第133話:清廉な聖女
ハッキリとしていなかった智香子の思考は、離れたところから聞こえた言い争いによって覚醒する。
「クラリッサが治癒の力を手に入れて、聖なる結界を張れるようになれば、私は国民からも貴族からも聖女として認められる…。聖女として、陛下のお隣に立つことができる…!」
「セイディ。偽物の君が聖女になることはできない。なぜならライリーこそが、本当の聖女であるのだから」
「は?もう国には私が聖女だと公表しているのですよ?公爵家に養子入りも終わっています。国王が認めたとして、大々的に公表したことを今更覆すことがあれば、それは王族、教会、決定に携わった貴族の責任になりかねます!覆すことなんかできません!」
「偽物の聖女を祭り上げるよりもよっぽどマシだ」
「っ…!…あぁ、なるほど。そうですよね、クラリッサが聖女になれば、貴方は好きな人と結ばれることができて、更に王の地位も手に入れることができる。まさに一石二鳥!そうなると私は邪魔ですものね!」
「ち、ちがっ…!」
「自分の利益だけしか考えてないところ、本当に浅はか!一度傷つけて手放したものがもう一度手に入るわけないのよ!王位だってそう!あんなにも優秀な第一王子がいるのに、あんたが王様になんかなれるわけないでしょ!万が一にも第一王子殿下がいなくなってしまっても、あんたみたいな腰抜けに王様が務まるわけないじゃない!」
「この不安定で、足場が定まらない恐怖が君に分かるか?!恐怖で誰にも何も言えないことが!僕は、確実な地位が、誰も僕に逆らえない裏切らない権力が、欲しいだけなんだ!君だって!君こそ、陛下を手にいれようなんて大それたこと、無謀にも計画して実行しているじゃないか!どう考えたって無理だろ!あのチカ?って子どもと君への対応を見たら、どう考えても陛下が君に対して何の感情も持っていないことは火を見るよりも明らかなことだ!」
「うるさい!うるさいうるさい!」
まるで子供が駄々を捏ねている様子に、智香子は彼らはクラリッサも含めて、まだ十八なのだと思い出す。それも聖女候補になってからは他とは隔離された場所で、ただ聖女に、淑女にふさわしいようにと、ひたすら勉強をする。周りにいた人間たちは同じく聖女を目指し、基準を満たさなければ落とされて、どんどんいなくなって数は減っていく。目標を同じくする仲間とは言えても、友人と呼べる人間はできないのだろう。少なからず聖女を目指す者は皆、敵なのだから。
恐らくジェイミーも同じようなものだろう。いつ彼が、智香子がかつて見た、ミツキという人物の日記のように最近になって転生者だと分かったのかは分からない。しかし突然の異世界に色んな感情が渦巻いたはずだ。小説の中に入ったという興奮とか、もう元の世界の家族や友人たちに会えないという恐怖とか。話を聞いているだけでは、恐怖の方が大きかったらしい。確かに突然「自分は異世界からの転生者だ」と伝えて、異常者だと排除はされたくない。大きいリスクを選ぶよりも、隠して生きるのは正しい判断だった。隠して、ずっと誰に対しても警戒するのは疲れる。信じられる人間を側に置きたいと思うのも、確実な地位を欲しいと思うのも、理解できる感情だ。
そう考えると、智香子は本当に運が良かった。レッドフィールド家の人たちは、智香子が異世界からの人間だと話しても受け入れてくれた。出会った時からずっと優しい。始めに会ったのが彼らで、本当に幸運だったとしか言えない。
閉鎖された、娯楽の少ない、気の置けない友人のいない場所で育った彼らの精神が、正常に成長できるとは到底思えなかった。
ドン…
遠くで聞こえた音と、揺れ。何事かと構えていると、扉が開いて一人の顔を青くした聖騎士が入って来た。
「魔物の群れが、王都周辺の聖なる結界を破壊しました!この教会へ魔物が侵入してくるのも、時間の問題化と思われます!」
