前編: 運命の糸
碧という名前は、漁師だった頃に父が母を海で助けた時の海の色から付けた名前です。母は老舗旅館の一人娘で無理な縁談を押し付けられ、海に身を投げたところを父に救われたのでした。それが縁で父と母は結ばれ、父が漁師を辞めて旅館に入り、碧が生まれたのです。
KAZU. NAGASAWA 作
山仲 みどり コーディネート
第1章 あり得ない理不尽
碧は、道後温泉で有名な松山市の士書事務所で働くアラサーです。そして未だ戸籍の上では独身。事務所から歩いて7、8分ほどの実家から通っています。
彼女の父は、古くから続く老舗旅館の社長で、最近は市の地域振興や商工会の役員を掛け持ちして忙しい日々を過ごしています。そのため、旅館経営の大半は母が取り仕切っていました。
碧は一人娘で、地元の普通高校を卒業した後、岡山にある私立短大に自ら希望して進みました。会計士や秘書検定という、先々は実家の仕事を受け継ぐことを意識して資格取得に励んだこともあり、その容姿端麗とは裏腹に、異性との縁がなかったのです。
短大での思い出は、碧にとって人生の宝物に思えるものでした。卒業旅行は友人とカナダに行って、ホームステイや地元のイベントに参加しつつ、約一ヶ月間の海外生活を満喫しました。そして帰国し、これから向き合わななければならない社会人としての現実を意識はしたのですが、実際にはほとんど実感できずに卒業式を迎えていたのでした。
卒業式には両親が、わざわざ対岸の松山から泊まりがけで駆け付けました。
また、就職先は半年前に地元松山の信用金庫に決まっていて、岡山のアパートの引き払いと引っ越し作業に時間を割き、自分の勤め先のことなど、これといって意識することはなかったのです。
●突然の異動
碧の勤め先は、自宅からバスで10分ほどの信用金庫のとある支店に決まっていました。職員の割合は圧倒的に女性が多く、表面上は柔らかく、お互いの距離を保っていて、けして個人の交友関係などは口にしない独特の雰囲気でした。それはあたかも、実情を知らなければ女性同士が自分の責任と規律を守って、とても几帳面に働いているように見えていました。
普段の事務室では、マニュアル通りの接客、入金、払い戻しの入力処理が淡々と続き、たまにお年寄りが来ると、昔ながらのトレイが何人もの手を渡り、最後には、程度の良くない笑顔で客のお年寄りに渡す、そんな毎日が過ぎていきました。
碧は、入社して一月が過ぎていたにもかかわらず、知らない世界の孤独と、電話もまともに取り次げない自分の不甲斐なさに、焦りを覚えていたのです。
そんなある日、碧が午後3時の終業シャッターを下ろそうとすると、上司の副支店長に呼ばれ、明日から本店に異動することになったと告げられたのです。
碧は驚き、何人もの先輩たちを飛び越え本店に異動することは、父のことで特別扱いされていると思ていました。
「いやいや、本店の誰かが産休にでも入ったからかな? とりあえず準備」
などと憶測を重ねる一方で、何となく違和感のある流れを感じつつも急な話の展開に戸惑っていたのです。
しかし、そのことを間近で見ているはずの副支店長からは、異動に関して一言も説明がなかったのでした。
自席で荷造りをしていた横で、入金の打ち込みをする横顔が呟きながら、唐突に話しかけてきました。それが葵です。
葵の様子は、碧よりも先輩であることは仕事ぶりから明らかですが、初めて話し掛けられた驚きとその内容に、碧にとって今までに無い緊張が走ったのです。
「たぶん、碧さんは知らないと思いますが、最近、本店で不倫があって、それで女性が辞めさせられたらしいんですって。お相手はエリートさん。妻子あり。おとがめもなければ、そのまま居残りですって」
碧は思わず葵の顔を見ました。葵は一瞬手を止めてからまた話を続けたのです。
「そりゃあの男が急に飛ばされたら周りも気付くし、常連さんも何でって聞いてくるから。結局、女はバカ見るのよ!」
