第117話:礼儀知らずな子供②
二人の願い空しく、智香子とクラリッサは現在結界から出てしまっている。
これには理由があった。ベネッタがダミアンから連絡が入ったと家に帰り、大和が引き続き護衛を任されることになったのだが、近くに何やら曲者の匂いがすると言ってどこかへ行ってしまった。引き続き薬草採取をしていた二人は、近くに薬草の群生地を見つける。そこが、結界から数歩出た場所だったのだ。
智香子は魔力がないため、結界を感知することなどできない。またクラリッサは現在、呪いによって魔法を使うことができず、感知もできなかった。
草を踏む音が聞こえて、智香子はベネッタかと思い顔を上げる。
しかしそこにいたのは、明るい金髪の青年。暗めの外套を羽織った姿は一見旅人か、智香子達と同じ薬草採取に来た人にも見えるが、何となく小ぎれいで違う気がする。
誰だ?と首を傾げる智香子の後ろで、ドサッと音がした。クラリッサが薬草籠を落とした音だ。
「っ、ジェ、ジェイミー、様…」
誰だと聞けば、クラリッサは震えながら答えてくれた。カタールの第二王子だと。
青い彼女の顔から、智香子は察する。目の前のこの男が、クラリッサをあんなにボロボロにした人間なんだと。
「ライリー…」
悲しげな声で、瞳で、クラリッサを呼ぶジェイミー。彼だけではなかったらしく、その後ろから数名、同じような恰好の者たちが現れた。
「これが、クラリッサ様…?あの美しい御髪は?あの美しいスノーホワイトは?」
「見る影もない。目は潰れ、痣やシミに塗れ、なんと醜いお姿か…」
「元の美しさはどこへやら…。あぁ、お労しい…」
囁かれる声にクラリッサは胸が締め付けられる。もう会うことはないと思っていたのに、なぜこうして現れたのか。
「ライリー…。すまない、私は、君に謝りたくて、こうして君を探してきたんだ。本当にすまない。私が間違っていた。君が殺人を犯すなどあり得ない話なのに…。セイディの話があまりに信憑性のあったものだから、彼女の言葉を信じてしまったんだ。それがまさか、こんなことになるなんて…」
ジェイミーの言葉に、クラリッサは思わず顔を上げる。
「こんなこと…?一体カタールで何か起きているのですか…?」
「あぁ…。カタールは今、聖なる結界の力が弱まったことにより、魔物が攻め入ってきているのだ」
「魔物が?!」
もう王都の近くまで押し寄せているらしい。しかし各領地も自領の防衛が第一で、王都の方に増兵は厳しい。地方からは魔物の脅威から逃れようと人が押し寄せている。このままでは国が危ない、と。
しかし聖なる結界は聖女の力。聖女しか扱えないものだ。
「セイディがいるではありませんか。彼女は、」
「セイディは…彼女は、結界を張れなかったんだ…。嘘を吐いていたんだよ。真の聖女は、君だったんだ、ライリー」
クラリッサは頭が混乱する。聖女試験が、聖女を選ぶものではなかったのか。選ばれた者が、聖女の力を先代聖女から得るのではないのか。
「殺人未遂も、未遂というだけで、殺人を犯していないのだからなんとでもなる。話を大きくしてしまっただけだ。私が社交界も、世論もどうにかする。だからお願いだ、この通りだ、ライリー。どうか我が国に戻ってきて欲しい。君の力を我が国のために使って欲しい。君が必要なんだ、ライリー」
名を呼ばれるたびに、楽しい記憶が思い起こされる。淑女教育で息苦しい思いをしていたクラリッサを、甘いお菓子と楽しい話で心を癒してくれたのは彼だった。聖女候補となり、異性と会うのが難しくなっても、王族としての訪問の度に、昔と変わらずお菓子と話を届けてくれる、優しい人だった。
だがクラリッサはどうしても、どうしても、あの時のことが忘れられないのだ。彼の失望の瞳が、クラリッサを見下すのが。彼がセイディと手を取り合うあの姿が。
——信じていたのに。君には失望したよ、ライリー——
「君が必要なんだよ、ライリー」
バサッと、ジェイミーに薬草がばらまかれる。草まみれになる第二王子など、誰が見たことがあるだろうか。驚く面々の中一人、ふんっと息を吐く人物。あまりにも小さいその背丈に不釣り合いな強い瞳は、「あら、私にしては結構遠くまでなげられたわ」と無遠慮にジェイミーを睨み付ける。
「ごちゃごちゃとうるさい、礼儀知らずな子供ね」
ずっと、出会ってから、この小さな人は、何度クラリッサの心を拾い上げてくれるのだろうか。
智香子はクラリッサの前にずっといたのに、まるで無いもののように扱われていたことが気に食わなかった。そう、小さくて見えなかった、と言われているかのようで。
「謝罪しに来たってんなら、まず第一にその頭を地面に擦りつけるところから、でしょう?随分と、頭が高いんじゃないのかしら」
突然現れた少女に、ジェイミーの後ろにいた者たちが「子供はお前の方だろうが!」と怒りを滲ませて進み出る。掴みかからんとする彼らより先に智香子を庇ったのはクラリッサだ。腕に抱える智香子を彼らからなるべく遠ざけようと身を引く。
「…きっと、様々な事情がおありなのだと思います。何を信じていいか分からない時、人はつい自分に都合の良いことを信じてしまいますから。何者かから騙されている貴方方を救えぬ私を、どうかお許しください。しかし殿下。平民となった私の言葉が貴方様にどれほど届くかは分かりません。しかし、事実を伝えぬまま、罪なき者に罪を被せることは、果たして善い行いなのでしょうか」
力強いクラリッサの体が震えていることが分かるのは、抱えられた智香子だけだ。
「女神様はいつも、我らを見ておられます」
クラリッサの言葉に、怒りを抱えていたはずの者たちは困惑の顔でジェイミーを見る。ジェイミーは額を抑えて息を吐いた。
「ライリー…。君は、変わってしまったんだね…」
「…申し訳ありません、殿下」
顔を上げたジェイミーは、「良いよ」と優しく笑う。
「君が自分の意思でついてきてくれたら、楽だったんだけど」
ジェイミーの言葉が聞き取れなかったクラリッサは、後ろからの衝撃に膝から崩れ落ちる。
そうよそうよーとクラリッサの腕の中で野次を飛ばしていた智香子は、支えとなっていたクラリッサが倒れたことで地面に投げ出される。近くに居たものに抑えつけられ、暴れるが体を縛られ、魔法で眠らされる。
自分の身に一体何が起きたのか分からなかったクラリッサは、後ろに人がいたことにようやく気づいた。
眠らされた智香子をどうするかジェイミーに訪ねる男。
「何か使えるかもしれん」
クラリッサは叫んだ。しかし背中に受けた衝撃が強く、声がまともに出ない。
「や、め!チカ、コ、さ、ま!」
手を伸ばしても、魔法も使えない、治癒も使えない。命の恩人さえ救えない。
再び背中に衝撃が走る。痛みと情けなさに、涙が滲む。
「やめろ。今は治癒の力も魔法の力も封じられた、ただの人間だ。衝撃による気絶でなくとも魔法で簡単に眠る」
魔法で眠りにつかされる直前に見えたジェイミーの顔は、クラリッサが知っている彼とは違っていた。