第129話:出来損ないの恐怖心
寒いのに熱くて、その気持ちの悪さに智香子は目を覚ました。体を動かそうとするが痛くて動けなそうにない。そういえば、部屋に突如入って来たセイディに好き勝手蹴られ踏まれまくったなと思い出す。途中からの意識がなくて、智香子は自分が気絶したのだと理解した。
「チカコ様…!目を覚まされたのですね!」
「クラリッサ…」
スノーホワイトの目に涙を溜めたクラリッサが智香子の側で膝を付く。部屋は暗く、今どれくらいの時間かと聞けば、はっきりとは分からないが恐らく3時か4時くらいだろうと教えてくれた。大体二時間くらい気絶していたのだろう。
「ここは…?」
「…ここは、”十三の峻別”が行われる教会の一室でございます。普段は聖女候補が修行を積む場所でもあります」
また教会か、と智香子は痛みに顔を眉を顰めながら息を吐いた。ベネッタが連れていかれた場所は正しくは神殿であったが、教会の人間が関係していた。ふと、以前クラリッサが智香子が会った教会連中と、カタールの教会はまた別だという話をしたことを思い出す。ではあの時会った教会連中とは別ということか。
ここは教会という建物で、連中は組織という違いもあるな、と智香子が考えていると、「申し訳ありません…」というクラリッサの謝罪が聞こえてそちらに目だけやる。そこには智香子の手を握り、苦し気に耐えるクラリッサがいた。
「申し訳ありません、チカコ様…。私が、呪いを解呪し、治癒を使えていれば、チカコ様がこのように苦しまれることもなかったのに…!申し訳ありません…!」
責任を感じるべきはクラリッサではない。智香子に暴力を振るい、傷を付けたセイディだ。セイディが行ったことにクラリッサが謝罪をする必要はないのだから、気にするなと、そう伝えたいのに息が上手く出来なくて話すのさえ億劫だった。だから智香子は手を伸ばし、短く刈られたクラリッサの頭に触れる。シャリシャリとした感触は、刈り立ての時よりも少しだけ髪の毛が伸びているようだった。
「ちょ、うし、乗るんじゃ、ない、わよ…」
「チカコ様…!」
これでは、クラリッサを見つけて家に連れてきた時と反対だ。あの時のクラリッサは喉にも異常があり話しずらそうであったが、今は透き通る声でスラスラ話すまでになっている。怪我が治っているようで、良かったと智香子は思う。
寒い。時間が深夜だからか、寝巻という薄い服だけでは寒さをしのげない。それはクラリッサも同じだ。震える智香子に気づいたクラリッサが慌てて何か上からかけるものを探すが部屋の中にそれらしきものは見つからない。
寒さと同時に、熱さも感じる。セイディに蹴られ踏まれた所が熱を持っているのだろう。気持ち悪い。気持ち悪いのに、瞼が徐々に落ちていく。
「チカコ様…?チカコ様…?!駄目です、駄目です…!」
「ばかね…。べつに、死なないわよ…」
こんなところで死んでたまるか。諦めることなんか絶対にしない。それでも瞼は落ちていく。
「ちょ、と、だけ、眠るだけ、だから…」
「チカコ様!チカコ様!」
クラリッサは必死で声をかけ続ける。怪我をした智香子を変に動かすことも出来ずに、ただ声をかけ続ける。智香子より一足先に目を覚ましたクラリッサは、部屋の外に声をかけてみたが返事はなく。智香子もクラリッサも縄で縛られていなかったが、当然部屋の鍵はかかっていて出られない。
なぜ拘束しなかったのか。それはクラリッサが呪いのせいで治癒も魔法も使えない、それらが使えても大したことはできない出来損ないの人間であるからだ。智香子は魔法を使わないし子供だし、今はこんなにもボロボロで、拘束をする必要がないと判断されたのだろう。例えクラリッサが動けるとしても、彼らは分かっているのだ。クラリッサが、傷ついた人を見捨てて置いていくような人間ではないということを。
一通り部屋の中を見て回ったが、使えそうなものは特にない。恐らく空き部屋で、今は誰も使っていない部屋。声を荒げたところで助けは来ない。
目を閉じた智香子の手を握る。寒いこの部屋で、熱を持った小さな体がまだ目の前の少女が生きていることを教えてくれる。そのことに心底安堵する。
どうして、自分はこれほど役に立たない人間なのだろうか。
生まれた時から今まで、碌に人の役に立てていない。家族にも、友人にも、結局は失望されてしまう。彼らの望む人間でいることができない。
こうして命の恩人が目の前で危機に瀕してるというのに、それを助けることさえできない。
クラリッサは自分の無力さに打ちひしがれる。例え治癒や魔法が使えても、大した力じゃない。役に立てない、望みを叶えることも出来ない人間だ。
「いえ、それ以前のお話でしたね…」
クラリッサは恐れていた。
どんなに酷いことをされようと、悲惨な目に合わせられようと、誰に対しても負の感情を抱くことができないことを。酷いと思う。でもそれは、酷い目に合っている人たちを思っての同情だった。喜び、幸福、そう言った正の感情は抱けるのに、人間としての当たり前にある、「嫌い」「憎い」「嫉妬」「怒り」といった感情が、生まれながらにクラリッサは欠如していた。
