第130話:出来損ないの恐怖心②
誰かの啜り泣く声が聞こえる。泣かないで。どうして泣いているの?
「だって、貴方が傷ついたから」
私の怪我はもう大丈夫だよ。もう痛くないよ。だからもう泣かないで。
『だって、貴方が泣いたから』
私はもう泣いてないよ。貴方が全て治してくれたから。
すすり泣く誰かは一人のようで、何人もいるようだった。それぞれ別の人と話をしているはずなのに、一人と会話をしているようだ。
『私、もう貴方に傷ついて欲しくない…。貴方の傷は、全て私が治してあげる』
「私、もう誰にも傷ついて欲しくない…。皆の傷を、私が治してやる!」
優しい言葉に、心に、嬉しくなる。よい友人たちを持てたことが何よりもうれしい。
『貴方の涙は全て私のもの。貴方の悲しみは全て私のもの。記憶は全て、水に流れていくもの』
「貴方の傷だって、治してやるぜ!狂った野郎共から傷つけられたら私に言いな!全部綺麗に治してやっからよ!」
スノーホワイトの少女は、元気に笑ってそう言った。この少女は誰だ?よく知っているはずだ。この綺麗な色を、どこかで見たことがあるから。
「クラリッサ…?」
「チカコ様……!」
目を開けたそこには、綺麗なスノーホワイトを持つ少女、クラリッサが目に涙を溜めてこちらを見ていた。よかった、と仕切りに呟くクラリッサに何が起きたのか聞こうと体を動かしたところで、智香子はついさきほどまであった体の痛みや熱がなくなっていることに気づく。
「怪我が…」
「神が…神が、助けて下さったのです…!本当に、チカコ様が生きていてくれて良かった…!」
「勝手に殺そうとしてんじゃないわよ」
抱き着いてくるクラリッサを智香子は抱きしめる。何が起きているのか全く理解できていないし、誰かと話をしたような気がするがよく覚えていない。一先ず助かったことに感謝した。
しかし神、と言われて智香子は首を傾げる。智香子は別に神という存在を否定もしないが肯定もしない。この目で見たことが無いので、いると思うことができないのだ。クラリッサは嘘を吐くような人間ではないと分かっている。そして彼女が言った、この国の人々が何を崇めて神とするかは自由である、という言葉。このことから、神と言う存在が、かつて元の世界での仏様のような存在ではなく、今この世界で実在する人物なのではないのかと見当をつけた。もしそうなら後でお礼を言わなければならない。
未だ智香子に抱き着くクラリッサをバリッと強引に引きはがし、現状の整理をする。
ズッと鼻を啜ったクラリッサは扉の鍵は全て閉じられていること、隠し扉なども見つからなかったこと、何か武器になりそうなものも見当たらなかったことを智香子に告げる。
「行き詰ったわ…!」
出口もない、武器もない。これではどうやってここから出れば良いのだ。クラリッサもどうすればいいか分からずに、困って両手を上下することしかできない。こういう時に自分が魔法を使えれば、ちょちょいのちょいで脱出をできるのにと智香子は思わずにいられなかった。
どうしようもできないことを考えても意味はないと気合を入れて立ち上がる。
諦めなければ大概のことは何とかなるものだ。
「でも、閉じ込められたままだと、何もできないわよね…」
はぁとため息を吐き、ドアノブに手をかけて回してみる。
カチャ…
「「え」」
まさかの鍵がかかっていなかった。クラリッサも声をかけはしたが扉は鍵がかかっているだろうと開けようとすらしなかった。
「不用心すぎでしょ」
知り合いなら気を付けろと注意をするところだが、しかし今だけは助かった。そっと静かに扉を開けて外を見回すが誰もいない。連れてきたくせに見張りも立てないとは。捕まえた人間がボロボロの子供と出来損ないと言われている元聖女候補であるから、甘く見たのか。問題はそこではない。逃げるチャンスが生まれた。
ドアノブに手をかけた智香子が動かないことにクラリッサはどうしたのかと首を傾げる。すると急にこちらを振り返ったものだから驚いた。
「…人間は異質なものを避けようとするわ。理解できないから、自分たちとは違うから、簡単に傷つけても構わないと思っているのかもしれないわね。その結果、貴方が苦しむことになった。私は解決策を知っているわ。それはね、一人になることよ。一人になってしまえば、避けられることも裏切られることもない。一人になることを怖がることもない。だって、始めから一人なんだもの」
それは先程、クラリッサが吐いた彼女の恐怖。意識を失っていたと思っていたのに、聞いていたのか。
「一人になって、外に出て見ると、案外ちっぽけな悩みだったりするのよ」
「…チカコ様にも、そのような経験があるのですか?」
「…まぁ私の場合は、周りが放っておいてくれなかったんだけどね」
突然消えた智香子を心配した両親、兄、義姉、友人たちにとんでもなく怒られた。一応の書置きは残していたのだが、それでも心配をかけたことに変わりはなく、そこから一週間は外出を制限されたし、友人たちは智香子から離れようとしなかった。流石にトイレまで入ってこようとした時は拒否したが。
