始め③
智基は自分の目の前で起こったことを、現実とは思えなかった。
それはこの場にいた人間が全員思ったことだろう。
妹の智香子が、向こうから信号機を渡って来ようとしたとき、携帯をいじっていた運転手が乗る大型トラックが、彼女めがけて突っ込んできたのだ。
智樹にとって、人生二度目の、目の前が白く染まる経験だった。
結果、智香子は助かった。
一人の女性の命を犠牲にして。
慌てて駆けつけると、女性は瀕死状態。
智香子は頭から血を出しているだけだが、精神がひどく不安定なのは容易に見て取れた。
「伊緒、救急車に電話。」
「もう済ませた!」
「智香子、智香子。大丈夫か?」
「貴方、この子、頭から血が出ているわ!」
いつもは冷静な両親も、しどろもどろになっている。
智基は両親に、トラックの運転手に話を聞いてきてほしいと頼んだ。
今のままの二人は、智香子同様安定していない。何かしないといけない。そう判断したからだ。
そして両親が運転手の元へ行った後、智基は智香子に寄り添う。
彼女は女性の手をぎゅっと握りしめて、固まっていた。
「ちか?ちか?」
声をかけても全く反応しない。
どうしようか、と戸惑っていると。
倒れていた女性が声を発した。ヒューヒューと、苦しそうに。
「あぁ、良かった…………。」
その次の瞬間、智香子の目から涙がこぼれたのだ。
そしてその瞳に、いつものような強い意志をこめて、智香子はいるはずもない神に願った。
だが、智基はそれを止めなければならなかった。
理由は特にないが、それこそ何となく、これ以上妹に何かをしゃべらせてはいけないと、本能が告げたのだ。
「ちか!」
そうして口をふさぐよりも前に
「私の命を、貴方にあげるわ。」
彼女はその言葉を口にした。
智基は、その先の出来事を、一つのフィクション映画のように見ていた。
智香子の体が、動かなくなり、その代わりに、倒れていた女性が息を吹き返したのだ。
智基は必死に叫ぶ。
どんどん冷えていく妹の小さな体をどこにも逃がさないように抱きしめて。
「ちか!ちか!ちか!」
伊緒が泣いている。
父が悲しみを耐えるように、目を閉じている。
母も静かに泣いている。
智基も自分の目からこぼれる涙の意味を知りつつ、それでも、救急車が来るまで、叫び続けた。
*
女性は、真っ白な部屋で目を覚ました。
まずここは天国か?と思ったが、すぐさま医者が入ってきたことで、ここは現実の世界だと理解した。
しかし、そうならば、なぜ自分は生きているのか?
自分は確か、一人の少女を助けた。
そして助けたことから怪我をし、頭からの出血量がひどく、助からない運命だったはずだ。
すると、今まで耳を通り過ぎていた医者の言葉が聞こえた。
「貴女は本当に、生きているのが不思議です。あんな状態で命が保たれたのは、奇跡に等しい。しかし、亡くなってしまった少女もまた、」
「?!亡くなった少女?!どういうことですか?!」
叫んだ後、ひどい激痛に襲われるが、知ったことではない。
そんな女性の迫力におされた医者だが、説明をしてくれた。
「っ、貴女のそばで、亡くなってしまった少女が一人いるんです。頭に傷があり、確かに出血はしていました。ですが、あの程度の出血量では、死ななないはずなのに、彼女の命は尽きていました。」
自分が助けたはずの少女だ。
彼女は死んだのか?なぜ?
いや、理由は一つだ。
女性は頭を医者に頭を下げた。
「ありがとうございました。申し訳ないのですが、気分がまだ優れないので、休ませていただいてもよろしいでしょうか?」
そんな彼女の状態が分かっている医者は、入院期間の事だけとりあえず話し、部屋を後にした。
医者が出ていって、女性は拳を握りしめた。
血がにじむほど。
そして彼女は言う。
「っ、また、守れなかった!」
女性の愛情の向かう先は、決まっており、憎しみが向かう場所も、決まっているのだ。