第114話:カタールからの密偵
にこやかな笑みを浮かべる旅人風な人物の言葉に、一番早く反応したのはクラリッサだ。
部屋の奥へ逃げるように走り出した彼女。追いかけようとする男をベネッタと智香子が立ち塞がり止める。
「子供に用はないんだ。そこをどけ」
クラリッサに対する丁寧さはない。苛立ちを含んだ声と、こちらを見すらしない表情に明らかに見下されていることが分かる。一向に退こうとしない二人により苛立ったのか、男は手を前に伸ばした。
気づいたクラリッサは振り返り「やめてください!」と叫ぶ。
「その方たちは関係ないでしょう?!傷つけるようなことはしないでください!」
「関係ない?なぜです。この者たちは貴方様をここに閉じ込めて、そのようにみすぼらしい姿に変えた。十分な罪がある。罰せられるのは当然のことではありませんか」
「なにを、」
「本来のクラリッサ様を知っているのですよ?私には分かります。この者たちは、貴方様の美しさに目がくらむと同時に嫉妬をして、美しいお顔も、御髪も、奪ってしまったのでしょう?なんと惨いことをする。平民の癖に。調子に乗った下賤の者には罰を与えるべきです」
「…あなたは、何も知らないのですね…」
クラリッサの呟きが聞こえなかった男。なんと言ったのか尋ねようと一歩踏み出したところで、智香子達がいたことを思い出す。邪魔だと腕を振ろうとしたとき、後ろから強い力で押しつぶされ、気づけば地面にひれ伏していた。
何が起きたか理解できないでいる男をそのままに、男の背に前足を置いた大和は状況説明を求めた。ほんの少し体を動かそうと森の中を走っていただけで何かしらの事が起きているのだから、面白い。
「は、なっ、せ!お前たち、誰に、何をしているのか、わかっているのか!?」
いくら男が暴れ動いても大和の足はピクリともしない。力の差は歴然だ。
見える足から獣であることは分かるが、一体何が自分を抑え込んでいるのかが分からない。強い力に呼吸が上手くできず、咳き込む。しかし哀れに思われ力が弱まることはない。
どうすればここから抜け出せるのか、と考え始めた時、男の目に誰かの足が目に入る。
「貴様こそ、誰に口、聞いてる」
つま先で強制的に顔を上げられる。首が痛みに悲鳴をあげ、抗議しようと睨み付けた。今まで見えていなかった、赤色の瞳を見つけるまでは。
呆けた声が男の喉から漏れる。
赤色の瞳を持つ少女の隣に並ぶのは、同じ金の髪と青色の瞳を持つ少年だ。
「入国許可証は?」
「へ」
「ここは既にアドリオン国内だ。もちろん、入国許可、取ってきてるよな?」
そんなもの、持っていない。男はここがアドリオンであると知らないのだから。男が返事をしなくても、心を視なくても、答えは分かっていた。
「無断で国に入って来たばかりか、王族の領地に土足で入ってきて、お前呼び?お前、オレたちよりそんなに身分が上なのか?」
自分よりも遥かに身分の高い王族、しかも他国の人間に無礼を働いた。加えて無断入国。
「…地図は、当てにならない。魔法で探す方が、あまり失敗しない」
「地形確認魔法は生活魔法で、誰でも使えるだろ?…あ、そっか。領域とかは知識と座標合わせなきゃいけないのか。まだそこまで習ってないんだな。うーん、まぁ、学園の生徒なら、仕方ないか」
冷や汗が止まらない。自分の罪を考えれば、良くて家格の降格、悪くて処刑である。
地図ではここは森だったはずだ。自分の祖国であるカタールとアドリオンの国境。なのになぜ、アドリオンの王族がいるのか。
「でもな、森はアドリオンの領内だ。これは魔法と違って知らなかった、じゃすまされないぞ。隣接する国の貴族なら誰でも頭に入れておくべきことだ」
「そしてここは王族の領地内。たまに来る不届きな獣を狩るため、アタシたちはここにいる」
わざわざ他国からの侵入者を退けるために、王族自らが出向くと言うのか。まさかの事実に男は驚愕する。
「え、ここ領地内だったの?…でもファイア・ルドタウンがある城下町も王家管轄内でしょ?」
「そう。ちょっと離れてるけど、ルドタウンとこの森は繋がってる」
「木に登ったら街見えるぜ!」
今まで徒歩や馬車で行ったことのない智香子は記憶を探る。思い出してみれば、貴族街にあった神殿の屋根に登った時、遠くの方に森みたいなのが見えた気がしなくもない。あったかなかったか曖昧なほど離れているということだ。
「馬車で三日くらいだ」
「めっちゃ遠いじゃないの!」
ちょっとどころではない。逆によく森みたいなのが見えたなと思うが、それだけこの森は大きいということだろう。
わちゃわちゃし始めた智香子達に男は頭が追い付かない。第二皇女と第二皇子と一緒にいる少女が何者か分からないことも、彼をより混乱させた。クラリッサの声が聞こえて、自分にはまだ希望が残っていると目を輝かせた。男には、クラリッサの顔が青いことも、握り締められている手が震えていることも見えてはいない。
「…私は追放された身です。キニ―伯爵令息様、どうか、カタールへお戻りください」