碧は、一瞬の戸惑いを経て、また異動の作業を続けようとしたのですが、淡々とした動きの割には作業は捗らなかったのでした。静かな事務室の状況から、周囲には葵の声が聞こえていると思えば、根拠のない話をすることは先ずあり得ないと、そう受け止めたのでした。
●女の嵯峨
あらかた最後の片付けが終わったのが、ちょうど夕方の6時過ぎのこと。碧は、翌日本店に行くことを副支店長が人事担当に言ってくれたので、不倫騒動のことが頭から消えていました。その日は自宅に社用の車を借りて一旦荷物を積んだまま、次の日の本店出勤に備えたのです。
翌日、碧は本店に着くと直ぐに机を指定され、社用の車で持ってきた自分の荷物をその中に放り込みました。
碧は自分が座ろうとしている席に、不倫で辞めさせられた女性がいたという気まずさを打ち消すように、あたかも自分の席であるかのように自然を無理に装っていたのです。
それから小一時間ほど過ぎたとき、隙を突くように自席の電話が鳴ったのです。相手は若い女性で、碧はマニュアル通りの対応で受け答えし、肩に受話器を挟みメモをとろうと身構えました。。
相手は沙弥香と名乗り、碧の名前を尋ねました。
「……中山です。碧と申します。ご用件の向きによりましては、担当からお客様にお掛け直すことでもよろしいでしようか?」
そう繋いだが、打ち消すように沙弥香が話し始めたのです。
「私は、あなたが座っている席にいたのよ。私はあなたと同じ支店からその席に異動したの。…私がその席に異動させられた理由も、同じ。前の方が不倫したからよ。そこは不倫席と言われているの。上役さんと二人で出かけるときは、ほんとうに用心してね」
やり取りを終え、碧は「ありがとうございました。」と言って受話器を丁寧に置いたのですが、不安が交錯して体が固まり、深いため息をついたのでした。
そして、気分を変えるために選んだのは岡山の短大時代のことでした。
碧には、以前から好意を持つ男性がいました。岡山の短大時代に知り合った和也です。和也は、岡山に接する広島県福山市から岡山高専に通う同い年で、碧とは市が主催する就職セミナーの隣席だったことから、和也が話し掛けたのが切っ掛けでした。
その後も、二人が申し合わせて度々食事会やボランティアサークルに参加するものの、大人の交際に発展するような展開はありませんでした。とは言うものの、時折、和也からのラインに「お前の声が聞きたい」とコメントされ、ついつい長電話することが碧の楽しみでもあり、また逆に、なかなか進まない恋の行方に不安と苛立ちを感じていたのでした。
このラインの既読歴を遡ると、和也から、たどたどと二人の距離を縮める話題になると、碧はドキドキして曖昧な答えを返す。その反面、煮え切らない和也に苛立ち、コメントの端々に感情をぶつけてしまうのでした。
まさに、二人の恋の行方は行ったり来たり。そんな仲にも関わらず、碧は本店の不倫席に異動することが決まって最初に思ったことが、和也の耳にあらぬ噂が入る不安だったのです。
更に、それを裏付ける沙弥香の電話は彼女の不安を掻き立て、その電話のメモを破いて化粧室に立ったのでした。
碧は化粧室の鏡に映る自分にあえて笑顔で答え、瞬きを重ね口紅を強めに差しました。その時間は彼女にとってとても長く感じられ、何度も携帯を手にしては確認し、また画面を消す。そして、化粧室から戻ろうとすると、何人かの男性社員が不意をつくように碧の席の近くに集まっていたのです。
嫌な予感がよぎった、その瞬間に・・・
「夕方、暇?……」と誰かが発しました。
碧は座ろうとする姿勢から咄嗟に立ち上がり・・・
「今日は遅くなれません。着替えの荷物を持って帰るつもりです」
しかし、彼女のキッパリ断った口元は小刻みに震え、その雰囲気からは明らかに動揺が見て取れたのでした。
碧は、その場を去ろうとしましたが、遮るように一人の男が立ちはだかったのです。そして事務室に響くように・・・
「君が出ないと始まらないのよね‥歓迎会が。前にいた何とかちゃん、確かサヤとか、沙弥香だっけ。急にドタキャンしてさ、君がいないと。だからさ、何とか都合つけてさ…」
