第136話:清廉な聖女④
破壊された天井から見える聖なる結界は、時折白く光り、魔なる物の侵入を防ぐ。
つい先程、馬の魔物から踏みつぶされかけていたとは思えない静けさに、智香子は現状を理解できていなかった。持ち上げられた魔物の足裏を、まだしっかりと覚えている。しかし遠くから聞こえた歓声に、助かったことをようやく理解して息を吐いた。
バクバクと鳴る心臓に手を当てる。
教会の一方で、ガラッと瓦礫が崩れる。吹っ飛ばされた大和を思い出して、智香子はサッと顔を青ざめさせた。
「大和!」
クラリッサの腕の中から慌てて降りて、智香子は祭壇に走り出す。クラリッサと話をしていたため、大和がどこに飛ばされたのかさえ分からなかったので、一番高い祭壇から大和を探そうとした。周囲を見渡しながら祭壇への道を走っていた智香子は、更に瓦礫が崩れた場所を発見して足を止める。すぐに駆け付けたいのに、瓦礫が邪魔で結局遠回りをしなければならない。
瓦礫の山から出てきた大和はふぅと息を吐くと、風魔法で自身に付いた砂埃を払い、祭壇からこちらに向かって走り出そうとする智香子の元まで軽く飛んで降り立つ。
祭壇も魔物が荒らしたことで瓦礫塗れだ。何とか大和の元まで行こうとしていた智香子は集中して瓦礫の山を抜けようとしていたので、大和が目の前に降り立ったことに驚き、乗っていた瓦礫から足を滑らせる。
ぎゅっと衝撃に耐える智香子に痛みはない。あるのは柔らかな毛並みと、そこから伝わる暖かな熱だけだ。智香子を祭壇の上に置いた大和。安定した足場に置かれた智香子は、大和にぎゅっと抱き着いた。
「無事で良かった…!」
「この程度で死ぬほど我はヤワではない。そう心配するな」
「心配するに決まってるでしょ!貴方がどんなに強くて凄くても、私はずっと心配するわ!心配されたくないなら、精々危険なことに首を突っ込まないことね!」
自分の頼みで大和が危険な目に合ってしまったことが智香子は申し訳なかった。誰かが傷つくのは辛い。すると頬を舐められる。
「我は存外、お主に心配されるのは悪い気はせず、お主に頼られるのは良い気分なのだ。そう深く気にすることはない」
智香子が気にしていることを的確に当てて、気にしないで良いと言ってくれる大和。考えを読まれたような発言は、本当に考えを呼んでいるからか、それとも彼の年の功が為せる業なのか。
大和の額に自分の額を押し付ける。
「我はチカコ、お主の笑顔が一等好きだ。頼みを聞いた我に、褒美をくれぬか?」
「…ごめんなさい。ありがとう」
智香子の笑顔を見た大和は、満足そうに鼻を鳴らした。
「うむ。やはりお主には笑顔が似合う」
教会の扉が開かれる。現れたのは息を切らした神父や助任神父、侍者たちだ。どこかボロボロの彼らは中の惨状を見て息を飲む。
崩れた教会。倒れた聖騎士たち。
大和がクイッと顎を動かすと、瓦礫の下からセイディやジェイミー、聖騎士や従者などが現れて、神父たちの前に放り出される。魔物との戦いの中、大和は彼らを救出していたのだ。
再び強く抱きしめてくる智香子の抱擁を、大和はしかと受け止めた。
ボロボロのジェイミーたちに駆け寄り、状態を確認する神父たち。しかしクラリッサはそちらを一度見ただけで、直ぐに祭壇へと目を向ける。
智香子はこちらに歩いてくるクラリッサに気づいて、ハッと先程のことを思い出す。
———チカコ様。愛しております
聖なる結界で魔物を退けたことや、大和の無事などに気を向けていて一瞬忘れていた。あれほど衝撃の強いことだったのに、それ以上のことが起きていた。
つい大和の柔らかな桃色の毛を握る智香子。その縋るような智香子に、大和は安心させるために寄り添った。