「そんな!確かに貴方様は聖女殺害未遂で追放された。しかし心優しい貴方様が、殺人などと恐ろしいことを企てるはずがない!下賤な者が何か吹き込み、貴方様はただ利用されただけ。そうでしょう?私にだけは、どうか、正しいことをお教えくださいませんか?」
「ただしい、こと…」
「幼い頃よりともに育った仲ではありませんか。伯爵令息様など、他人行儀な態度もお辞めください。昔のように、互いに手を取り合いましょう。私は貴方様を信じたい!」
大和に背を踏まれ、地面にひれ伏しながらも、男の言葉は止まらない。にこやかな笑みを浮かべて述べられる言葉に嘘は一つもない。
「トリス、様…」
「はい、クラリッサ様。カタールへ帰りましょう。皆分かってくれます。殿下も、聖女様も」
殿下。聖女。
地に抑えつけられたクラリッサに向けられる、失望の瞳。信じていたのに、と呟かれた声に、何度も否定の言葉を叫んでも、彼は信じてくれなかった。俯くクラリッサの耳で、彼女は可愛らしい声で囁く。
――早くこの国を離れなければ、貴方の大切なものがどうなっても知らないわよ――
クラリッサは自分の血の気が引くのが分かった。
「お二人も幼い頃より貴方様とともにあった方々です。貴方様がどのような御方か、心根の優しさも、美しさも知っている。誠心誠意謝罪いたしましょう」
床に擦りつけ何度も謝罪した。
――あの子たちは関係ないわ!お願い!許して!傷つけないで!ごめんなさい、私が悪かったから!ごめんなさい!ごめんなさい!――
所々抜け落ちた髪の毛を、聖女となった彼女は引っ張り上げる。
――二度とこの地を踏まないなら、助けてあげるわ――
昨日のことのようにフラッシュバックしてクラリッサの脳裏に蘇る。
「私もともに頭を下げます。大丈夫。貴方様も知っているではありませんか。周囲の者たちからできそこないと言われた貴方様を、お二人は見捨てなかった。ずっとそばで、切磋琢磨した。お忘れではないでしょう?大丈夫です。きっと許していただけます。お二人はとてもお優しい方たちですから!」
やめて、と小さく呟いたクラリッサの声は、やはり男には届かない。男の目が、苦しい。言葉が、胸を締め付ける。クラリッサだって覚えている。暖かく優しい記憶を忘れてはいない。だからこそ、悲しく苦しいのだ。
「お優しい、ね」
小さな影が、男からクラリッサへ向けられていた視線を遮る。それだけで随分と気持ちが楽になった。
遮られた男は智香子に不審な目を向けようとして、唾を飲み込んだ。
智香子からとても睨み付けられていたからだ。それはもうガンを飛ばすヤンキーのよう。
「貴方がさっきから話している二人が優しいかどうかなんて私には分からないけど、貴方のことは分かるわよ。優しさからほど遠い人間だってことがね。だってそうでしょ?青ざめた顔で震える女性に気づきもせず、自分の考えを一方的に押し付けるだけの人間なんか、優しさの風上にも置けないクソ野郎だわ!」
大和!と智香子が名前を叫ぶ。後ろで声がして、それが背中を押さえつけている獣の名前だと分かった。
「こんなクソ野郎は、さっさとお暇してもらうべきよ」
赤と青の瞳を持つ美しい少年少女が、その口をにやりと歪ませた。
一体何をされるのか、と男が震える。
「大丈夫、素敵なとこへ案内するだけ」
大和がすぐさま行動に移そうとしたところで、カロラスがそういえば、と待ったをかける。
「なぁ。なんでカタールは、偽の聖女なんか作ったんだ?そんなことしたらどうなるか、知らないわけじゃないだろう?」
「に、偽?どういう…?」
「はぁ?聖女は最初から決まってるだろ?」
不思議そうな男の表情に、ベネッタもカロラスも首を傾げる。
「聖女様が最初から決まっている…?何を言って…。聖女試験を潜り抜け、神に選ばれたものだけが、聖女となるんだ。クラリッサ様は殺人という禁忌を犯し、聖女の資格を失ったから、聖女にはなれない。だから、最終試験まで残ったセイディ様が聖女になった。王もこれを認めている」
「はぁ?!カタール王も?!」
理解ができず黙る二人。問題は、男の言葉に嘘がないということだ。学生の身である男が裏事情を知らないのは別に構わないが、王が認めているというのはどういうことか。
「どうしたの?」
「うーん。聖女は、前聖女から力と名前の引継ぎをして、カタール王が認めると、その立場が確定するんだ。でも真の聖女を選ばないと呪いが発動するはずなんだけど…。カタールの王族並びに高位貴族はそれを知っているはずなんだけど…うーん」
ダミアンが考えていた通り、厄介な事が起きているらしい。
男がまたクラリッサに何か言おうとしたので、大和に希望の所へ飛ばしてもらう。
心を視た限り、これ以上男から真新しいことは得られないだろう。
「素敵な素敵な我が国の地下牢へ、ご案な~い」
大和の前足で軽く持ち上げられた男の静止の声は、中途半端な所で途切れて男共々消える。
一仕事終えた大和は撫でてもらうために智香子へ擦り寄った。