第128話:扉を開けるときは要確認③
怪我の治療を終わらせて、作業に戻る。以降も同じように整理と美化という作業が続いて、夜は一貴が酒を手に部屋を訪れる。二日酔いの記憶がまだ新しく拒絶した智香子に、一貴は大丈夫と笑みを浮かべた。
「これ、お酒じゃなくてジュースだから」
それは赤でもなく白でもなく、オレンジ色。
「オレンジジュース?」
「うーん。まぁこれはそうだし、同じようなものだね」
なぜかオレンジの瓶ともう一つ用意されていて、そちらの中身はオレンジではなく黒に近い濃い色だ。二つが混ぜ入れられたグラスの中はオレンジ色。それを差し出される。本当にお酒じゃないのか?と恐る恐る口に含めば、確かにワインのような強いアルコールは感じない。オレンジジュースだが、少し違う気もする。だが飲みやすい。
「美味しい…!」
「でしょー。それね、カシスオレンジって言うんだよー」
「カシスオレンジ…。私これ結構好きだわ」
良かったーと笑う一貴。智香子はカシスオレンジに夢中で、目の前の男の笑みが悪戯を企んでいる顔だと気づけなかった。
そして翌日。
「なんで…?」
再び二日酔いである。あたふたと手を上下させるクラリッサの横で、一貴は腹を抱えて笑った。カクテル、というお酒であったことをそこでようやく知らされる。騙されていたこと、笑われていることに智香子は腹が立つが、二日酔いの頭痛から一貴を殴ることさえできずにベッドに沈む。飲みやすさから結構な量を飲んでしまったため、智香子の二日酔いは一貴が連れてきた侍従から、解毒魔法を使ってもらうまで続いた。
回復してからその日も同じく整理と美化。クラリッサを見れば、埃と汗にまみれながらも、どこか活き活きとした様子だった。智香子が名前を呼べばすぐに振り返る。
「体の調子はどう?怪我はもう平気?」
一番痛々しい目の傷も徐々に良くなっているように見える。服の下に隠れた傷や痣、打撲痕も薄くなっているようだ。
「今はほとんど痛みを感じません。皆様の処置が素晴らしかったお陰です」
「ベネッタとカロラスが聞いたら喜ぶわ」
夜。汚れ、疲れきった体で風呂に入る。風呂も大きく立派で、なんだか逆に恐縮してしまう。初日、メイドのような恰好をした女性たちが部屋に現れて、「お体お流しします」と言われたが丁重にお断りをした。自分で洗えるし、人から洗われたことなど大きくなってから一度もない。気遣いはいらないと一貴に伝えれば、「…オッケー」と言った後、何やら考え込んでいるようだった。
「あぁー……。生き返るぅ……」
思えばアドリオン外で、これほどゆっくり風呂に入れたことはなかった。シルナリヤスとの国境にある砂漠地帯では、当然風呂などなかったし、妖精の国では水浴びだった。妖精の国、タナフォーリは気温の変化がなく温暖で、水浴びも冷たいと感じたのは水に入った一瞬だったが、こうして温かいお湯に浸かるのとは疲労回復度が違う。
夜ご飯も豪華なもので、クラリッサと共に頂いた。明日も作業があるだろうとそれぞれ寝ようとしたが、クラリッサは動かない。
「クラリッサ…?」
見れば少し頬を染めたクラリッサは、手を緩く上下させ、何かを言い淀んでいた。
「あの、チカコ、様「さん」はいすみません!あの!今日はご一緒にお休みしてもよろしいでしょうか?!」
勢いよく告げられたお願いに、智香子は噴き出す。
「うふふ!勿論良いわよ!パジャマパーティね!」
ベッドは一人で寝るには広い。二人で大の字で寝ころんでも十分な広さがある。沢山話をしようとしたが、労働の疲れか智香子もクラリッサもすぐに眠りについた。
コンコンコンッ
遠くで聞こえるノックの音に、智香子は目を覚ます。
外はまだ暗く、夜は深い。こんな時間にやってくる非常識な人間など、一人だけだ。
クラリッサを起こさないように慎重にベッドから降りた智香子は、今なおずっと続くノックの音にイライラを募らせる。
「あーもう煩いわね!一体何時だと思ってるのよ!常識ってものをもう一度習い直した方が良いわよ!」
扉を開ける前に、智香子は一度立ち止まる。クラリッサとの約束を思い出した。相手は誰か分かっているが、しっかり確認しなければ、と寝ぼけた頭で変に律儀な智香子は口を開く。
「誰よ」
「クラリッサです。すみません、チカコ様」
以前と同じセリフだった。セリフのバリエーションをもっと増やせと思わずにはいられない。少し高い位置にあるドアノブに手をかけた智香子は、しかし違和感を感じて動きを止める。
昨夜、一貴は普通にドアを叩いた。クラリッサの声じゃなく、前の世界とは違い、カタール王の低めの声。
「君の大大大好きな先輩が凍えてるよー。かーこちゃーんー。早くあーけてー」
「好きじゃないって言ってんでしょ!異世界来るときに記憶力どこかへ落としてきたんじゃないの?」
「やだなぁ。かこちゃんの言葉は、一言一句、ちゃーんと脳みその皺一つ一つに刻み込んでるから覚えてるよっ」
「表現キモ」
そんな会話をしたことを覚えている。
なぜわざわざ一度目と同じように、クラリッサの真似をしているのか。そもそも、一度目の声は、本当に一貴が出した声だったのか。
コンコンコンッ
「チカコ様?」
「…アンタ、誰よ」
止んだノック音の奥で、誰かが笑う。
「誰って聞いてんのよ!」