「チカコ様」
足元までやって来たクラリッサは、智香子がいる祭壇の上まではやってこない。ただオフホワイトの目で、高い位置にいる智香子を見上げる。
「…そちらへ行っても、よろしいでしょうか?」
もうすぐ夜が明ける。しかしまだ太陽は登り切っていない。建物の影で隠れたクラリッサの表情はよく見えなかった。ただ声は澄んで響き、悪意などは全く感じられない。
「…良いわよ」
智香子の言葉を聞くまで微動だにしなかったクラリッサは、瓦礫の上を危なげなく登り、智香子と同じ場所までやってくる。身長差から見下ろされる形だった智香子だが、クラリッサが跪いたことで立場は逆転する。といっても、跪いたクラリッサと智香子の目線は、あまり変わらないのだが。
「?!」
驚く智香子の横で、大和は鋭い目でクラリッサを見る。
白む空の下、顔を上げたクラリッサの表情を隠すものは何もなく、その顔は良く見えた。
「あぁ…。貴方様が…。貴方様こそが、私の女神だったのですね…」
白く滑らかな頬を赤く染め、腰まで伸びるオフホワイトと同色の瞳をうっとりとさせて智香子を見る。
「…私はただの人間よ。何の力も持たない、ちっぽけで、神なんて大層な存在じゃない」
「えぇ、えぇ、その通りですね、我が神よ」
智香子はぐっと言葉を止める。だめだ、と思った。
きっと何を言っても、クラリッサには伝わらない。クラリッサは優しい人だと譲らなかった智香子とはまた別だ。話が出来ているはずなのに、話が出来ない。
「私の心は貴方様の元に。私の神よ」
こちらを見ている濡れた目が、智香子を絡め取って離してくれない。跪いたクラリッサは、更に身を屈めて智香子の足元へその顔を近づける。その先を想像して、慌てて智香子は自分の足を引いた。
「私は貴方の女神でも神でもないわ!」
「そうですね。貴方様は女神ではありませんが、私にとっては、貴方様は私の女神なのです」
こんなのは堂々巡りである。思わず智香子は頭を抱える。
「…はぁ…」
「他とは違う異質な私を、貴方様は愛してくれるのでしょう?」
「嫌わないって言ったのよ!愛するなんて言ってないわ!」
「ほとんど同じ意味です」
頭を抱えていた智香子は、「…ん?」と顔を上げてクラリッサを見る。
「…クラリッサ」
「はい。なんでしょうか、我が神よ」
「…その我が神ってやつ、次言ったら二度と口効かないから」
顔を青くして「申し訳ありません、チカコ様!」と謝罪するクラリッサ。神呼びされるくらいなら、様付けされた方が百倍マシだと思う。
「その愛って、何?」
自分で言って、なんと分かりにくい質問をしたと智香子は思った。しかしそれ以外の表現が思い浮かばなかったのだ。首を傾げたクラリッサは、質問の意図が分かったのか顔を輝かせて「はい!」と良い返事をする。
「それは勿論、神への愛、つまりは敬愛でございます!」
キラキラとした目で邪気など一切ないクラリッサに、智香子は長い息を吐いた。
「敬愛かぁー……」
ほっとした様子の智香子に、クラリッサはなぜ智香子が安堵したのか分からないと手を上下させる。いつも通りのクラリッサの癖に、また智香子は安心した。
クラリッサはただ、智香子を尊敬しているだけ。それ以上でも、それ以下でもない。
(大丈夫よ)
クラリッサは、何も変わっていない。
「チカコ様…?」
「あー…ふふ。神云々は正直よく分からないけど、クラリッサがクラリッサで良かったわ」
「?はい!」
意味も分かっていないが、智香子が笑っているから良いかとクラリッサは笑う。
智香子に跪くクラリッサ。
日が昇り、光差し込むと、まるで本物の女神と聖女のように、見ていた人々の目に映った。