冬馬はそれを窓際に置いた。
「そう。かわいいでしょ、トマトの苗なんだけど」
食い入るように育て方の書いてある小さな紙を読んでいる。七海が楽しみだねと笑いかけると、冬馬もだね、と笑い返した。ネットも使い小一時間かけてトマトの育て方を調べ上げ(メモも取っていた)、満足そうに伸びをした。
寝る前、ゆっくり過ごしていると、大量のお酒が再び机に乗った。それとおつまみも大量に乗せられる。
「なにこれ。さっきから気になってはいたんだけど……私も冬馬もお酒飲まないじゃん」
冬馬はちょっと買いすぎたかなと苦笑いして、
「今度かく短編で主人公がやけを起こしてお酒を飲みすぎてしまうシーンをいれたいんだよ。でもおれはあんまり飲まないからさ、どういう感覚かわからないんだよねえ」
ハハハと頭をかく。さすがはプロだね……と言いながらも七海は冬馬の体が心配だった。冬馬はそんな七海をよそにハードカバーの本を読んでいる。無名時代に付き合いのあった作者から感想と推薦文をお願いされているようだった。広告の裏に何やらメモを取りながらごくごくと飲んでいた。ちびちびのむより早く酔えるとどこかで知ったのだろう。よくそんな頭で小説が読めるなと不思議に思いながら七海はチューハイをちびちび飲んでいた。突然大きな音をたてて本を閉じると冬馬はトイレへ駆け込んだ。だいぶ酔いが回ったのだろう、机のお酒は大半がなくなっていた。心配して外から声をかける。やはり吐いているようだ。ときおり吐しゃ物を詰まらせてむせているのが聞こえる。冷たい水をもっていくと落ち着いたようで口をゆすいでいた。ありがとう、と受け取り飲み干すと、再びお酒を開ける。
「ちょ、ちょっとまって。まだ飲むの?」
うーん、でも飲み続ける描写にしたいし、それにもったいないし……とうわごとのように続ける。結局、途中で寝てしまうまで冬馬は飲み続けた。
・冬馬
頭が痛い。二日酔いか。冬馬は症状をメモしようとするが体が動かなかった。これをやってしまった主人公はかなり後悔するんだろうなとぼんやり思う。初体験の二日酔いは半日を無駄にさせた。昨日読んでいた小説はちょうど半分までいったところだった。冬馬はやけ酒の一部始終を細かくメモに取り、続きを読み始めた。読み終え、感想を書き始めたところで七海が帰ってきた。七海は冬馬の体の心配をし、無理はするなといった。冬馬は大丈夫と答えた。七海は最近忙しすぎるのではないかといったが、冬馬は取り合わなかった。まだまだこんなもんじゃない。小説、エッセイ、レビュー、推薦文、書評……たしかに手を広げすぎている感覚があったが、冬馬の周りには絵を同時並行で描いているものもいたしもっと作品を出す頻度の高いものもいた。だからこんなもんで止まっているわけにはいかない。便利なこの世の中には掃いて捨てるほど娯楽があふれているのだ。冬馬が立ち止まってしまえばたちまちその中に埋もれてしまうだろう。それに止まったが最後、再び進むことはできなくなってしまうだろうという予感もあった。夕飯を食べ、推薦文を書き終えると深夜だった。しかしまだ眠るわけにはいかなかった。何気ない日常を書いているブログの更新がかなり空いてしまっていたのだ。このブログはたまにエッセイとして使われるほかには収入にはなっていないのだが、固定でついているファンがおり書かない選択肢はなかった。冬馬は昨日とっておいたトマトの苗の写真と育て方のメモを見ながらブログの更新を始めた。トマトの実がなったらもう一度上げようか、それか何日かに分けて成長の過程を見せていくのもいいかもしれない。眠気でぼんやりした頭で書き上げたのは外に夜明けの予感が漂ってきたころだった。更新できる準備をして保存する。実際に更新するのは起きてからにするつもりだった。更新通知を設定してくれている人を驚かせないようにするためだ。そのままちょっと寝て七海のバイトを見送るくらいには起きたいと思っていたが、起きたのは七海がバイトに出た後だった。
・七海
