第98話:契約
2025年1月12日 加筆しました!
戻ってきた智香子が一番初めに目にしたのは、柔らかそうな桃色の毛。
それが尻尾だと気づいたところで、持ち主である獣は軽く振り返った。
「戻ったか。幼き少女よ。」
なぜこちらにお尻を向けているのか、訪ねる必要はなかった。
智香子、正確にはその腕に抱えられて戻ってきたベネッタを見つけた貴族たちからの攻撃を塞いでくれていたのだ。
「”世界の乙女”が飲み込まれたのに戻ってきた…?」
「同化は前例にあったが、帰還は今までにないことだ…。奇跡だ…。彼女は、奇跡だ…!」
「やはり彼女こそ、女神の真の生まれ変わり!この国の王にふさわしい!」
「どけ!獣!”世界の乙女”を我らの元へ!」
向けられる魔法はとても穏やかな雰囲気には見えず、彼らが欲するベネッタを傷つけてしまいそうだ。
この世界にはきっと、傷を癒すような魔法とかがあるのだろう。
だからといって傷を作ることに抵抗をなくしてしまうのは、智香子は嫌だと思った。
目の前の獣は攻撃を受けていながら、まるで何も起きていないかのように朗らかに話す。
「無事で何よりだ。」
「いやこの状況でよくそんな話出来るわね!」
「何、我にとってはただ吹く風と同じ。何ら問題ではない。ときに少女よ、1つ頼みがあるのだが。」
吹く風と同じって、と呆れている智香子に獣は紫の目を向ける。
「我に名前をくれまいか。」
「………それこの状況でする話じゃないでしょ?!てか急なのよ!なんで名前?!」
カラカラと笑う獣の先では、今でも魔法が飛んできてはこちらにぶつかる寸前で何かに当たっては弾ける。
外から見たら結構綺麗だ。
「名を呼ばれているお主の家族が羨ましくなった。」
どういう理由よ、と思う。
これはあれか、ペットになりたいという遠回しな意思表示なのだろうか。
しかしペットを飼うとなると、やはり家主からの了承をもらうのが第一だ。レッドフィールド家にお世話になっている今、智香子の独断で決められる話ではない。
それに目の前の獣はシンプルにでかい。大きすぎる。
平均身長2メートルのこの世界では大型犬サイズなのかもしれないが、智香子的には自分の身長より大きい獣はまず恐怖を感じる。
今は割と平気だが、ペットとして飼うとなるとやはり必要なのは運動を兼ねた散歩。
いずれ人目に触れる場所に行く時が来た時、このサイズのペットはいささか子供たちに驚かれてしまうのではないだろうか。
いやでも大型犬サイズならいけるのか?と智香子は思ったが、やはり家主に話を通さなければ。
「んー…申し訳ないのだけど、今私の独断じゃとても決められないわ。命に関わることだもの。」
動物の方からペットにして欲しいと言われるのは中々貴重なことだ。
意思表示できるというのもお世話が大幅に楽になるだろうし、何よりこの大きさのモフモフは最高である。智香子としてはぜひ一緒に暮らして、一緒に日向ぼっこでもしたい。
獣は智香子の言葉を聞き、少し考えを巡らせる。
「…なるほど。」
納得してくれて良かったと智香子が安堵した瞬間、ひときわ強い光が向けられる。
貴族数名による複合魔法。
属性の違う魔法を組み合わせること自体難しいことだが、数名で役割分担を行うことで行使可能となった魔法である。
魔法の組み合わせである、というだけでなく、重要なのは属性が異なるという点だ。
異なることでぶつかったり吸収されたりした結果、威力は数倍に膨れ上がった。
単体ではそこまでであっても、複合として組み合わせれば桁外れとなる。
