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初対面は第一印象が肝心だ

作者: 湯納


「わ、えっろ……あっ。あ」


 硬直した僕の右手の中で、反してそれは柔らかくしぼんでいった。



 誰もいないはずだった。

 父さんはいつも通り朝早くに出勤していった。妹も同時刻に家を出ている。

 母さんは、まぁ聞き流していたからよく分からないがいつものママ友ランチというやつだろう。「洗濯物を2時に入れといてね」「午前中に宅急便来ると思うからよろしく」「6時までには帰る」というラインに残されたメッセージと過去の行動パターンからしても、まず間違いなく夕方遅くまでは帰ってこない事は確約されているようなものだ。

 朝食後に至福の二度寝としゃれ込み10時を過ぎた頃合、インターホンに起こされる怠惰な一日の始まり。

 "大学とは、人生の夏休みにして社会に出る前のモラトリアム期間である" とはよく言ったもので、かくいう大学生の僕も長い長い、夏休みと同じ長さの春休みを精一杯満喫していた。

 

 それはもう、忙しいほどに。

 サークルの合宿から帰ってきたのが3日前。来週からは地元の友達と旅行の予定もあるし、飲み会やらデートやらで手帳はぎっしりと埋まっている。空いてる日は大体バイトだ。あぁ、昨日はゼミの集まりがあって遅くまで飲んでいたな。そのせいか少し頭が痛い。


 だから、今日みたいな予定のない日は貴重だった。ゆっくりと羽を伸ばし英気を養う。それも、家には誰もいないという最高の条件の下。それは約束された完全なる自由の日。

 ともなれば。健全な男子たるもの、自家発電に勤しむのは道理ともいえる自然な行動だ。一体誰にケチをつけられよう?

 受け取った宅急便を玄関に無造作に置き捨て、お昼を食べ、食器を洗い、洗濯物を取り込む。


 いやまぁしかし、だ。先にやるべき事を済ませてしまおう。

 ゼミの課題が出ていたことを思い出し、悶々とした気持ちを自制心で抑え込んで自室へと向かう。

 早まる気持ちを理性で落ち着かせながらレポートをまとめ、学内掲示板から教授のページにファイルをアップロードし提出を完了させる。始めてから提出までの1時間、どうにも集中に欠け貧乏ゆすりをしていたが、終わらせてしまえばこっちのものだ。

 

 立ち塞がる障壁すべてをなぎ倒し、ようやく辿り着いたのは天使の舞う楽園。戦士の魂はようやくヴァルハラに辿り着いたのだ。お気に入り登録したサイトにカーソルを合わせ、クリック音を合図に真剣な次なる戦いが幕を開ける。

 画面をスクロールし、お気に入りの天使に巡り合うまで慎重に吟味する。じれったい時間ではあるが、ここで手を抜いては男は務まらない。「如何に良い探索が出来たか」というのはその後のパフォーマンスに繋がる重要なファクターなのだ。


 そうして詮索すること数十分。愛しの君をようやく広大な海の中から救い出す事に成功。

 高鳴る鼓動。沸き立つ血肉。膨れ上がる高揚感。ヘッドホンなんていらない、誰に聞かれる事もない。

 堂々と臨戦態勢に入る。この解放感たるや、中々味わえない最高の気分だ。


 人と肌を重ねるのもいいが、それはそれ。

 何に気を遣う事もなく全ての裁量を掌握した、自分だけの世界でリビドーの解放の勤しむというは至極の喜びの一つである事に違いない。


 足元にあらゆる命を吸い込む地獄への門を寄せ、命を包み込む天使の羽を近くに用意する。

 

 |幾度の絶望《This video has been deleted》があった。幾度の失望(タイトル詐欺)があった。

 しかし、最後にはここに辿り着いた。勝者は誇らしげに、満足げに、再生ボタンにいよいよ手を伸ばす。

 気を引き締めろ。本当の闘いはこれからだ。


 一世一代の宴が始まろうとした時。


 風が、吹いた気がした。


 ん……?


