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アロンにいつ山を下りるのかと問えば「あー、まぁそのうち」という何とも曖昧な返答しか得られなかった。
隠れ里とはいえ、カリナンが賊に襲われて壊滅するなどという惨事が起こったばかりで、今きっと下界は騒然としているだろうから、その騒ぎが収まるまでは様子をみるつもりらしい。
ナズナとしてはすぐにでも戻りたかったが、不慣れな者が単独で下山出来るほど生易しい山麓ではない。
エイシェンにそれとなく下りたいというような事をジェスチャー付で伝えてみたところ、ものの見事に却下された。
何かを昏々と言い聞かせられたのだが、無論ナズナが理解出来るはずもなく。隣で聞いていたアロンが大笑いするだけに終わる。
アロン曰く「要約すっと、ナズナにここに居て欲しいってこった」という事だが、絶対に違うと思う。
いや多分、危ないからここに居ろという意味合いはあったのだろうが。
こんな風にアロンを中継しないと会話が成立しないエイシェンとナズナだったが、不思議と二人きりでもそれなりに意志疎通が量れていたりする。
何を思っているのか、何をしたいのかを身振り手振りで説明して、相手にそれが伝わった時は嬉しいしゲームのようで楽しい。
特に何もしないでもお互いの希望が察せられる事も少なくなかった。
要するに、この不慣れなはずの集落での暮らしは、存外に居心地がいいのだ。
一重にエイシェンのおかげであろうから本当に頭が上がらない。
「ナズナ」
そして何より、彼に名を呼ばれるのが好きだった。少し低めの落ち着いた声はいつも真っ直ぐナズナに届く。
夕食を済ませて食器を洗っていたナズナは、その手を止めて振り返った。
里とこの集落とでは調理器具も、食材も全然違っていて彼女では料理はしづらいから、料理の担当はエイシェン。その代わり片付けや掃除に洗濯はナズナがやらせてもらっている。
台所の入口に立っていたエイシェンは、玄関を指差していた。出掛けるという事だろう。
コクリと頷いて片付けの続きをしようとすると、何故かエイシェンは台所に入って来てナズナの隣に立った。
「?」
エイシェンはナズナの手を掴むとタオルで丁寧に水を拭き、そのまま引っ張った。
「え、え?」
腕を引かれたまま玄関から外に出た。
実はナズナがこの集落に来て三日。家の外に出るのは初めてだ。洗濯物を干す為に庭にくらいは出たが敷地の外へは行ったことが無い。
門をくぐると、等間隔で同じような造りの家が何軒か続いていた。
集落は思っていたよりも大きい村のようだ。
誰かの家に用事があるのかと思ったが、エイシェンは村の外れにある小高い丘に続く階段を上がり始めた。
もともと標高の高い位置にある村落の更に少し上。
「わ、あ……」
連峰が見渡せるようになっているそこからの景色は壮大なものだった。
いつも森の木々の合間から見上げていた山々を、今は同じ高さから見詰めている。
半分姿を隠そうとしている夕陽の輝きが茜色を周囲にまき散らして痛い程だ。
「すごい!」
心に浸透してくる感嘆を凝縮するとこの一言になった。なんて重みの無いと自分で思わないでもなかったが、言葉を尽くしたところでエイシェンには分らないのだからいいだろう。
エイシェンを見ると彼もナズナを見ていて、目が合うと穏やかに細められた。
彼のよくするこの表情が好きだと思った。
瑠璃色に夕陽が差し込んで不思議な色合いになった髪と瞳がとても綺麗だ。
暫く見惚れていたが我に返ったナズナは慌てて連れてきてくれた事にお礼を言った。
意味は通じたらしく、笑ってエイシェンは優しくナズナの髪を撫でる。
「エイシェン?」
彼の名が呼ばれたのはその時だった。階段を上がってきた若い二人が目を丸くしながら近づいてきた。
年のころはエイシェンと同じくらいだろうか。一人は青年で、もう一人は女性だった。
友達なんだろう。話し出したエイシェンに、そっと後ろに下がってもう一度景色を眺める。
すると、くいと服の袖を引っ張られた。驚いて横を見上げると、じっと女性がナズナを見ていた。猫のようなくりくりとした目で。
何だろう? 背の高い彼女を見上げながら首を捻ると、更に目を大きく見開いて「きゃぁ!」と叫んだ。
「!?」
予想外すぎるその反応に固まってしまったナズナをがばりと抱きしめ、なおも何か大きな声で叫んでいる。
何がどうなっているのか、あたふたするしか出来ない。
「ナズナ!」
窒息する寸前でやっと女性から引き離された。気遣わしげにエイシェンがナズナを覗き込む。大丈夫かと問われている気がして、こくこくと頷いた。
突然の奇行にびっくりしただけだ。
女性の方はもう一人の青年に取り押さえられていたが、未だに何か言いながらもがいている。