男の雰囲気は、歓楽街の客引き並みの絡みでした。これが、本当に信用金庫かと思わんばかりの強引さに、碧は目線を切って小走りにロッカー室に消えたのでした。
ロッカー室に入ると直ぐさま、詰まる息づかいと震える指先で父親に電話したのですが、何回掛けても応答がありません。すると、その様子を伺っていた先程の男の声が扉越しに響きました。
「部長に怒られるから、何とか都合つけてよ。店の予約もあるってこと。子どもじゃあるまいし、この段階でノーはあり得ん。ばっかじゃないの、ったくよ!」
この威圧感に足が震えていました。
碧は目を閉じ、思考を止めて、冷静さを取り戻そうとしました。焦りの中で・・・
「自分はいったい何?、何しないといけない‥」
追い詰められた自分を俯瞰で見ようとしましたが、父の顔が浮かんでは消えるだけでした。
「アッそうだ! お父さん今、県の議員さんたちとヨーロッパ行ってる。電話しても繋がらないわけだ。何やってんの私は!」
こう言って、碧は額を拳で突いた。
そして、おもむろに携帯の着歴を見ながら母の位置でタップし、発信したのでした。母は直ぐに応答し・・・
「分かったけど、でもお付き合いも大事だから、変なこと考えないで歓迎会に出れば! だってあなた、主賓でしょう!」
碧は母の答えに驚き、更に仔細を加えようとしたが、冷たく通話は途絶えたのでした。
「もう、かってに切るな! あーっ、いま繋がる人。頼りになる人は‥…」
スクロールした指先は、最後まで止まることはなかったのです。
時間の感覚が中途半端に途切れ、そしてまた途切れ、暫くすると根拠のない落ち着きが生まれていました。そこには、何も考えられない碧がいたのでした。
隙を突くように、突然ロッカー室の扉がノックで揺れ、碧は110番を考えました。呼吸が止まらないように息を思い切り吸い込み、悲鳴を上げようとしましたが、逆に咽こんで膝まづいてしまいました。
「ああ、いた! どこに行ったと思った」
全開の扉の先には小さな人影が見えたのでした。碧は、吐き出す息をゆっくりと安堵の息に替えていったのです。そこには葵が立っていたのです。
●同士の始まり
この想定外の状況を碧は受け止める余裕はありませんでした。絞り出すような思いで葵の腕をつかむと、トイレに引きずり込み、これまでの成り行きを慌てて説明したのです。
案の定、葵からは厳しい言葉がありました。
「あんた、あいつらにやられたいの! 嫌なら嫌ってちゃんと言わない女を狙ってるってこと。いざとなったら、キャーでも、泥棒とでも叫ぶか、飲み過ぎてゲロ吐く振りしてトイレに逃げ込むとか考えられないかな~ったく」
まくし立てる葵に、碧は自身の女としての不甲斐なさを認め、妙に納得してこれまでのことを恥ずかしく思うのでした。
「ごめんなさい。ほんとに!」
「そんなんじゃあ、大人の女として最低じゃん! って、人の事を言えないけどね」
葵が碧の両肩に手を当てました。すると、碧の目から涙がこぼれたのです。
「あんた、とりあえず荷物は?。」
葵が聞きました。
「え~と、バッグが机の下に」
「どうせ大した物は入っていないんでしょう! それよりあんた、私のパンプス間違えて持っていかなかった? 私のがないから周りを見回したら、あんたの机の下にパンプスがあった。これよ」と、葵は紙袋の一物を差し出したのでした。
それは間違いなく碧のパンプスでした。
「これ返すけど、私のは?」
と葵に言われ・・・
「あー、私のロッカーにある。」
と言って、反射的に自分のロッカーのパンプスと交換したのでした。
「よっしゃ問題解決、帰るよ。あんた携帯は?」
葵が念をおすと、碧は確かめるように携帯を顔の前にかざして「持ってる!」と答えました。
間髪いれず、葵は「私に任せな!」と言い切り、まるで別の人格が憑依したかのように顔付きが変わったのです。
女子のトイレは裏の通用口の近くにあったのですが、しかし、この流れで二人が何も言わずに外に逃げてしまうと、明日の出勤はおろか退職を伺うことと同になると二人は直感していました。