智香子は魔法の勉強にそこまで注力をしていないため、複合魔法のことは知らなかったが、その光の大きさから不味いことを察する。
それよりも早く動いたのは桃色の毛を持つ獣の方であった。
何か、固いガラスが割れた音がする。
ぽたっ
頬に湿った何かが落ちて、智香子は痛む頭をそのままになんとか目を開く。
ベネッタを抱きかかえたまま、仰向けに倒れていた。
桃色が目に入って、(あぁ、オオカミがあの凄そうな魔法から助けてくれたのね)程度に思っていた。
しかし再度落ちてきた何かを正しく理解した時。
「は、」
全身の血が引いていくのを感じた。
智香子たちを全身で覆い隠す獣。荒く繰り返される呼吸。
汗、などではない。
ぽた、ぽた、と尚落ち続けるそれは、赤く鉄の匂いがする。
「ぁ、あ、あぁ、い、いやっ…!なんで!」
彼の血ではないと思いたいのに、見える獣の腹や腕や足は所々抉れてしまっている。
痛みに顔をしかめる獣。
よく聞けばまだ攻撃の音は止んでいない。今も目の前の獣は智香子たちを守ろうと身を挺して守ってくれているのだ。
目が熱くなる。
泣いてはいけないのに。そう、家族と約束したのに。
智香子の思いとは反対に、涙は頬を伝った。
「やめて…!やめて…!もう、傷つかないで!私、こ、こんなことのために、あなたを連れてきたわけじゃないの…。あなたを傷つけたくて、連れてきたわけじゃ、ないの…。ぃやだ、だれも、死なないで…死なないで、欲しいだけなのに…。」
ペロリと温かいものが頬を伝う涙を舐める。
獣の舌に驚いた智香子だったが、まだ止まらない涙を拭うため、獣は舐め続ける。
一通り舐め終わると満足して顔を少し離すと、その紫の目で智香子を見た。
「安心するがよい、幼き少女よ。我はお主に連れてこられたわけではない。我の意思で、お主をここに連れてきたのだ。」
「っ、それは、ものは言いようってやつよ…。私があなたを連れてこなければ、あなたがこんなに傷つくことは、なかったはずだもの…。」
ふむ、と獣が頷いた直後、また彼の体に攻撃が加えられ、痛みに顔を歪めた。
もういい!と智香子は叫ぶが、獣は動こうとしない。
「お主、我を助けたいか。我の命を救いたいか。」
より近づけられた顔に、智香子は一切躊躇うことなく手を伸ばした。
「助けたいわ。救いたいわ。私に出来ることがあるのなら、何でもする。」
「それでこそ我が望んだ者よ。」
獣が歌う。それが呪文だと智香子は気づかない。
ただ心地よい声に身を任せる。
終わりに近づくと、獣は自分の血液を一滴、智香子の口に垂らす。
触れた次の瞬間に獣と智香子を同色の光が包み込む。
「幼き少女よ。お主の名前はなんと申す?」
自己紹介もまだだったことに驚く。
「智香子。」
良い名だとほほ笑んだ獣は、智香子と額を合わせた。
熱が流れ込んでくる。暖かくて、智香子は眠気を覚えた。
「チカコ。我を呼んでくれ。」
深く考えず、記憶の中にある友人の名前を呟く。
「……大和」
智香子が呼ぶと、二人を包み込んでいた光がグルグルと回り、光る鎖へと姿を変える。
二人に巻き付き、硬質な音を立てて砕け散った。
智香子と大和の心臓の上に不思議な模様の入れ墨を残して。
感じるのは僅かな熱のみ。
違和感を持ってもすぐに入れ墨は体に吸い込まれて消えた。
大和は自身に回復の魔法をかけ、半分眠った状態の智香子を起こす。
「チカコ。起きろ。」
「ん?……はっ!え、なんで私寝て…。いやそれより傷!は…あれ?」
目を覚ました智香子の目には、目を塞ぎたくなるような傷も、血も、どこにもない。
ふさふさの毛を機嫌良く揺らす獣がいるだけだ。