バイトに出る前にちらりとパソコンの方を見ると昨日のトマトの育て方のメモと苗が乱雑に横に置かれていた。ブログを確認してみたがまだ更新はされていないようだった。たぶん出来上がったのが遅くなりすぎて更新だけは翌日に回したのだろう。まさかブログに使うとは思っていなかった。最初からそのつもりだったのだろうか。楽しみだね、と笑いあった心のうちは二人、異なるものだったのかもしれない。小さくため息をついて七海は家を出た。ここまでする必要があるのだろうか。七海には、冬馬が起きてから寝るまで、生活のほとんどすべて、人生のほとんどすべてを書くことに費やしているように見えた。バイトの休み時間にはブログは更新されていてすぐにそれを読んだ。それは確かに七海の好きな、小説家としての冬馬の文面で、かつ口調が砕けている分彼の茶目っ気がでていてなかなか面白かった。しかし七海の心は暗くなる一方だ。餓鬼と化した自分が冬馬の身体や心をむさぼり喰っているような嫌なイメージが頭にこびりついて離れなかった。
・冬馬
今日は珍しくやらなければならないことはそれほどなさそうだった。この前きていた短編の修正の細かな確認を電話でして、修正に軽く手を付ければ期限に余裕をもって提出できるだろう。冬馬はほとんど無自覚にケータイをとり自分の作品やペンネームで検索を始めた。いわゆる「エゴサーチ」だ。「面白い!」「次回が楽しみ」というような分かりやすい褒め言葉から、展開に対して鋭い考察を行っているものもあったし、なかには展開などについて筋が通っていないことを指摘していたり、純粋に理解できないとかいているものもあった。自分と同じ感性を持っている人だけではないしどんな人気作だって嫌いな人はいるのだから、気にすることではないのだが、ひどく冷たく書かれているものもあり軽く動揺してしまった。うつむきがちに検索を続けているとふと見覚えのある名前が目に入った。まだデビューを夢見てネットに小説を上げていたころ、冬馬より少し早い時期から同じサイトで連載をしており、感想を送りあったこともある人だった。その人がランキング上位に入っている。その紹介文の初めには【文庫化&アニメ化記念!!】と書かれていた。冬馬は自分の心が不快にざわつくのを感じた。胸の右のほうが砂でこすったようにざわめいた。嫉妬だ、と思った。確かに彼の書く作品は目立った展開はないもののキャラクターの個性が強くとても魅力的だった。わかりにくい表現もなく絵になるような場面も多いのが特徴だったのでアニメ化が成功するのは目に見えていた。いままで世間にでていなかったのが不思議なのだ。冬馬はなぜか震えている指でお祝いのメッセージを打った。心はかわいて焼けたようにひりついていた。もしかしてそこだけなくなっているのではないかとすら思えてしまうような痛みだった。心からすべてが抜け落ち、何もなくなっていくように感じた。文庫の人気を調べたが、こちらはランキング下位だった。この広い世界には面白い文庫なんて数えきれないほどあるのだ。ページをスクロールさせながらその多さに目がくらむ思いだった。まだだ、まだまだだ、とだれかが頭でつぶやく。小説を進めておかなきゃ、とソフトを立ち上げるが、心の空洞は顔の右半分や右腕を簡単に侵食してしまう。力の入らない両手は小さく震えていた。七海、と声にならない声で呼んだが、彼女はバイト中でここにはいなかった。誰かに自分を確認してほしかった。自分が一ミリも変わることなくここにいると誰かに断言してほしかった。そうしないと自分の右半分が消失してしまうようなそんな気がした。不意に涙が流れてきた。戸惑いながらもその感覚で右側に顔があることが分かり冬馬は安心した。安心すると何かが自分に覆いかぶさっていることに気づいた。そしてそれがなんであるか冬馬はすでに知っていた。それは、黒い鳥だった。
・七海
今日はごちそうにしようと何気なくスーパーで寿司を買った。それを手に家に帰るとだらしない格好で冬馬が眠っていた。それを見てやっと休めていることに安心していると目を覚ました。ねちゃったんだ、とつぶやく冬馬の表情に暗いものを感じながら七海は寿司を机に置く。
「今日は奮発しちゃった!」
無理に明るく冬馬に笑いかける。冬馬はぎごちなく笑い返すと久しぶりだなと箸を手に取った。
「忙しい?」
「いや、今日は短編の確認してそれからずっとだらだらしてた」
「そっか。最近忙しそうだったもんね」
七海は心底ほっとして息をはいた。