気配を消してロッカー室から出て事務室に近づくと、葵がいきなり叫びました。
「本店の歓迎会の幹事さ~ん!」
と、店内のお客にも聞こえるように言い、碧も息の合った掛け合いで叫ぼうとしました。
「歓迎会の幹事さーん! 済みませんが支店のお客様とご一緒に、今日これから女子会がありま~す。すっかり忘れていました。ごめんなさい」
葵は、碧の緊張を解くようにさらに声を強めたのです。
「碧さんを迎えに来ました。あと1時間しかありません。碧さんを会場までお連れします!」
そして、まるで芸人のように、ぴったりと「お先に失礼します」とその場を〆め、一機に通用口から表通りに抜けて、走り出しました。
「分かる、あんた! 外に出ればこっちのもの。中にいるから、あいつらは金を預かる信用金庫のおっさんよ! 外では、セクハラ性犯罪者」
「外で騒げば、誰かが助けてくれるか」
「そう! 中だからみんな口を閉じてる。あっ、クシー!」
葵は、直ぐさまタクシーを拾って碧の家に向かわせました。
●女として
ほどなく二人は家に着き、オートロックを確かめて玄関を上がると、客間のふっくらした座布団の中にうずくまりました。
「…ありがとう。」
碧の声は、声を張り上げたせいでかすれていました。それを、葵が笑いました。
「あーー緊張した。マジ、ゲロ吐きそう。トイレどこ?」
お互いの目が合った瞬間、葵が「ウソぴょーん」と笑って返しました。
しばらく二人は、昨日からのお互いの心の内を語り合い、意気投合しましたが、どうしても先手を取るのは葵でした。
「ねー、喉かわかない!」
「そっか、忘れてた。」
碧が、客用の冷蔵庫からレモンの缶酎ハイを両手いっぱい抱え、それをテーブルの上に置きました。それを、わずか10分ほどで飲み干したのです。
二人の話は尽きることなく続き、冷蔵庫の酒とつまみは底をつき始めたのでした。
夜の12時近くになって、ようやく碧の母が帰宅しました。
母はかなり酔っていました。
「あーら~、会社のお友だち? いらっしゃい! 歓迎会だったんでしょう。で、もっと遅いかと思ってたわ。」
いつもとは違い、母は若づくりの服装にブランドバッグを肩に掛け、脚を開いて座りました。
碧は母がこれほど人前で容姿を乱すことを不自然に感じましたが、初対面の葵の手前、言葉に詰まりました。
「お母さん、早く着替えて休んだら!」
しかし、母はいっこうに動こうとせず、葵が残した酎ハイを手に、最後のひと飲みの残りを全部飲み干しても、収まる気配を見せませんでした。
「女だってたまには~、知らない男とイチャイチャして、、ど~こが悪いの。どうせ男の人は外国で、遊び呆けてさ! 今頃いい思いしているっていうのに。あー~嫌た、嫌た!」
と吐き捨てた母を、葵はかわいそうに思えたのです。
「お母さん! いいから、分かったから早く寝たほうがいいって」
口調を強める碧を見て、葵が割って入りました
「お母様、今宵の男はいい男でございましたか?」
「満足も、何も、な~にもないわよ。おっぱいもお尻も触りもしない。た~だ時間が過ぎると、お時間が迫っております。延長されますか?今夜はラストのお客様にプレゼントを用意しております。そういわれりゃ~延長するわよ、ねー!」
「男はそうやって女を騙して別の女とやりたがるのよ。それしか頭にない生き物だから! お母様、今度リベンジしましょ!」
母は、未だ話したりないようで・・・
「ところで、あなた誰よ?」
「お母様、葵です」
「ああ、みどり色と、あおい色が混ざって、いい感じになって!」
「そう、正解です!」
「だ~から延長したのに、途中でほかの女が指名してさ、あっさり居なくなりやがって、もーバカにすんなって文句言って出てきたわ、あーっ腹立つ!、」
碧は、葵と母との会話が噛み合っていないと感じましたが、相槌を打ちながらその場の雰囲気に合わせると、母は納得したかのように、ゆっくりと寝室に足を運びました。
碧は、その余韻を消すかのように周りを片付け「はーぁ!」とため息をつくと、葵が突拍子もない、しかし、このことを聴かずにはいられない核心の話を切り出したのです。
