第121話:記憶の整合性
兵士からの説教からなんとか免れた二人はほっと息を吐く。兵士の説教は非常に疲れる。彼の言葉があまりにも正論過ぎて、聞いていて何も反論するところが無く、精神へのダメージが大きい。
クラリッサから視線でたずねられて智香子は日記の表紙を彼女が見えるように掲げる。
「これは高藤充希という人物の日記よ。彼女は私と同じ時代からの転生者みたいなの」
日記には、転生してきた充希が記憶を取り戻した十二歳から五年後の十七歳までしか記されていない。それ以降の日記は、ここの本棚には置いていないようだ。
クラリッサも智香子と同じ思考に至ったのか、「年代が合いませんね」と呟く。
「同じ時代から、ミツキ様は過去に、チカコ様「さん!」はいすみません!はこの時代にやって来たということでしょうか。なぜこのようなズレが生じているのでしょう?」
「…分からないわ」
共通点と相違点が分かれば、ズレの正体も分かるが。しかし充希の日記には転生前にどのような生活をしていたのか、どうやって転生してきたのかは記されていない。情報が少なすぎる。
(私は、確か…)
成人式に参加していて、家族と合流しようとしていた。横断歩道を渡って、そしたら車が突っ込んできた。女性が助けてくれて、彼女が目の前で血が流れるのを見て、
「…あれ?」
「…チカコ様?」
固まった智香子。クラリッサがどうしましたか?と聞いてくるが、智香子の頭の中は他のことで一杯だった。
「…思い、出せない。こっちに来る前に、何かあったはずなのに…。誰かと、話したはずなのに、思い出せない…?」
確かに何かがあったはずなのに、思い出せない。まるで記憶がそこだけごっそり抜かれたような感じだ。家族も友人たちのことも思い出せる。しかしそこだけ、記憶が無くなっている。転移する直前の記憶が、消えている。
(そういえば私、いつから元の世界に戻ろうって思わなくなった?)
最初は確かに考えていたはずだ。元の世界へ、家族の元へ帰ろうって。
いつからだ。分からない。いつの間にか、智香子の帰る場所はレッドフィールド家に変わってしまった。この世界に馴染んでいくことが心地よく、元の世界を忘れていくことが怖いのに怖くない。
それがより、怖い。
「チカコ様!」
クラリッサの熱が智香子を包む。かつての国王の日記を落としても、誰も気にしない。
「チカコ様、落ち着いてください。大丈夫です。大丈夫ですから」
何がと明確に言わないクラリッサ。当然だ、クラリッサには今智香子に何が起きているのか分からない。しかし今まで気丈だった彼女が、突然震えだして、苦しそうで、今にも泣きそうな顔になったのを見て、耐えられなくなっただけだ。
クラリッサに抱きしめられた智香子は、思い出そうとする頭の痛みが和らいでいく気がした。
もう大丈夫だと伝えると、クラリッサは腕の力を緩める。智香子の大丈夫という言葉を信じていないのか、クラリッサは不安げなスノーホワイトの瞳で智香子を見た。安心させるために笑えば、より疑われる。
どうしようか、と智香子が考えていた時、扉が開かれた。開いたのは兵士ではない。兵士であれば、もっと静かに開けるはずである。
立っていたのは満面の笑みを浮かべたセイディ、そして彼女に腕を組まれたジェイミーだ。
「クラリッサ、貴方逃亡しようとしたんだって?貴方にそんな度胸があったことに驚きだけど、逃亡を企てたのならもう答えを待つことは出来ないわ」
連れて行って。短くセイディが支持を出すと、兵士たちが部屋に入ってきて智香子達を縛る。
「どこに連れて行こうって言うのよ!」
「私が優しく返事を待ってあげていたのに、逃げようとしたのよ?私を裏切った、私を失望させた。二度とこんなことが起きないように、契約を結ぶの」
いまいちピンと来ない智香子とは反対に、クラリッサは顔を青ざめさせた。
「そんなこと、できないはずよ。だって、陛下がお許しになるはずないもの…!」
「うるさい!陛下のことを、利いた風な口をきくな!」
突然激高したセイディに驚いたのはクラリッサだけではない。隣にいるジェイミーも、怒るセイディに驚いている。はっとしたセイディは悔しさに唇を嚙む。
「…陛下がお許しになるかどうかは、貴方がその目で確かめれば良いことよ」
クラリッサが助けを求めてジェイミーを見るが、彼は明るい金色の瞳を伏せて「すまない」としか言わない。
智香子とクラリッサが連れていかれたのは玉座の間である。
厳かな雰囲気のある部屋で智香子が思い出したのは、妖精の国のティムニヒッカ。形はティムニヒッカが円形だったのに対して、この部屋は長方形と違う。しかし雰囲気や、周りにいる人たちの視線がよく似ていた。妖精たちからされたことや言われたことを思い出した智香子は気分が悪くなる。
「大丈夫ですか?チカコ様」
「さん、って言ってるでしょ…。なんなら訂正しすぎて、智香子様さんはいすみません!が私の名前みたいになってる…」
「もう、諦めましょう?」
「なんで私が駄々こねてる感じになってるのかしら?」
妖精との嫌なことを思い出したと言えば、クラリッサは何も言わなかった。どうしたのかと見れば驚いた表情でこちらを見ているではないか。
「なに?」
「…いえ…。…妖精は、確かに魔力のある者を好み、魅力があると力を貸します。妖精親和性が高いかどうか、魔力が高いかどうか。この二点が、妖精にとっては大事なこと。ですが、妖精は基本、おだやかな生き物です」
おだやか。それは智香子が妖精に対して持つイメージから、最もかけ離れている言葉だ。口を開けば「魔力無しは魅力無し」と罵詈雑言が飛び出し、口を開かなくても凄く憎悪の籠った目で睨み付けられる。
「…私が知っている妖精とは別の妖精のことを話してる?」
「えっ、と、その可能性も捨てられませんが…。チカコ様のお言葉を否定するつもりはありません。ですが、私が知る限り、妖精とはおだやかに自然を愛し、一部の特別な人間以外には、気まぐれに力を貸してくれる存在です。そんな、一方的に攻撃するような性質を持った個体、見たことがありません」
個体と言える数ではない量の妖精と会ったが、皆同じように攻撃的であった。妖精の国にいるものと人間の国にいるものでは、性格が変わるのかもしれない。
(でもゲットル伯爵領で会った妖精も、同じだった気がする)
可能ならカタールの妖精と会ってみよう。もしかしたら仲良くなれるかもしれない。
「魔力がない人に接する時、妖精は基本無関心に、」
「兵士に抱えられて仲良くおしゃべりなんて、随分と余裕ね」
前方を歩いていたセイディから厭味ったらしく言われて、二人は今の状況を思い出す。揃って兵士の小脇に抱えられた状態だ。放り投げられて床に這いつくばることになる。
床に倒れて智香子はやはりティムニヒッカとよく似ていると思う。二人を照らすシャンデリアの光が、ティムニヒッカにあった緑の光とそっくりだ。
智香子達を罪深いものだと、悪いものだと決めつける、この光が。