笑い声の後、聞こえたのは呪文だ。慌てて智香子はドアから離れたが、間に合わず爆風に体を飛ばされ壁に背中を打ち付ける。痛みに漏れた声は、入って来た女の笑い声に掻き消された。
「セ、イディ…!」
「こんばんは。醜いクソガキ」
セイディの後ろには、ジェイミーと黒いマントを被った者たち。彼らが向かうのは、クラリッサが眠っている寝室だ。待てと言いたいのに痛みに声が出ない。
「本当だったらもっと早く進められたのに、とんだ邪魔が入ったわ。この部屋にかけられえた防御魔法を解除するのにも時間かかっちゃったし。でもまぁ、すんだことは水に流すべきよね」
ヒールの音を響かせて智香子の元まで歩いてきたセイディは、智香子の頭を踏みつけた。
「なんていうとでも?すんだことは水に、流せるわけないじゃない。この苛立ちを、腹立ちを、全部あんたにぶつけなきゃ私の気はすまないわ!」
頭、背中、腕、肩。踏まれて蹴られて転がった智香子を、マントを被った一人が抑えて、またセイディは踏みつける。
「くそ!くそ!くそ!くそ!なんで?!なんでなの?!なんであんたみたいな不細工が優遇されてんのよ!私の方が遥かに美しいのに!私の方が遥かに優れているのに!くそ!くそ!」
痛みに息が詰まる。まともに呼吸もできない。
扉の音と共に、クラリッサの悲鳴のような声が聞こえた気がする。
「チカコ様!!!!」
クラリッサの登場に、セイディは踏みつけるのを止める。荒々しく肩で息をするセイディはクラリッサに笑みを向けた。
「あらクラリッサ。ここにいたのね。手間が省けて良かったわ」
「セイディ!止めてお願いします!チカコ様を傷つけないで下さい!」
「あら!それは、無理な相談、よ!」
「ぅぐっ!」
再び始まる痛み。智香子はクラリッサの怪我を思い出す。あの痣や傷は、こうやってできたのかもしれないな、と。
「こいつが、こいつが、悪いのよ!急に現れたかと思ったら、陛下の関心を全部ひとり占めして!許せない!許せない!許せない!」
「セイディ、貴方は、ジェイミー様のことを愛していたわけではないのですか…?」
ピタッと止まったセイディは何を言ってるんだとクラリッサを見た。
「そんなわけないじゃない」
クラリッサは自分を掴むジェイミーを見る。そこには驚きに目を見開くジェイミーの姿があった。
「私は始めから!始めから、陛下を手に入れたくて、だからジェイミー様に近づいたのよ。私じゃ陛下と結ばれるのに身分の差があり過ぎるから。だから、まずは年齢が近いジェイミー様と婚約し、身分を合わせるために公爵家に養子として入る。全ては陛下と結ばれるため。陛下と結婚するために、必要だったこと」
ジェイミーの震えがクラリッサに伝わる。
「そんな…。君は僕を愛していると…」
「よくそんなウソ信じたわね。私てっきり、聖女が欲しくて私と婚約したのかと思ってたわ。今のクラリッサじゃどう頑張っても聖女にはなれないでしょ」
どういうことかと呟いたのはクラリッサ。口を開こうとするセイディにジェイミーは「黙れ」と叫んだが、興奮したセイディには聞こえなかった
「殿下はね、王になりたかったの。でも王位継承権は二番目。第一王子様は優秀なお方。でも一つだけ、殿下が第一王子様よりも上に立てる方法が、一つだけあったの。それが、聖女。王と同等の権力と地位を持つ聖女を伴侶にすれば、現在準聖女と婚姻を結んでいる第一王子様よりも上に立ち、王位は確実になる」
「うるさい!それは言わないと、」
「もうこうなっちゃったら仕方ないじゃないですかぁ。てか隠したところで何か意味ありますか?まさか、まだクラリッサを手放せないんですか?聖女も手に入れて、クラリッサも手に入れるって?えー、強欲過ぎません?」
「うるさい!黙れ!」
セイディとジェイミーのやり取りに、クラリッサは頭が揺れる。
聖女を欲していた、ジェイミー。いつからなのだろうか。いつから、彼は王位を狙っていた。もしかしたら始めから…?
クラリッサの頭に浮かぶのは、かつての優しい日々だ。初めて顔を合わせたのは十歳。婚約者候補の一人であったクラリッサに、出会ったころからジェイミーは優しくて、プレゼントに花を渡してくれた。こんな物しか渡せなくてごめんと頬を染めながら言うジェイミーに、クラリッサはすっごく嬉しいです!と心の底から笑みを浮かべた。クラリッサの笑みにジェイミーもホッと息を吐いた。優しい思い出。
しかしいつからか、ジェイミーは変わった。クラリッサの”十三の峻別”の時は、とても喜んでくれたが変わらず優しかったと思う。変わったのは、十六歳くらいの時だろうか。それでも優しかった。しかし今までの優しさは全て、王位のためであったというのか。
打ちひしがれるクラリッサに、セイディはいい気味だと笑う。
「あはは、あはは、あはははは!醜いクソガキも、鬱陶しいクラリッサも、全部全部いなくなっちゃえば良いのよ!」
笑いながら智香子を踏み、蹴るセイディに、クラリッサは止めてと何度も叫んだ。
「ジェイミー様!お願いします!セイディをお止めください!あのままではチカコ様が死んでしまいます!」
しかしジェイミーは顔を背けるだけで、助けに行くことも声をかけることさえもしない。
気が済んだのか、セイディは長く息を吐いて荒れた服を整える。
「…連れて行くわよ」
智香子たちが泊っていた部屋には、破壊された扉と壊れた机や椅子、そして誰のかが不明な血の痕だけが残されていた。