「一人になってみなさいよ。色んな所に行って、色んな人に会って、貴方が納得する貴方なりの普通というものを探してみたら良いんじゃない?」
目の前の小さく、それでいて包容力を持った智香子にも、同じように悩んだ経験があることが信じられなかったが、クラリッサはなぜか受け入れることができた。
「人とは違う私を、貴方様は嫌いませんか?」
「嫌うわけがないわ。貴方が言う他の人との違いなんか、個性の一つに過ぎないもの」
クラリッサの不安を智香子は笑って吹き飛ばした。
智香子は扉をゆっくりと開いてクラリッサと共に廊下へと出る。人の気配は今のところない。クラリッサはここで五年もの間過ごしていたので建物の構図はしっかりと頭の中に入っている。こちらです、とクラリッサの案内に従い、智香子は夜の教会内を走る。
運動が得意でないことに加えて、智香子とクラリッサの身長差は大きい。同じように走ってもクラリッサの一歩は智香子の二歩以上だ。体力の消耗が激しい。
「大丈夫ですか?チカコ様」
「大丈夫、よ。あと「様」じゃなくて「さん」!」
走りながら、なんだか建物の内側に向かっている気がする智香子はクラリッサに訪ねた。
「教会は神聖であり、何人をも受け入れる温かい場所。ですが、この教会は”十三の峻別”や聖女候補の修行の他にも、大々的な宗教事や催事にも利用されております。特別な場所であるとして通常立ち入り禁止とされているので、出入口が一つしかありません」
その出入口が、敷地内中央にある聖堂に設置された転移魔法陣ただ一つである。
「あの塀が見えますでしょうか?」
クラリッサが示した方を見れば、建物の周りに建物よりも少し高い位置にある白塗りの塀がある。
「教会敷地内はあのように高い塀に囲まれております。登っての脱出は難しいです」
「そうね。ただ、出入口が転移魔法陣一つしかないのであれば、そこを止められてしまったら外へ出ることはできないわ。彼らが鍵をかけなかったのも、例え部屋を出たとしてそこから逃げるのが難しいことが分かっていたからじゃないのかしら」
智香子の考えにクラリッサは頷いた。
「恐らくその通りかと。そして聖堂にはきっと、聖騎士かジェイミー様の従者の方々がいらっしゃることでしょう」
逃げることは難しいのではないのかと智香子は思うのだが、クラリッサは「きっと大丈夫です」と首を振った。
「どうして?」
「きっと、陛下が助けに来てくださいます。少しお変わりになられましたが、パトリック国王陛下は前と変わらず、我が国を一番に思われていると私は思いましたので。チカコ様はご友人で、尚且つ国賓です。誘拐されたと知れば、すぐにでも駆け付けてくださいますよ」
陛下と聞いて智香子がすぐに思い出したのはダミアンだった。すぐにパトリック国王、つまりは一貴であると分かったが、自分が頼る相手が無意識にダミアンであったことにぐっと眉に力が入る。
ここは隣国カタールで、ダミアンがいるわけもないことは分かっていたのに。
「それにしても、巡回の聖騎士が一人もいないなんて、おかしいことです。もしかしたら何か、教会内で企みを行っているのかもしれません…。そのために聖騎士を警護に付かせているのでしょうか…?もしそうであれば、出入口となる聖堂からは離れた場所を使うはずです。数名の見張りはいるでしょうが、私実は聖女教育の一環で武術もたしなんでおりますので、頑張ればどうにか、…ってチカコ様?お顔が何だか赤く…」
「ううるさいわよ!後ろ見てる暇があったらしっかり足を動かしなさい!」
「はいすみません!」
熱を持った頬に風を送りながら、智香子は遅れないようにクラリッサの後をついていった。
聖堂まで何とか辿り着いた二人。荒い呼吸を繰り返す智香子をクラリッサは心配して手を上下させる。しかしここまで誰一人にも会うことが無かった。
「警戒して損だったわね」
「少しはいると思いましたが…」
何かが可笑しいと思ったが、それよりも早くここから逃げなければいけないと気が急いた。
聖堂の扉に手をかけたクラリッサと智香子は、力いっぱい大きな扉を押す。装飾を多く施された重厚な扉は、見た目通りに重いかと思ったが力も大して使わずに扉が開かれる。今まで自分で開けたことのないクラリッサはこれほどの重さなのかと、いつもは屈強な聖騎士が二人がかりで開かれる扉に、安堵の息を吐こうとした。
「…え」
開かれた扉の奥には、聖女の服を身に纏ったセイディとジェイミー。そして教会の重役たちに聖騎士一同。
「お目覚めね。待っていたわ」
近くに居た聖騎士に抑えつけられても尚、クラリッサの目は一点を見て離れない。
「ど、して…」
彼女の視線の先。そこにいたのは、縛られて地面に転がされている子どもたち。かつてクラリッサがよく訪れ、触れ合った孤児院の子どもたちであった。