魔物の群れの、侵入。聖女がいる王都へ魔物の侵入など前代未聞の大事件である。皆が顔を強張せるが、端にいたクラリッサを見た重役たちが声を上げる。
「そ、そうだ…。ここにはクラリッサ様がいらっしゃる!この教会には本当に治癒の力が戻ったクラリッサ様がいるのだ!真の聖女が誕生したのだ!」
「おぉ、そうだ!聖女様、どうか我々をお救い下さい!」
「我らを魔物の群れからどうか!どうかお救い下さい!」
彼らはクラリッサのこれまでも、智香子を含めた子供たちを魔道具を使って犠牲にしようとしたことも、忘れてクラリッサに縋りつく。変わり身の早さに智香子は胸糞悪いと眉を顰める。
「私に出来ることがあるのなら、なんでも致します。皆様も、他の国民の皆様も、」
「他の道草などどうでも良い!まずは我らを!」
「そうです!庶民の命よりも、高貴な我らの命を!」
派手な崩壊音と一緒に悲鳴が聞こえた。クラリッサが慌てて聖堂から出ようとするのを、重役や聖騎士たちが止める。自分たちを助けてくれと懇願する。手を伸ばしてくる厚顔な彼らに智香子が「退きなさいよ!邪魔ね!」と叫び、クラリッサは戸惑いの表情を浮かべた。
すると先程よりも大きな揺れが起こる。どこからの揺れが伝わったのとは違う、この建物自体が揺れた。魔物がこの教会にも入って来たのだと分かった彼らは慌てだした。聖騎士に自分を守るように命令する者、転移魔法陣へと我先に走り出す者。
「なんて身勝手な奴らかしら」
智香子の呟きが聞こえていたクラリッサは、智香子を抱える腕に少し力を入れる。
「…私は、出来損ないです。家族に、友に、民の皆様に、大切にしていただいたのに何も返せませんでした。ご期待に応えることができず、失望させてしまいました。恥さらしだと言われることもありましたし、その通りだと思います」
今でもクラリッサは、数日前の出来事も、その前のこともよく思い出せる。出来損ないと言われ続けた日々。投げられたのは言葉だけではない。傷つけられたのは心だけではない。
セイディたちを見ていた智香子がクラリッサに視線を向ければ、そこには苦し気に顔を歪めたクラリッサがいた。涙が溢れて、智香子は手を伸ばして拭う。
「っ、ですが、私は、それでもこの国が好きなのです…!それでも、彼らが、この国の人々が大切なのです…!申し訳ありません、チカコ様を傷つけたというのに、私は、彼らを守りたいと、思ってしまうのです…!」
身に覚えのない殺人をでっち上げられ、その罪で呪いをかけられて傷をつけられて、誰にも信じてもらえず国外に追放された。当然、クラリッサにはそのことを怒る権利があるというのに、彼女は智香子が傷つけられたことに謝罪する。違うだろうと思うが、クラリッサらしいとも智香子は思うのだ。
「何当たり前のこと言ってるのかしら」
近い距離で、智香子はクラリッサの顔を持ち上げる。突然のことに驚いたクラリッサの目から一筋涙が落ちた。
「たかだか数十年しか生きてない私たちが、出来損ないで、未熟者以外の何かであると思ってるの?おこがましいにも程があるんじゃないかしら。本当の聖女だか何だか知らないけどね、自惚れるのも大概にしなさいよ。出来損ないと思うなら、もっと頑張りなさいよ。今のあなたが今以上に力を付けたら、貴方はとっても素晴らしく尊ばれる人になるんだから」
智香子たちの後方、祭壇から大きな音がする。振り向けば壁が破壊されたそこには、建物程の巨大な馬型の魔物が立っていた。初めて見る魔物は、真っ黒で闇を煮詰めたような色をしていた。魔法の話を聞くときに少しだけ話を聞いていた生き物。どうやって生まれたのかは分からないが、この世界が生まれた時からいるとされる、未だ謎の多い存在。
淀んだ黒い目が、同じ黒い目を持つ智香子を捕らえる。
禍々しい雰囲気に思わず身震いをした。