第124話:あべこべなカタール国王②
クラリッサはカタール王と会ったことが何度かある。聖女候補として、聖女の子孫であるコリンズ家の一員として、顔を合わせた時のカタール王は良く言えば優しい、悪く言えば気弱な人物であった。王としての威厳がなかったというわけではない。しかし妃や部下たちに強く出られず、困った顔をしているのを何度か見たことがあり、威厳がある姿よりも困った姿の方が印象が強かった。
今は亡き皇太后様が、優しく気弱な彼にパトリックという初代カタール王の名前を付けたのは、初代のカタール王のような自信を持ち、貿易が盛んなこの国を、素晴らしい商いの力で導いて欲しいという願いを込めたからだ。
だからクラリッサは、これほどに自信と気迫に溢れたカタール王を見たことが無い。
「それは、どういうことでしょうか?」
動揺を示すクラリッサ。一貴は今までの怪しい雰囲気を吹き飛ばした。
「だってさー!この子、他の自殺志願者の自殺は必死な顔で止めるのに、僕の時は全然そんな感じじゃなかったんだよー?!腹立つくない?!」
自殺、と呟いたクラリッサに、一貴はなんてことないと答える。
「あ、そうなの。僕ね、死のうとしたのー。ずっとなんで生きてるのか分からなくて、何かが自分には合ってないなぁってずっと思っててさ。国を変えれば何か変わるかもしれないって海外飛び回ってみたけど、結局何も変わらなくてさー」
生きる意味が分からなくなったから、だから死のうとした。
天気は曇天。大学の屋上。眼下を見れば遠い位置に地面が見えた。フェンスを乗り越えて、強い風を体に受けて、いよいよ自分の前に死が来ても、一貴は恐怖を感じることはなかった。
死を前に何も変わらないことに、落胆したものだ。
屋上の端に座り、足を宙でプラプラとさせる。下にいる顔見知りかも分からない人間が手を振っていることに気づいて、笑顔で振り返した。きっと彼らは一貴が今、死のうとしているとは思いもしないだろう。
「ま、僕も同じような人がいたら、死ぬとは思わないけど」
「あら、貴方死ぬの?」
ビクッと一貴の体が揺れる。驚いた、人がいたことに気が付かなかった。屋上の扉は開閉に大きな音が出るから気づくものだと思っていたが、どうやら外付けの階段で上がって来たらしい。その階段の入り口には、屋上の扉よりもしっかりとした鍵があったはずだが。
「屋上の扉は鍵が閉まってて、勝手に入らないようになってるじゃない。不法侵入よ」
「いや結局屋上に来てるんなら君も同罪でしょ!」
「私は許可を貰ってるから罪に問われないわ。鍵もちゃんと借りてる。貴方と一緒にしないでもらっていいかしら」
突き放す智香子の言葉に、一貴はどうしても苛立ちを感じてしまう。初めて見た時から、一貴は智香子が苦手だった。一貴が入っているサークルに彼女が晴馬と来た時も、胸のムカつきは増した。ただ彼女から何かされたわけではない。自分勝手な感情をぶつけるのは違うと冷静な自分が言うから、なるべく笑顔で接していた。笑顔で好意的に接することで、自分の感情を強制的に好意的に寄せようとした。
(それでもやっぱり、嫌いだなぁ)
腹が立つ。ずっと、何かが気に食わない。
「僕のこと止めに来たの?僕思うんだけど、自殺する人を止めるのって偽善じゃない?ってさ。だってそうじゃん、生きるも死ぬもその人の選択でしょ。だったら、その人が死にたいって感情や決意を、「死ぬほどのことじゃない」「可愛そう」「生きてればなんとかなる」なんて自己満塗れの言葉で否定しないで欲しいわけ~。…って聞いてる?」
何も言われないから振り返ってみれば、ガサッと音が聞こえた。丁度菓子パンの袋を開けているところだった。
「なっ…!自殺しようって人が今まさに目の前にいるのにご飯食べるの?!」
「当たり前じゃない。私が何のために許可取ったと思ってるの。屋上でご飯を食べるためよ」
「いやわざわざ許可取ってご飯食べないでしょ~…」
モグモグと口を動かして、美味しいと表情いっぱいに出す智香子。
なんだかムカついている自分が馬鹿らしくなる。このあほ面の前で飛び降りてやろうかと眼下を見た。
「それに貴方、死なないでしょ」
「は?」
鉄柵の向こうで、智香子は菓子パンを頬張らずに一貴を見る。
「いや、人間はこんな高いところから落ちたら死ぬんですけど」
誰だって分かることだろうにこの少女は何を言い出すのか。しかし一貴の言葉を聞いて「え?何当たり前のこと言ってるの?」みたいな顔をしてくるのでどんどん腹が立つ。
