第110話:出会い
茂る森の中、ただ足を動かすことだけを考えて進む。
どれくらいの時間が経ったのだろう。その判断さえできない。
はぁっ……はぁっ……はぁっ……
呼吸は荒れて、息をするたびに喉が痛むけれど、呼吸をしなければ心臓が痛むから喉の痛みを何とか我慢する。
右側の頭が痛む。
――この裏切り者!貴様のせいで、我が家は恥を掻くことになったのだぞ!一体この責、どのように償うというのだ!――
髪の毛を毟られ流れた血は、もう止まっただろうか。
背中が痛む。
――汚らわしい!お前の中に同じ血が流れているというだけで、体がかゆくなる!お前の体から全ての血液を取り除き、私と同じものを全てなくしてしまいたい!――
踏まれた跡は、治っただろうか。ヒールにより折れた骨は、治っただろうか。
足元のくぼみに気づかずに倒れ込む。
もう全身が痛くて、熱くて、寒くて、苦しくて。
何度も繰り返す転倒を、何度も起き上がってはまた走り出す。
――見損ないましたぞ!次期聖女候補でありながら、人を殺めようとするなど!――
――なんという恥さらし。友とさえ呼びたくないわ!――
――君がまさかそのような非道なことを行っているとは、知らなかった――
――あんたには呪いをかけたわ。そのお綺麗な顔が、醜く歪む呪いを――
彼女の笑い声が、耳の奥でまだ響いている気がする。
――ねぇ、今、どんな気分?――
とても良い声だと思っていたから、残っているのだろうか。
懸命に足を動かす。
離れなければ。早く、離れなければ。
あの国から一刻でも早く離れないと、間に合わないと。
元居た場所からどれだけ離れたか分からない。
しかし体力が尽きて、倒れ込む。
「はなれ、ないと…もっと、もっと…」
地面の草を踏む音がする。
かすかに空いた眼で見上げた先で、光を背負った人物がこちらに歩いてくる。
「めがみ、さま…?」
意識はそこで途切れた。
反乱があった翌日。
智香子は朝には普通に目を覚まして体を動かしていた。
同じベッドに寝ていたベネッタとカロラスはまだ眠っているので、起こさないように気を付けながら外に出る。
ダミアンは仕事なのか家にはおらず、クリストフやアリシスも帰ってはいない。
この世界に来て一人の朝だ。
時間は早朝五時。
まだ庭の手入れをするには早い時間である。
少しずつ太陽が昇ってくるのを見ながら、なんとなしに歩き始める。
森は既に怖いものではなく、穏やかに迎え入れてくれる場所だと分かっているので、智香子はゆっくりと歩く。
いつもとは違う道を探索したくなり歩いていると、何かが違うことに気づく。
首を傾げて、ようやくその違和感の正体に気づいた。
「…人?!」
走って駆け付けた先にはボロボロになった女性が倒れていて、智香子が顔を覗き込んだ時には、意識はなかった。しかしまだ呼吸の音がする。
あまりの酷い有様に最悪の結果をつい考えてしまうが、一先ず自分の服の裾を千切って新しくできていた傷口を抑える。
ここから家までの経路は分かるが、長身のこの世界の住民なだけあり、女性も十分な背丈があった。
智香子では到底運べる大きさではない。
目の前の人がどんどん死に向かっていくことにどうしようもなく焦ってしまう。
どうしよう!と女性の傷を力強く抑えた智香子の耳に、風がかかる。
『我が運ぼう』
「大和!」
怪獣ビスウィト。
甘い匂いで敵をおびき寄せ、肉を一切れ食べるだけで長期間の満腹状態を得られる。
しかし魔力量が多く、魔法を使えるほどの知性ももつ彼らは、逆に命を刈り取られるとして恐怖の対象であった。
今は智香子との契約により、大和という名前を持つ。
智香子の背を超えるビスウィト、大和は、風魔法により女性を浮かせる。
震える手を押さえて、智香子は息を吐いた。