悪意らしきものは感じなかったが、一体なんなのか。
”イッピ”と連呼していたような気もするけれど、それが何かナズナには分らない。
呆然とするナズナを安心させるようにエイシェンは彼女の肩を抱く。
漸く落ち着きを取り戻した女性の名はヤナ、ヤナを押さえこむのに苦労していた青年はラデクというらしい。
エイシェンがナズナを紹介した時点で、またヤナが動こうとしたのをラデクが先回りして制する。
だがそのラデクも近づいてきたかと思うと、ナズナからすると無駄に大きい体躯を屈めて顔を覗き込んできた。それはもう無遠慮ににやにやと笑いながら。
それもすぐにエイシェンが彼の顔を鷲掴みにして遠ざけた事で終わったが。
ぶふ、と間抜けな声をだしたラデクの足を後ろからヤナが蹴った。
そのまま言い合いを始めた二人を、またぼけっと見つめる。
隣で溜め息を吐いているエイシェンに、あれは何なのと視線で問えば苦笑いが返ってきただけだった。
その微妙な反応にそれ以上訊くのはやめた。
「ナズナ、ナズナ」
いつの間にかラデクとの言い争いを終えていたらしいヤナが駆け寄ってくる。その手には可愛らしい花が握られていた。
くれるのだろうかと手を出しかけたのだけれど、彼女はその花をズボッとナズナの耳に掛けた。
ヤナは満足気に頷く。
何故、と思わなくもなかったが彼女なりの心遣いだろうとお礼を言う。
やはり言葉が通じないからヤナは猫のように丸い目をぱちぱちと瞬いてから、ニカッと笑った。
気持ちのいい人だな、と思った。突飛だけれど表情も行動もとても素直だ。
そんなヤナを見ていると自然と笑みがこぼれた。
「イッピ!」
するとどうしてかまた抱き着かれたのは、本当に解せないけれど。
エイシェンがすかさず離してくれて、そのままナズナを引きずるようにして階段を降りはじめる。
大袈裟に手を振るヤナとラデクにナズナも振り返したが、エイシェンは前だけを向いてさくさく進んで行く。
もうとっくに日は沈んで辺りは暗くなっている。見上げた空はナズナが知っているよりもよっぽど近い位置に星が輝いていた。
「エイシェン」
呼べば彼は立ち止まって振り返る。天を指差すとナズナの言わんとしている事を察したらしく笑顔で頷いた。
いつも見ていたもの、身近に思っていたものが、この集落ではひどく新鮮に感じる。
山も空も、冷たく澄んだ空気さえ。
家の玄関を開けた時エイシェンが一瞬手を止めて眉間に皺を寄せた。
珍しいその表情にナズナは首を捻ったが、すぐにその理由は知れた。
「おう、エイシェン、ナズナ!」
台所に我が物顔でアロンがお茶を飲んでいたからだ。カリナンもそうだが、この村には鍵を掛けるという習慣は無い。
取り立てて貧富の差がなく基本的に自給自足で生活しており、更に全体の結束の固いおかげで誰かに物を盗られるというような危機感がまるでないのだ。
たまに商売に来る行商人も信頼のおけるごく限られた人間だけに絞られているから、そこもあまり心配していないようだ。
だが、留守中に勝手に人の家に上がり込むのはやはりいただけない。
呆れたようにエイシェンがアロンに何か文句を言っている。だがその身体だけでなく神経も図太いのか全く堪えた様子はなかった。
「ああナズナ心配するな、ちゃんと洗いっぱなしになってた食器は片しといたからな」
「そんな心配してなかったよ……」
がはは! と笑うアロンに何を言っても無駄だと思ったのかエイシェンももう諦めの境地だ。
「それにしてもお前、可愛らしいもんつけとるな」
花をつけたままだったことをすっかり忘れていた。頭からそれを抜き取ると、紫紺の一輪の大きな花だった。
「これはヤナって人にもらったの」
「ヤナか。なんだてっきりその色だしエイシェンかと思った」
なんでこの色ならエイシェンなの、と問いかけて気付いた。どことなくエイシェンの色と花の色が似ている。
これをエイシェンにもらったのだとしたら……少し考えて何となく恥ずかしくなった。
コップに水を入れて花を挿すナズナの頬が僅かに赤くなっているのを目ざとく気付いたエイシェンが不思議そうに撫でてくる。
「い、今はやめて……!」
「あはははっ!」
ぎこちなくエイシェンから離れたナズナにアロンが笑う。
「もう! ……あ、そうだ。ねぇアロンさん。イッピってなに?」
「イッピ? そりゃウサギの事だな」
「うさぎ」
ヤナがやたらと連呼していた単語の意味が知りたくて聞いてみたのだけれど、返ってきた答えはピンとくるものではなかった。
首を傾げるナズナの隣でエイシェンが可笑しそうに肩を震わせていた。
イッピと聞いて、何となくナズナとアロンのやり取りが何であるか分かったのだろう。
そして彼は何故ヤナがイッピと言っていたかも知っているようだ。
なんで笑ってるの? と顔を覗き込んでも尚笑いながら頭を撫でられただけ。
全く納得がいかなかった。