あ、そうだ、と冬馬は口を開く。今度、あいつと遊ぶことになったから。そう言って教えられた人はあったことこそないものの前冬馬が使っていた小説連載のためのサイトで七海も作品を読んだことのある人だった。キャラクターが魅力的で作りこみがしっかりしていた。話の展開重視の七海は途中で読まなくなってしまったが、人気の出そうなタイプに見えた。きくとアニメ化と文庫化を果たしたらしく、そのお祝いを伝えたら会おうということになったらしい。七海はブログのことが頭をよぎった。それってブログに書くの、いってから聞こえないように願ったがそれはかなわず、冬馬はいぶかしげに七海を見た。
「まだ考えてないけど。まあ、確かに載せたら反響はありそうだな。なんで?」
「なんか、やりすぎじゃない……?冬馬、最近ちょっとおかしいよ」
恐る恐る伝えると、まだ決めてないって、とそっけなく言う。私、バイト増やしてもいいからしんどかったら仕事減らしてね、というと、ありがとう、と重い口調で言った。
本当は七海にもわかっていた。冬馬がバイトをしないで描くことだけに打ち込めているのは幸せだということ、バイトをしながら書いている人もたくさんいること。報われるかわからない、気を抜けばすぐに落ちて行ってしまうような世界で、冬馬がもがいていること。
喰らう側でありながら、偽善者のようなことを言う自分に自己嫌悪に陥っていると、冬馬が口を開いた。
「わからないんだ」
「わからない?」
「このままではおれはなにかに押しつぶされてしまう。それがなんなのかはわからないけど、たぶん倒さないと、それか逃げないと、おれはきっとなにも見えなくなって、おれはおれでなくなってしまう。どうしたらいいのか、おれにはわからないんだよ」
「なにかって?」
七海は言いながら、それは自分なのではないかとおびえていた。私が、読者が、ファンが、彼を飲み込もうとしている。
「わからないの?ほんとうに?七海は同じことを感じたことはない?」
そこで冬馬ははっと気が付き、続けた。七海はかたずをのんで、次の言葉を待った。
「おれの顔、欠けてないか?おれ、今日飲み込まれて消えていくような気がしたんだ。大丈夫かな、おれは」
声が震えている。彼はもう迷子のようだった。すがるように七海を見ている。七海は返り血のにおいを感じながら、冬馬のもとに歩いて行った。
そばに座る。彼の顔を優しく包んでから、そっと抱きしめる。
「大丈夫だよ」
冬馬は震えていた。七海は心がきしむのを感じながら、言葉を続ける。
「怖かったね、がんばったね」
もう一度、優しく頭をなでる。
「ごめんね」
・冬馬
冬馬が勢いよく顔を上げた。彼の顔は涙でぐしゃぐしゃだ。私は彼が好きなのに、彼を苦しめて一体何がしたいのだろう。そう七海は思っているのに、書かなくていいよ、とは絶対に言いたくなかった。むしろ彼の苦しみからなにか新しいものが生まれることを期待さえした。大切な彼がボロボロになってまで書くものを渇望した。
「七海は悪くないよ」
「そうかな、だって冬馬が苦しい思いしてるのって」
私たち、ファンのせいなんじゃないの? 私が、私たちが、身勝手に、わがままに、欲しいものを、見たいものを、冬馬に押し付けているからじゃないの? それでいて、なんら一つ未来を約束しない、無責任な私たちのせいなんじゃないの?
しかし、それは冬馬によって遮られ、声になることはなかった。
「そんなことない、おれはおれの好きで書いているんだから」
七海も泣きだした。心底安心していた。否定されたことにではなく、冬馬に書き続ける意思があることに。何度も何度もうなずく。
「おれはちょっと見えなくなっていただけなんだ」
冬馬は自分に言い聞かせるようにつぶやく。七海、と優しい声で話しかけられる。
「多分、おれはこれからも簡単に自分を見失ってしまうだろう。おれは簡単に、あの黒い鳥に操られてしまう。だから、その時は七海に教えてほしい、おれがたしかにここにいるってことを」
七海はしばらく冬馬を見つめた後、笑顔で大きく頷いた。それをみて冬馬は七海を一層強く抱きしめ返す。しばらく二人はそのままでいた。七海は冬馬が、自分で自分の苦しみに答えを出したのだとわかった。そのことに七海は強く歓喜していた。次の作品はきっといままで以上に素晴らしいものになるだろう。七海は血の匂いが強くなるのを感じながらも、抱きしめるのをやめなかった。やめたくなかった。
「限りなく透明に近いブルー」にでてくる、黒い鳥の概念を借りています。問題があれば削除します。