ムカムカに耐えられなくなって、一貴は宙に投げ出していた足を戻し、柵の向こうにいる智香子の肩を強く掴んだ。
「自殺を止めに来たわけでもないし、自殺しようとしてる人間の前でご飯食べるし、死なないでしょとか煽るようなこと言うし!ほんと何がしたいわけ?!」
突然肩を掴まれて驚く智香子にようやく少しだが怒りが和らぐ。しかし彼女も黙っていられる人間ではない。
「だから!昼食のために来ただけって言ってんでしょ!ここに勝手にいたのもアンタ、勝手に自殺しようとしてたのもアンタ!こっちは正当な手続き踏んでちゃんとした理由あるのに、そっちはどうなのよ!不法侵入者の癖に逆切れしてんじゃないわよ!」
「普通自殺とか聞いたらさ、「あぁこの人何かしら人生に思うことあって死のうとしてるんだ」って相手の悲しい背景に同情して静かな雰囲気が流れるもんでしょー?!なんでそんな上からなの?!なんでそんな自由なの?!配慮してよー!」
「雰囲気なんて知らないわよ!てか自殺止めるの偽善とか自己満とか散々言ってたくせに急に何?!」
「ちがいますー。僕は今配慮を求めただけで、自殺阻止して欲しいとか言ってません―」
その後も続いた言い合いは、智香子が一貴の口に自分が持っていた菓子パンを「うるさい減らず口!」と突っ込んだことによって終わった。
菓子パンの甘さと、菓子パンを一貴の口に入れるつもりじゃなかった智香子のやっちゃった顔、そして言い合いで気分が幾分か晴れてしまう。
「はぁーあ。君のせいで死に損なっちゃったじゃんよ~」
「知らないわよ!てか私のお昼ご飯返して!」
なんとか背伸びをして一貴の手にあるパンを取ろうとするが、当然取れるわけもない。ほれほれ~と目の前に差し出していじわるをすれば、怒りが頂点に達した智香子は鉄柵を乗り越えようとするではないか。その身長では無理だろ、と思っていたが、智香子はなんと柵の上に足を見事乗せて見せた。持ち上がる体、伸ばされる手。
智香子の手が菓子パンに届く前に、智香子の左足が柵の上で滑る。
「え」
「あ」
傾いていく体は、先程一貴が落ちようとしていた屋上の下へ向かっていた。
それは、だめだ。
伸ばした手が智香子の腹を捕らえて、二人仲良く縁に倒れ込む。自分が死のうとしたときはこれほど心臓が鳴らなかったのに、他人が目の前で死ぬのは駄目らしい。痛いくらいにバクバク鳴る心臓と、腕の中にいる小さな少女の「し、死ぬかと思った…」という安堵の声が聞こえる。
「………勘弁、してぇ…」
呟きは智香子に聞こえたらしいが、配慮できる余裕は今の一貴にはない。同じように心臓を抑える智香子。
「…ねぇ。さっきさ、なんで「死なないでしょ」って言ったの?普通さ、死ねない、じゃない?」
質問に智香子は首を傾げる。すぐに返されるかと思ったが、彼女は何か悩んでいるようだった。
「…分からないわ」
「分からない、とは」
「なんとなく、貴方は死なないと思ったのよ」
なんだ、と一貴は息を吐く。あれは死ぬ覚悟もないと揶揄ったわけでもなく、落ちても死なない不死の人間だと思われていたわけでもなく、単に理由なく吐かれた言葉だったとは。
ゴロンと柵に背を預けて仰向けになれば、曇天だった空は快晴に変わっている。ムカつきや苛つきが、いつの間にか消えていることに気が付いた。
まるで一回死んでから、生まれ変わったような清々しい気分だ。
笑い出した一貴に変なもの見る目を向ける智香子。
「アハハハ!はぁー!オッケーいーよ!君がいる間はさ、死なないでいてあげる!」
「はぁ?私がいる間って、何言ってるのよ。人に自分の生死委ねてんじゃないわよ」
生憎と智香子からもらった菓子パンは屋上の下へ落ちてしまった。自殺を止めた途端腹が減る。
軽々智香子を抱えて、一貴は鉄柵を飛び越える。突然のことにしがみついてくる智香子に満足感を覚える自分がいた。
「ねね、かこちゃん~。お昼台無しになっちゃったからさ~、一緒に購買行ってまたここで食~べよ~」
「お昼台無しにしたのアンタじゃないの!そんな人間とまたお昼食べたら、また台無しになる未来しか見えないからお断りよ!」
「やだな~かこちゃん。あれは、かこちゃんがフェンスから足を滑らせたのが始まりだよ~?責任転嫁は大人のすることじゃなくない~?」
「元を正せばアンタが私の肩掴んだのが始まり…って、さっきからそのかこちゃん呼び何?」
「え?小さいかこちゃんにピッタリのあだ名だなぁと思ってさー」
「っ~~~~!見下すな~~~~!!!」
屋上に智香子の叫び声と一貴の笑い声が響いた。