「あんた、もしかして未だ経験してないの?」
「それってあれ?」
「そうに決まってんじゃん。エッチのこと」
「何だよ、何でそうなるかな~」
「だってあんたって、男の人から胸やお尻や、Ⅴライン見られてもな~んも気付かないでしよう。やっぱりねー!」
碧は強がりました。
「気付てるけど知らないふりしてるだけよ」
上手くかわしたつもりの碧でしたが、重ねて葵が鋭い突っ込みを入れました。
「じゃーさぁ、あんたの彼氏さんは、どこで何してる人?」
そう言われて、碧は和也のことしか頭に浮かびませんでした。
葵の問いかけに早く答えようと、碧は呼吸を整え和也のことを順序立てて話はじめたのです。
岡山の高専を卒業して、実家は福山市にあって、就職セミナーで声かけられ、時々ラインや電話をして、と時系列を追ったが、今一つ肝心なところは逃げてしまう碧でした。
業を煮やした葵の雰囲気を察し、碧は和也からの写メを見せたのです。
葵は半分呆れた顔で
「だからさー、肝心なところを話しなよ!」
「いいでしょう、べつに!」
「やっぱ、あんた未経験じゃん!」
碧はこの流れから何とか抜け出したいと・・・
「そんなの別に関係ないじゃん。個人の問題なんだから。」
なんと全面的に認めてしまったのでした。
●繋がらない思い
その後、二人は昨日からの疲れと酔いが回り、徐々に話が弾まなくなったと感じ始めました。眠気が増して〆の言葉を探していると、葵が「そろそろあたし、帰る!」と言って化粧を直し始めたのでした。
「あっ、私バッグを会社に置きっぱなし。中に化粧一式入ってる。あ~ん、どうしよう」
「あんたみたいな美形女子は、顔をいちいち作んなくても、周りは変だなんて思いませ~ん。…それよりあんたさ、歓迎会すっぽかした方が心配にならないの~ぉ?ま、ったく!」
またもや葵の鋭い突っ込みに、現実の問題に引きずり込まれる碧でした
葵は、そのまま碧の家からタクシーを呼んで一人暮らしのアパートに帰ったゆきまし。、一方、碧は自分の部屋のベッドから和也にラインを送りましたが、いつまでたっても既読は返って来ませんでした。
碧にとって、信用金庫の仕事やこの騒動に翻弄された不安の中での安息のラインでしたが、まさかこのタイミングで繋がらないとは思ってもみなかったのです。
不安な一夜に、翌朝なかなか起きることができなかったのですが、昨日の展開を下手に中傷されると、この先とんでもないことになると思い覚悟を決めて家を出たのです。
碧は家を出ると、近くのコンビニで口紅を買い、その店のトイレの前の鏡を見ながら、素早く、そして丁寧に紅を差した。コンビニを出てから、いつもはバスで10分ほどの道を、あえて足取りを残すようにバスを乗り継ぎ、時間をかけて本店へと向かった。
本店に到着して、裏手の通用口からロッカー室にそのまま向かうはずを、碧は机の下にバッグを残してきたことが気になって、私服のまま事務室に入っていきました。それでも、周りは何事もなかったように、いつもと同じ流れで同じ言葉のやり取りを繰り返していたのです。
碧は、バッグを手に取ると、足早にロッカー室に戻りバッグの中から急いで化粧道具を取り出しました。そしてロッカーの子鏡に向かってパフを手にして顔を見た、その瞬間、いきなり壁を隔てた男子トイレから微かな笑い声が聞こえたのです。そして、それに混じって「ミドリ」という特別の響きが耳に入ってきました。碧は周りを確かめながら、化粧の動きを止めたのでした。
「やっぱり!」
急いで持ち物を確認するとロッカー室から外を窺い、誰もいないことが分かると、わずか10メートルほどの距離を走り抜け、女子トイレに駆け込み扉の鍵を掛けました。そして崩れるように壁にもたれ、気配を消したのです。
碧は葵に電話しようとしましたが、昨日の酔った流れの中で聞いたはずの電話番号を消去してしまっていたのです。あれこれ話した中でも、流石に和也と大人の関係になっていないと認めてしまた恥ずかしさのあまり、和也にラインすることしか考えなかった自分に憤っていました。