「私は、怖いのです。皆にとって普通のことが、自分にとっては普通ではないことが、とても怖いのです。普通であれば、ジェイミー様やセイディに裏切られた時、相手のことを嫌いだと、憎いと感じるものでしょう?ですが私はそう思えませんでした。ただ、「そうなんだ」と、思っただけでした」
信じていた人たちに裏切られたことは、悲しくて苦しかった。でもそれは、自分への失望だった。彼らの期待に沿うことができなかった自分に対する失望。彼らに申し訳ないとは思う。それ以上は何もない。憎悪の感情を一切抱かないことに、何かしら特別な力でも働いているのかと思ったこともあるが、そんなわけがないのだ。
「ただ、私が人として、欠如した人間だというだけ」
握っていた智香子の手が動く。パッと顔を上げて見れば、薄っすらと開いた目から、黒い瞳がこちらを真っすぐ見ていた。その目はクラリッサのすべてを受け入れる、温かさがあった。
「っ、私は、私は、人と違うことが怖いのです。そのせいで避けられたり、裏切られたりしたくありませんでした。独りぼっちには、なりたくありませんでした…!」
同じになれるように努力した。相手の気持ちに「そうですね」と寄り添うことは簡単なのに、共有ができない。徐々に落ちていく治癒の力、離れていく人たち、そして裏切られた大好きだった人々。
独りにはなりたくない。離れて行かないで欲しい。離れて行かないでくれるなら、どんなことでもするのに。貴方が望むなら、どんなことでもするのに。
掴んだ手を、クラリッサは強く握る。
小さくてでも強い智香子は、全てを失ったクラリッサに命を吹き込んでくれた。智香子がいるから、何とか生きようと思える。もしも智香子がクラリッサから離れて行ったら、もうクラリッサには何も残らない。信用できる人は、縋れる人は、誰も居なくなってしまう。
「お願いです、誰か、誰でも構いません!どなたか、チカコ様をお救い下さい!お願いします!お願いします!お願いします…!」
独りぼっちだ。
《あらぁ。なんだか随分可愛い姿になっちゃってるわねぇ。でもそんなアナタも愛してるわぁ♡》
突如現れた光り輝く存在に、クラリッサは息を止めた。声をかけられるまで気づかなかった。いつからここにいたのか。それよりも目を引くのは、腰まで靡く金髪と、情熱を宿した赤い瞳。白い布だけを身に纏ったそれは、人の形をしているが存在感が圧倒的に違う生き物だった。なによりも、自ら発光して常に宙に浮かぶ人間をクラリッサは知らない。
息が詰まる。声が出せない。体が震えているのは、恐怖を感じているからか。
《ウフフフフッ…》
美しく笑ったそれは、ゆっくり智香子へと手を伸ばした。駄目だとクラリッサは智香子に覆いかぶさる。
「つ、連れて行かないでください!このお方はまだ、天寿を全うされてはおりません!」
ガタガタと恐怖に震える体のまま、それでも智香子だけは守らなければとクラリッサは智香子を抱きしめる。
《…あらぁ…。人の身でありながら、いくら顕現していないとはいえ、私を前に動けるなんて…。アナタ、面白いわぁ♡》
「…へ?」
てっきり命でも取られるかと思ったが、どうやらそんなことはないらしい。
《心配いらないわぁ。別に命を取ろうなんてしてないし、私はその権限を持っていない、か・ら♡》
すい、とそれが手を振ると、クラリッサの体が浮いて智香子から離される。智香子に近寄ったそれは愛おしそうに智香子の頬を撫でた。すると智香子の目が開かれる。黒と赤の目が合わさった。
「…お、姉さま…?」
《アナタ、記憶が…》
しかしそれだけ言って、智香子はまた眠りについてしまう。
《あぁ…。欠片を一つ、手にしたのね…。でもたった一つだけ。アナタの記憶が、アナタが完全に戻ったわけじゃないわぁ。魂が無意識に働いたのかしらぁ?でも嬉しいわぁ♡また、あの時のように、お姉さまと呼んでくれるなんて♡》
嬉しいわ。
そっとそれが智香子に触れたところから光が溢れて行く。眩しくて目も開けられないほどの強い光は、やがて収まった。そこにいたのは怪我の治った智香子である。
「チカコ様…!あぁ、良かった…。ありがとうございます!ありがとうございます!」
感動して涙を流すクラリッサに美女の形をしたそれはただ笑う。
《アナタの愛の言葉、とても良かったわぁ。心の底から強く想う気持ち、それに連なる言葉…私、とっても愛してるの♡どうかこれからも、その愛、忘れずにね》
「は、い」
瞬きの次の瞬間には、すでに輝かしい美女の形をしたものはそこにはない。あり得ないことだが、そうとしか思えない存在。
所謂、神と呼ばれるもの。
不思議な存在との会合にしばらく呆けていたクラリッサは、神という偉大な存在を前に死ながら、途中から自分が震えていなかったことにようやく気が付いた。
部屋の隅に置かれていた本が、風も吹いていないのに一ページ捲られた。