冬の谷間
吹雪の夜のことでした。
セリョージャは、小さな体を雪まみれにして、必死に歩いておりました。
周りは渦巻く雪ばかり。叩きつけられる雪片に、目を開けることすら出来ません。
手袋は雪に濡れて湿り、靴に入り込んだ雪が溶けて重くなってしまいます。このままでは、体温で溶けた雪のせいで、凍傷になることでしょう。
よく晴れて輝く冬の森へ、少し散歩に出ただけでしたのに。セリョージャは、もう、自分が何処に居て、何処へと向かっているのか、まるで解らなくなっています。
それでもセリョージャは、必死で雪を漕いで進みます。歯を食い縛り、殆んど瞑った瞼の隙間から前を見て。吹雪く風の音しか聞こえない周囲に、必死で耳をすませます。
その気持ちが通じたのでしょうか。
それとも幻聴だったのでしょうか。
吹雪に混じって、澄んだ泉のように清涼な歌声が聞こえて来ました。雪原は輝き、暖炉は歌う。そんな楽しい冬の情景を、美しい声が描き出します。
セリョージャは、不思議と力が沸いてくるのを感じました。
さっきまでは、鼻が痛くて足が凍って、辛くて悲しくて、たまらなかったのに。
心なしか、湿った衣服が乾いてきたようにも思われました。
やっぱり周囲は真っ白に雪と氷が渦巻き、酷く哀しげな風の唸りが取り囲む。
セリョージャは、重たい脚をぎこちなく動かしながら、我知らず、澄んだ声にハミングを合わせます。すると、ただ聞いていただけよりも、もっと暖かになってきました。
不思議に思いながらも、セリョージャは、歌の聞こえてくる方へと進んで行きました。
その小屋は、雪に閉ざされた寂しい谷の、崖と大樹に守られておりました。ぽつんと一軒、嵐の冬に建っていました。
ピタリと閉じた鎧戸からは、橙色の暖かな光が漏れています。
白しかなかった視界に、オレンジ色の縞模様が現れたのです。セリョージャはどんなにか、ほっとしたことでしょう。
そして、何よりもその扉の向こうから、あの澄んだ美しい歌声が響いて来るのでした。
歌は、高く低く、軽やかに冬の空気を震わせます。
セリョージャは、ハミングを続けながら、固まった腕を必死に動かして、扉を叩きました。
黒々と夜に沈んだ重たい扉に、微かな音しか立てられません。
小屋の中には、何人いるのでしょうか。どんな人々なのでしょう。煌めく歌は、休みなく続いておりました。
セリョージャは、ハミングをしてはおりますが、口を開けることが出来ません。酷い吹雪のせいです。かじかんだ手を凍った扉に打ち付けるのは、痛くて顔が歪んでしまいました。
それでも、部屋の中の暖かそうな明かりに望みをかけて、セリョージャは小屋の扉を叩きます。
ふと、歌が止みました。セリョージャは、扉を叩く拳に力を込めました。
セリョージャが諦めそうになって、拳の力が抜けたとき、がちゃりと鍵を外す音が聞こえました。
そっと開かれた扉の隙間から、茶色く優しそうな瞳が覗きました。
「まあ」
茶色の瞳をした女性が、小さな叫びをあげました。それから、急いで扉を開けました。セリョージャが通れる、少しだけ。
強く、乱暴なくらいに素早く、セリョージャは小屋に引き込まれました。
小屋の奥には、煉瓦作りの小さな暖炉が見えました。パチパチと火の粉を舞わせて、薪が頼もしく燃えております。
女性に連れられて、セリョージャは温かなお湯につけられました。それから、そっと服を剥がれ、大きくて清潔なタオルにくるまれました。
乾いてふわふわの服を着せられ、暖炉の前に座らされます。女性のシャツらしきその服は、地肌に着ても柔らかく、よい香りがしました。
女性は、軽く暖めたミルクに、たっぷりの蜂蜜を入れてくれました。にっこり笑う茶色の瞳は、栗色の睫毛に縁取られ、暖炉の赤を映して輝いておりました。
春になり、セリョージャは、少し大きくなりました。
嵐が去るまでの10日間、世話になった女性の家へ、沢山の肉や果物を積んだ荷馬車に乗って急ぎます。
今日は、お父さんと、お母さんと、妹も一緒でした。
あの日の歌は、もう季節外れですが、歌えば心が暖まります。
谷へと続く森の空には、セリョージャに合わせて囀ずる小鳥たちが、あの素敵な小屋へと案内してくれているようでした。
お読みくださりありがとうございました