page5
結局アロンは何をしにエイシェンの家まで来たのか。
談笑の末、漸く思い出したアロンが僅かに気まずそうに口を開いた。
「俺もすっかり失念してたんだがなぁ。ナズナお前ここにいる間はエイシェンと一緒でいいんか?」
「……ん?」
言われた意味が分らず間抜けに聞き返す。
「いや俺カリナンの事はよく知らねぇけど、やっぱ拙いんじゃねぇの? 結婚するわけでもねぇのに男と同衾っつーのは」
「ゲホッ!!」
呑み込みかけた唾が見事器官に入った。何度か咳き込み、落ち着いてからアロンを睨む。涙目になってしまったのはこの際置いておく。
「同衾って! 変な言い方しないで……」
「だってお前、この家で人が眠れるスペースなんざあの寝室くらいだろ? え、別々に寝てんの?」
「い、一緒に、だけど」
「へぇ、二日一緒に寝て何も無かったんだ?」
「ない! ない!」
「それはそれで男としては大問題だがな! おいエイシェンッ!!」
「きゃあああっ!!」
エイシェンも関係のある話題ではあったが、何となく彼には聞かれたくなくて反射的にナズナはアロンの口を塞いだ。
その方法が素直に手で口を塞いだという可愛らしいものではなく、アロンの持っていたカップをもぎ取って彼の頭に叩きつけるという乱暴極まりないものであったが。
その後、見事昏倒したアロンにパニックを起こしたをナズナをエイシェンが宥め、気を失ったままのアロンを引きずって彼が泊まっている所まで連れて行く羽目になった。
混乱したまま肌身離さず持ち歩いている薬ポーチから気付け薬を取り出してアロンの口にぶち込んだのは、さすが薬師の端くれというかいらぬお世話というか。
エイシェンが戻ってくるまで生きた心地がしなかった。
人を癒すのが仕事のはずのナズナが、真逆の傷つける行為をしてしまったのだ。自己嫌悪と後悔の念が渦巻く。
穴があったら埋まりたい衝動に駆られて、しかし穴なんてないので仕方なく台所のテーブルの下で膝を抱えて座り込んで反省しているとカチャリと玄関が開く音がして、足音が近づいてくる。
「ナズナ?」
ひょいとテーブルの下を覗きこまれて目が合う。
何故一直線でここに来た。一切の迷う素振りなどなかった。足が一度も止まることなくナズナの元へ来た。
入口からは死角になっているはずなのに。
悲しいやら彼の気配察知能力が怖いやらで、そっと目を逸らしながら差し出された手に掴まってテーブルから這い出た。
アロンに対する罪悪感たっぷりなナズナの頬を慰めるように一撫ですると、エイシェンは浴室を指した。
どうやらアロンとナズナが話している間にお風呂の準備をしていてくれたらしい。この家の主は実に出来た人だった。
ぽんと背中を押されて入って来るよう促されたが、ここはナズナも譲れない。家人を差し置いて先に入るなど、しかもエイシェンにはアロンを運ぶという重労働を強いてしまったばかりなのだ。
首を振って辞退してエイシェンの服を掴み、先に入ってと伝える。
するとエイシェンはそのナズナの手をしっかり握り込むと、浴室へ歩き出した。
「え」
脱衣所に二人で入ってしまい、どうするつもりなのだろうと立ち尽くしていると、エイシェンは自身の上着を脱いだ。
「ん?」
ナズナに振り返ると、これまでで一番といっていいほど爽やかにほほ笑んだ。
そして言った。「脱げ」と。
実際にナズナが彼の発した言葉を理解したわけではなかったが、目が物語っていた。
言った。絶対言ったよ脱げって! 本気の目だった!