「お主が名前をくれたおかげで、傷が癒えた。感謝する。チカコ。」
何が起きたか理解できなかったが、一先ず獣が、大和が無事で良かった。
ぎゅっと抱き着けば、嬉しいと喉を鳴らす。
「さて、涙を拭え。」
魔法により体を持ち上げられる。
安堵にまた涙が流れたが、今までの分と一緒にぐいっと拭き取った。
「えぇ。もう、大丈夫。行くわよ!」
貴族たちは苛立ちを覚えていた。
一向に自分たちが攻撃を続けるビスウィトが倒れないからだ。
いくら恐れられているビスウィトだとしても、所詮ただの動物で食用だ。
高魔力を持つ貴族が多数で囲めば簡単に崩れるだろうと思っていた。
途中で複合魔法が通ったため、以降も複合魔法で攻撃を続けているのに、上手くいかない。
時折攻撃が当たるのに、それさえも操られているような感じがする。
ビスウィトが淡く光り始めた。
何が起きているのかと貴族が目を凝らす。
光が落ち着いていき気のせいだったのか?と首を傾げた貴族の視界が反転した。
何が起きたと分かる前に、その男は壁にのめり込んで気絶する。
貴族たちは震えた。
攻撃をぶつけようとも、もう目の前の甘獣には通らない。
紫の眼光に睨まれれば足がすくみ動けなくなる。
拘束の魔法を使われているのかと勘違いするほどに、彼らは恐怖でその場から動けない。
当たって抉れていたはずの傷も全て癒えている。
叶わないと諦めて膝をつくのに時間はかからなかった。
ビスウィトの背に乗るのは、“世界の乙女”であるベネッタ。
(あぁ、やはり、彼女こそが王にふさわしい。彼女こそが、真の女神…)
神へ祈るように手を合わせる前に、壁に飛ばされ気を失う。
ビスウィト―大和の背で、座るベネッタがぐらつく。慌てて後ろに座っていた智香子がまだ眠るベネッタを元の位置に戻した。
「あぶな!私とベネッタの身長差が逆であれとこれほど強く思ったことはないわ。ねぇ、これ魔法でどうにかできないのかしら?」
「ふむ、しばし待て。」
大和が前足を軽く振ると、光の粒子が智香子とベネッタをくっ付けた。
揺らがないことを確かめる。
大和は歩く道に固まる貴族たちを遠くへ飛ばしていく。
「気になってたんだけど、名前付けたら傷も治るってどういう仕組みなの?」
「ん?あぁー…名を呼ばれることで新しい存在として生まれ変わるのだ。脱皮とそう変わらない。」
「哺乳類が、脱皮かぁ…。まぁ異世界だしあり得ない話じゃないわね。」
脱皮なのね…と頷く智香子。
また一人貴族を壁にめり込ませた大和は呟く。
「我は気が短いからな。」
「ん?何か言った?」
「こやつらが身に着けている装飾が爪の間に入ってしまった。」
「それは気になるわね。取ってあげるわよ。」
「いやすでに取り除いてしまった。しかし人間の飾りとはなんとも面妖だな。」
「あらそう?私はキラキラしてて良いと思うわ。照明が少ないときにきっと使えるわよ、あれ。」
教会の外へ出た大和は地面を軽く蹴って宙に浮かび上がる。
行く先は言わずとも分かっているだろうが、大和は「どこへいく」と訪ねた。
「もちろん、家族の元へ。」
王宮の方へ飛んでいく智香子たちを、残された貴族たちは見上げる。
ビルイッタ・ディバルも同様である。
隣に並ぶディバル公爵長子である子息は、どんどんと離れていく彼らから父へと視線を移した。
「…ち、父上…?」
怪訝な声を出す息子の目には、らんらんと瞳を輝かせたディバル公爵の姿が。
「見つけた」
ディバル公爵には、隣の息子の姿も、周囲の貴族たちの姿も見えてはいない。
ただビスウィトである大和の背に跨る智香子の背中だけを見ていた。