第143話:聖女誕生の裏側②
上空から降りてきたのは若い男。畏れ跪いてしまうほどの美貌を持つが威圧感などはなく、逆に影が薄い。黒髪に赤い瞳は、大国アドリオンの王族の証。
「随分とズタボロだね」
「聖なる結界が弱まり、魔物の侵入を許してしまいました」
答えは最初から分かっているので、ふーんと軽い返事が返される。
「結界を張ってた真の聖女がいなくなったんだから、仕方ないか」
ポリ、と首を掻く彼には悪意がなく、ただ思ったままのことを言っているだけだと知っているから、特に何を思うこともない。
聖女イヴァナは歴代随一の強力な聖なる結界を張り、それを維持していると言われていた。しかしイヴァナは分かっていた。結界は自分の力ではなく、クラリッサの力であったと。
「クラリッサは”十三の峻別”よりも前の幼い時より、無意識に力を使って国全体に聖なる結界を張っていました。クラリッサと初めて会った時、彼女が強力な治癒の力を持ち、聖なる結界を張っている者だと、優れた次代の聖女だとすぐに理解いたしました」
しかし彼女は隠した。もしクラリッサが次の聖女だとバレてしまえば、当時イヴァナよりも治癒の力が強かったクラリッサはすぐに聖女となり、同世代の子供たちと一緒に居られなくなってしまう。それはあまりにも可哀そうなことだ。だからイヴァナは、せめてクラリッサが十八歳になるまでは、秘密にしようと決めた。それは全て、小さく幼いクラリッサを守るためだ。
「私の力が衰えていくにつれ、クラリッサの治癒の力は聖なる結界を補填するために益々消費されました。無意識に行われていましたし、誰も聖なる結界を聖女ではない、まだ幼い少女が張っているなど思いもしなかったのでしょう」
やがてクラリッサは出来損ないと呼ばれ始め、遂には国外へと追放されてしまった。日の多くを聖なる結界の補強や祈り、そして国民への治癒に時間を使っていたイヴァナが事の次第を知ったのは、二日後だ。クラリッサを特別可愛がっていたわけではないが、セイディは警戒してクラリッサからイヴァナを遠ざけていた。
「クラリッサは心優しい娘。例え治癒の力がなくても、彼女は人を救い、癒したでしょう。本質を見ればすぐに分かることを見ようとせず、あまつさえ出来損ないなどと…。国のために幼い頃から力を使っていたあの子は、聖女に相応しい行いをしていたのです」
真の聖女を追い出したこの国が滅ぼうと、自業自得。クラリッサに今更助けを求めるなど、ふざけるのも大概にしろと怒りが腹で暴れた。しかし、せめて聖女として、罪のない国民のために、生まれ育ったこの国をイヴァナは最後まで守ろうと決めた。
「物静かな君が怒りに震えるなんて、珍しいものが見れたな」
「私だって人の子です。あまりの苛立ちに暴れたくなることだってございます」
「もう歳なんだから止めといた方が良い」
宙に浮かぶのは聖なる結界。イヴァナが張ったものより、クラリッサが無意識に張っていたものより、ずっと強い結界だ。
「これも、神のご加護ってやつ?」
「…そう、なのでしょうね」
聖国カタールは、神を信仰することにより神の恩恵をあずかり、豊かな暮らしを得ることができるという教えを幼い頃より受ける。親から、友人から、知人から、師から、時には自身で神を見つけ、信仰する。
しかしクラリッサだけは、信仰心を抱けずにいた。
神を定めていないことは始めて会った時から分かっていたし、彼女自身も気づいており、一度だけイヴァナに打ち明けてくれたことがある。話を聞いていく内に、負の感情を他者に抱けないクラリッサが神を望むのは、困難なことだと思った。願いもせず、他者を思いやる、心優しき何にも染まらぬ娘。彼女が望んだのは、ただ皆と同じ普通になりたいということだけだった。どんなモノも人も神も彼女の心を動かすことはなく、表面上は創生神を信仰していた。
「あの子が真に崇め称える存在を得られることはないだろうと諦めていたのですが、どうやら見つけたようです」
心の底からの信仰心が、治癒の力を強めたのだろう。
「こんなに強くて頑丈なの、ここ数百年見たことないな。五百年前の、あの口うるさい女以来だ」
五百年前の大聖女コリンを口うるさい女だと表現する者はいない。まるで大聖女コリンに会ったことがあるかのような口振りも、彼でなければ信じられなかっただろう。
「幼かったお前も、もうすぐいなくなるのかと思うと、時の流れは早いのかもしれない」
イヴァナよりも若い見た目で彼女を年下扱いする青年。彼の方が先に死ぬなど、思いもしないのだろうし、イヴァナも彼が死ぬことは想像できなかった。
「本日はどういったご用件でしょうか」
「気配がした」
先程までは柔らかく微笑んでいた顔が真顔に変わり、ある方向を見ていた。ポリ、と首の次は腕を掻き、脇腹を掻き。勢いを増して体の至る所を掻きむしる姿に、イヴァナは息を飲む。彼が探し求めているものを知っているイヴァナは内心の動揺を隠して「気配?」と訪ねた。
「懐かしく、優しく、明るく、愛おしく、そして心の底から死を望むほど憎い気配だよ。五百年前のあの日、確かに呪いをかけたのに、最近になって現れた。分かるんだよ。ボクにはさ、かつて触れられた所がかゆくなるんだ。どれだけ掻いても体を抉っても、痒さは消えないんだ。ずっとずーっとかゆくてたまらない。理由は分かってるんだから、その根源を絶てばいい話なのに、現れては途切れて、今もまた途切れて。この世界に生まれてこないように、もう二度とボクの目の前に現れないように、呪いをかけたって言うのに、それでもまだ、ボクを苦しめようって言うの…?それならもう、ボクのこの手で、殺すしかないよね。二度と、転生なんてできないように」
憎しみに呑まれ、己を制御できなくなった彼から魔力が漏れ出る。気絶している兵士たちに害を為すと危惧したイヴァナは、老いた治癒力を可能な限り使った。執着、と呼ぶには重すぎる想い。五百年分の怨みが形を成しているのが目の前の青年だと言われても納得してしまう禍々しさがあった。しかしパッと雰囲気は変わり、禍々しさも消えてただの美しい青年へ戻る。
「いなくなったみたいだから、帰る。じゃ、またね」
「…またのお越しを、お待ちしております」
聖女と認められてから、幾度か顔を合わせて来たが、未だに謎は多い。知っていることと言えば、遥か昔の赤の国の王であり、その長い生の中を、ただ一人の人物に囚われていることだけだ。
殺意を滲ませる青年がこの場にいた形跡はどこにも残っていない。
昔からイヴァナは思うことがある。会いたくない、殺したいほど憎いと叫ぶ彼。寿命という人の理を超えてでも、この世界にいもしない存在をずっと探し求めるのは、心の底で会いたいと望んでいるからなのでは、と。
「イヴァナ様?」
クラリッサの声で意識を戻していたイヴァナは「ごめんなさい」と謝罪した。話をきちんと聞いていなかったことに罪悪感を抱くイヴァナに、クラリッサは文句も言わず体調を気遣う。大丈夫だと告げて話しの続きを促せば、再び自身の神がいかに素晴らしいかを語った。笑顔は無理に作られてはなく、遠慮も孤独感もない。心の底からの笑顔。
「神よ、感謝いたします」
どこのだれかは分からないが、クラリッサが信仰すべき神を見つけたことを心の底から喜んだ。