慄いて一歩後ろに下がったナズナの服を掴んで笑みを深くする。
「エイシェン!?」
彼の手を払い落として自身の身体を掻き抱いた。
ついでにしゃがみ込んで、捕食される寸前の小動物のようにカタカタ震える。
そんな彼女の姿にエイシェンは思わず噴き出した。
エイシェンも屈んでナズナの柔らかな金茶の髪に手を差し込んで優しく梳く。
訝しげに見てくる彼女を安心させるために、それ以上不用意に近づかない。
ナズナが落ち着いたのを待ってエイシェンは立ち上がり、さっきとは違ういつもの穏やかさをもった笑みで何かを言って脱衣所から出て行った。
「なんだあれ……」
あの一連の行動の意味がさっぱり理解出来ない。ナズナの中でエイシェンが一瞬にして謎の人と化した。
完全にからかわれたのだという事くらいは分かったが。
まさかエイシェンがあんな風に意地悪く人で遊ぶとは思っていなくて虚を突かれた気分だった。
結局、まんまと先に風呂に入るよう促されたのだと気付いたのは、湯船に浸かってまったりしている時なのだった。
「エイシェン」
お風呂から上がるとエイシェンは台所のテーブルの上に剣やら弓を広げて、調整をしていた。
エイシェンの穏やかな人となりに慣れてしまうと、彼もまた父親と同じように武器を取る者なのだという事を忘れる。
だが彼は最初に森で遭遇した時もカリナンの里に現れた時もその手にはよく馴染んだ剣が握られていた。
実際にエイシェンが動物や人を斬っている所を見ていないが、きっと手慣れているのだろう。
よく触れる彼の手は武器を持つ人独特の固さがあるから。賊に襲われるカリナンにあっても怖じていなかった。
一番近くにあった剣に何気なく触れようと伸ばした手をエイシェンに掴まれた。触るなと言われた気がして反射的に「ごめん」と謝る。
戦いのさ中となれば武器は謂わば己の半身。他人に勝手に触られて良い気はしないだろう。
軽率だった自身を恥じた。
しゅんと項垂れるナズナにエイシェンは苦笑し、先に寝てていいよと言うように寝室に目をやった。
ナズナも怒られた手前それでもここに居るのは気まずかったのでそそくさと寝室に逃げる。
だが、入った寝室で突然アロンとのやり取りを、全くいらぬのに思い出してしまった。
『二日一緒に寝て何もなかったんだ?』
あってたまるかと思う。心底思う。けれどそれはつまり、アロンの言わんとしている事を察するならば、エイシェンは全くナズナを女として意識していないという事なのだろう。
その事実に少なからずショックを受けている自分はなんなのだろうか。
ナズナとてアロンに指摘されるまで一切エイシェンが隣で寝ている事を何とも思っていなかったのだけれど、彼女の中でそれは見事に意識の外に放りだされている。
どころか、「そうかエイシェンって男か!」などと有り得ない程今更なところをさも大発見のように気付いてみる始末だ。
だってこの二日間は目まぐるしくナズナを囲う状況が変化してそれどころじゃなかったし、と誰にでもなく弁解してみたりするが虚しい。
別に彼が女だと思っていたわけではもちろんないが、男だ女だと意識する心の余裕がナズナにはなかったのだ。
そうだ。考える事はもっと他にある。里の皆の事、母親の事。色ボケてる場合じゃないのだ。
こんな日向のような暖かな場所で浸っている時間はない。許されない。耳にこびりついている悲鳴は、今でもまざまざと思い出せる。
明日アロンにいつ出発か聞いてみようか。それかエイシェンにもう一度頼み込んでみるか。
「ナズナ」
お風呂から上がったエイシェンが寝室に入って来る。ベッドの上で行儀よく座ってじっとしているナズナを訝しげに見やった。
ぎしりと音を立ててエイシェンもベッドに乗る。ナズナ、ともう一度呼んで俯いていた彼女の顔を両手で包み上向けた。
温かい手が頬に触れてびくりと肩が跳ねた。ゆっくりとエイシェンと合わせた不思議な夕焼け色の瞳は不安気に揺れている。
どうしたのと問う為に見詰めれば、目を逸らそうとするから、させまいと額がくっつきそうなくらい顔を近づけた。
「えい、しぇん」
困惑を伝える一言にようやっとエイシェンはナズナを解放する。それでも顔を離しただけで手はナズナに触れたままだ。これでは顔に熱が集中しているのも丸分りで恥ずかしい。
何を考えてエイシェンがこんな風に触れてくるのか全く分からないからナズナは振り回されてばかりだ。
なにを思ってる? 例えば甘やかすように髪を撫でる時とか、穏やかにほほ笑んでいる時とか。
エイシェンは優しい。けれどその優しさは何処からくるものなのか。
親も帰る場所も奪われた可哀そうな女の子に対する同情から?
もしくは、義務感かもしれない。
「エイシェン」
そんなものはいらない。ナズナにはもう十分だった。この三日間で十分に良くしてくれた。これ以上はいらない。返せなくなってしまうから。
エイシェンの手に擦り寄るように頬を押し付ける。彼はくすぐったそうに笑った。
ナズナもつられて笑顔になると頷かれた。安心したように。
サイドテーブルに置かれていた灯りを消したエイシェンは布団をナズナに掛けて寝る様に促した。自身もその中に滑り込む。
二人が並んで寝ころんでも狭さを感じない寝台にすっぽりと埋まる。
この部屋に入ってきてすぐにチラリと感じた不安は既に霧散していた。
エイシェンはスキンシップは過多だが、決してナズナが不快に思うような触れ方はしない。
こちらが戸惑ったと感じるや否やすぐに距離を取る。ナズナが不安を感じた時は安心させるように触れてくる。
何もないよ、アロン。
変な勘繰りをした中年の男に心の中で反論してみた。一緒に暮らそうと何もあるはずがない。
だってナズナが望まないから。ナズナが嫌がる事をエイシェンは絶対にしないとそれは胸を張って言えた。
主人公が真面目なせいで簡単に流されてくれない・・・誤算でした