大丈夫。死ぬと決まったわけではない。
「助かったわ、ありがとう。さっさと帰るわよ。いいこと、その人に傷一本でも付けたら許さないんだからね!」
『もちろんだ』
智香子を背に乗せて、大和は走り出す。
「そういえばご飯もう食べた?」と聞けば、まだと返された。
だったら一緒に食べようと誘えば、返事こそ簡単なものだったが、後ろのしっぽは凄い勢いで揺れていた。
家に着いたときにはベネッタもカロラスも起きていて、状況を把握した彼らの動きは早かった。
すぐさまダミアンへ連絡を入れた後、ベネッタは救急セットを、カロラスは温かいお湯を作る。
智香子は女性を大和に任せて、二階の自分の部屋にある柔らかい毛布を取りに行く。
毛布の上に女性を寝かせ、清潔な布を湿らせて、傷口の汚れや血を落としていく。
ベネッタやカロラスがこういった処置に慣れているのは、彼ら自身が狩りをするからだ。
狩りをする際によく怪我をしては、自分たちで対処していたかららしい。
始めの頃は失敗ばかりで怪我も多かったと教えてくれた。
一度失敗して左手の指を五本中三本飛ばしたことがある、と笑って言ったカロラスには「笑い事じゃないでしょうが!」と説教をしたものだ。
「魔法で治すのは簡単。でも、複雑な怪我になると、綺麗に治らなかったり、形が可笑しいまま治ったりする」
「治すのが専門じゃない人は、汚れや血を落として、簡単な処置をした後に魔法を使う方が綺麗に治るし効率も良いんだ」
始めから魔法を使うことが頭になかった智香子は、二人は小さいのに物知りだなとしか思わなかった。
「治すの専門の人って、どんな人なの?」
処置を続ける二人の邪魔はしたくなくて、近くでおとなしく待つ大和に聞いてみる。
獣でも長く生きている大和の方が、智香子よりもこの世界のことに詳しいはずだ。
「治療専門の魔法を使う人間か。ふむ…最たる者は、聖女であろうな」
聖女。聖なる女性とは、まさしくな名前だ。
光に包まれた美しい人物が智香子の中で沸き上がる。
処置が終わったらしい。
しかしベネッタとカロラスが動きを止める。
どうしたの?と問えば、二人は不思議そうな顔をしていた。
「…怪我が、治らない」
「…元に、戻らない」
どういうことかと女性を見る。
先程と違うのは、泥や血が綺麗に取り除かれていることだ。
しかし本来であれば塞がっているはずの傷や、打撲による青あざなんかも消えないまま残っている。
首を傾げていると、女性の目が開かれた。
片方の目は潰れているため開かないが、開かれた右目はほんのり青みがかった、綺麗なスノーホワイト。
「ここは…」
周囲を見渡して、智香子と女性の視線が合う。
彼女は一度目を見開くと小さく呟いた。
「…女神…?」
喉も何かしらの害を受けているのか、酷くしわがれ声だ。
智香子が水を用意しようと動き出す前に、ベネッタとカロラスが前に出て一歩下がる。
その動きはまるで、女性を危険なものとしているような動きである。
「二人とも?一体どうしたの、」
「何者?」
「なぜここに来た?」
警戒を解かない二人に疑問は増すばかり。
しばらくぼんやりとしていた女性は、はっと何かに気づいて慌てて起き上がる。
しかし体の自由がきかないようで、上半身を起こした状態で頭を低く下げた。
「ご挨拶が、遅くなってしまい、大変申し訳、ありません…。名前を、名乗っても、よろしいで、しょうか…?」
カロラスに名前を促された女性は感謝を述べた。
「私は、コリンズ家が、次女、クラリッサ・コリンズ、と申します」
「クラリッサ・コリンズ?!」
驚く二人に智香子は驚く。
「な、なに?!なんなの?!」
「何って、有名人だよ!クラリッサ・コリンズ!この世代に一人しかいない、聖女の名前だ!」