「またやっちゃった、もー!」
わずかに口を動かし、天井を見上げて眉をひそめたものの、葵から「何かあったらいつでも電話して!」と優しく言ってくれた響きが残り、心の既読はできなかったのでした。
●不安の中で
この日から一月あまり、碧は葵と会っていませんでした。会おうとすれば会えるのに、全ての不安から距離を置き、現実を見ないことに居心地の良さを感じていたのです。それどころか、自分が座っている席が周りから不倫席と呼ばれていることも忘ていたしまっていました。
父もヨーロッパから戻り、母もなに食わぬ顔で旅館を切り盛りして、外見の日常が続いていたように見えたのですが、碧の意識の中で和也とラインが繋がらないことを紐解けば、また不安に向き合わざるを得ない。そんな日々が続きました。
思い悩んだあげく、碧は岡山にいる短大の同級生に連絡し、和也のことを調べてもらうように頼んだのでした。
すると、その結果は驚くものだったのです。
前に和也から聞いていた福山市の住所には家らしきものはなく、マンションの建築計画が看板にあったというのです。そして、近所の人に聴いても住んでいた人の足取りが確認できないと言ってきたのでした。さらには、このことを重く感じた友人が、人伝に、和也の高専の卒業アルバムを借りて見たところ、そのアルバムにも和也が卒業写真の撮影に欠席したことが記録されていたのです。不安が碧の心の中に居座って動こうとしません。
「何で、何も言わないで引っ越すかな~。いったい私はあんたの何なのさ?」
碧は、言葉の使い方や呟きが葵に似てきたと実感すると、なりふり構わず葵の支店に行くことを決めたのでした。
そして翌日、碧は段ボールに詰めた荷物が支店に残っていると言って、会社の軽自動車で支店に向かったのでした。約一月ぶりの再会に負い目も見せず、葵に気さくに話し掛けようとしすると、予想通り葵は激怒したのでした。
「あんた! あのねー、うちに全然電話して来ないって、ほんとおかしくない。あんときさ~うち言ったよね。何かあったら何時でも電話していいよって、友達承認したよね。、……何にもなくたって、ちゃ-んと連絡取るのが筋っていうもんじゃないの。ったく」
碧は何も言い訳できずにうつむいていました。
そんな碧に葵はホッとしたように・・・
「はい、おしまい。あをた、何か相談があるから来たんじゃない。早く吐き出しな。うち、暇だけど、仕事中だから」
その一言で、碧は和也のことを話しはじめたのです。
葵は碧の説明に少し首を傾げながら・・・
「あんた、それおかしくない。だって和也さんとご飯食べに行ったり、遊びに行ったりしたんじゃん。あれは未だかもしれないけど。好きな人が映画のゴーストみたいだとすると、この世にいる間にやりまくるでしょうが。あっいや、やられまくるのが当たり前でしょうが。あんた、このままだと本当にへんな奴に捕まって、一生後悔するはめになるよ。ちゃんと考えな!」
黙り込む碧に、葵は励まそうと思いました。
「まっ、私的には打つ手ないと思った時点で他にチェンジかな―、絶対我慢できないし。あぁー、あんたはずっと我慢だから分かんないか!」
碧はそこまで言わなくたってと思った瞬間でした。
「はいはい!、じゃあ切り替えしよっか。今日飲みに行くよ。どうせ予定ないでっしょ!」
碧は、葵に嘘は通用しないと分かっていましたが、少しでも自分の意思を通そうとして居酒屋ではなく、どうせならホテルのラウンジバーがいいとねだったのです。
「そうそう、うち、この前に婚活で買ったばっかの服があるから、着替えてからそこに行くね」
碧は、段ボールの荷物は途中で実家に運んだことにして、自分も服を持って本店に戻ることにしたのです。
待ち合わせは「夕方7時現地で!」と葵にラインで伝えると、葵は「その前に、あんたに電話するから、必ず電話に出なさいよ」と、返したのです。
二人は、やっと携帯での繋がりを確かなものにしたのでした。
後編の「あり得ない恋のものがたり(再会と絆)」を、どうぞ宜しくお願いいたします。