 50音の最後を飾る一文字と疑問符を、声に出したかは定かではない。

 極度に研ぎ澄まされた繊細な肉体感覚を有する状態でふと横を見ると、白い女が立っていた。


 湿り気を帯び不気味に長く垂れた髪で顔は隠れ表情は見えず、

  濡れてぴたりと張り付いた白いワンピースは女の肉体のラインを妖艶に浮かび上がらせ、

 全身は血の気の引いた病的な白さで生気を失っていて、

  均整の取れた豊満な二つの隆起と、やや外向きの先端部を隠す事もなく、

 俯いた状態でこちらを向いたその女はゆっくりと顔をあげギラつく口元を覗かせると、

  細い腰のくびれからボリュームのあるヒップへのゆるやかなラインが僕の目を離さない。

 右腕で僕の方を指して口を開いた。


「――」


「わ、えっろ……あっ。あ」


 突然の来訪者の知覚・認識した直後の反射的な驚愕と、

 溜め込んでいたピンク思考に染まった脳みそが正常に機能せず、分別付けずに並列で走った思想の片方がそのままストレートな形容詞となって吐き出された言葉と、

 並列した思考の真っ当な方が出した、ソレがいわゆる幽霊的なサムシングであるという結論を認識した衝撃と、

 自身の現在の状態を思い出し、思わず漏れた声。



 どう、しよう?

 テンパった脳はおよそ回線が混乱のあまりに機能しておらず、本来は恐怖で一色になったであろう想定に対して現状は恥ずかしさが半分を占めている。

 左手に至っては無意識にもぞもぞとパンツ及びズボンに手を掛けて引き上げようとしている始末だ。


 怖い。 誰? どっから来た? 襲われるのか? 呪われるのか?


 PCを閉じたい。 恥部を隠したい。 逃げたい。 穴があったら入りたい。


 この女が動かないのが逆に怖い。 いきなり猛スピードで走ってきたりでもしたら絶対気を失う。奇声あげられても気絶する。 とにかく怖い。


 胸でかい。 たぶん彼女より。 形綺麗。 色白で華奢な感じが割と好み。


 本当に怖い。 怖くて声が出ない。 エロい。 ぎゅっとしたら抱き心地良さそう。 


 家には誰もいない。 誰も助けてくれない。 ちびりそう。


 やばい。どうすればいい。

 脳内であらゆる情報と感情が渦巻きフリーズしている僕を横目に、何かを言いかけていた白い女はそのまま動きを止めている。


「あっ、の……!」


 上手く声は出せなかった。それでもなんとか力を振り絞り掠れた声をあげると、そいつの姿は一瞬の間に消えていた。



 それから、たっぷり1分は経っただろうか。

 ふぅ……。と長めのため息と共に、椅子にもたれかかると全身の緊張が解けた。だらしなく弛緩した肉体はイチモツのごとく、しばらくは立ち上がる事もできそうにない。


 夢のようだった。

 一瞬の出来事ではあったが、それこそ数秒の話だったが、地獄のような数秒は死ぬほど長く感じた。

 全身の血の気が冷めていく感覚と、恥ずかしさに耳から火が出そうなほど込み上げてくる熱量とが入り混じり、体中が違和感に覆われてむず痒かった事に今更になって気が付く。


 夢、ではない。

 女の立っていた場所は濡れており、長い髪が数本落ちている。

 今でもぞわっとする、脳裏に焼き付いた女の姿。何かを訴えかけるように伸びた腕。柔らかそうな双丘。……。


 いやいや、恐怖の方が大きいに決まっている。自分の部屋に、突然幽霊が出たのだから。

 すぐさまスマホを取り出し、誰かに話を聞いてもらおうとSNSアプリのアイコンをタッチしてから疑問が浮かんだ。


 一体、誰になんと話せばいいのだろう?

 「半日我慢してようやく自慰をしようとしたら空気の読めない幽霊が現れて、空気の読めない猿が恐怖と並行して発情しかけた」という話をか? 冗談じゃない。自分で言ってて自分の頭を疑ってしまいそうだ。

 前半部分を全てカットしてしまえば話せる内容にはなるけれど、それではあの艶めかしい女の姿をしっかり捉えていた事に引かれてしまうし、どうにも現実味がなくなる気がする。


「はぁ。」


 ため息をついて頭を振る。

 もういい。忘れよう。全て忘れよう。なかったことにしてしまえ。


 画面ではAV女優がこちらを誘うような挑発的な笑みを浮かべ淫猥なポージングのまま待機している。

 もはや気分じゃない。タブを閉じてパソコンを折りたたむ。ここは居心地が悪い。リビングに降りて、テレビでもつけて気を紛らわそう。

 いそいそと衣服を正常な位置までずり上げる。

 立ち上がり、部屋を出る際に女が現れた場所に目をやる。

 

 あの女は突然現れ、何を、言いかけたのだろう。

 不思議な事に、驚かされたのはこちらだというのに妙な罪悪感が残る。自分の一言で、台無しにしてしまった。幽霊といえども、下半身を露出した男に性的な目を向けられたら危険を感じるのだろうか。


 もう二度と現れてほしくない、幻覚の類であってほしいとは祈りつつも。

 

 また会う事があったら、一度謝ろうかな。なんて。

 そんな事を思った。

書きたいと思ったので書きました。後悔はありません。

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