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それから、思考を止めてしまったどのくらいの時間が経ったのかは分らない。
「ナズナ!」
ここ最近ずっと聞いていた心地の良い低い声が耳に入って来て漸く、ナズナは顔を上げた。
けれどその目は泳ぎ、身体は小さく震えて、正気であるとは思えなかった。
駆け寄ったエイシェンは心配そうにナズナの顔を覗き込んだ。呆然自失といった状態のナズナのその様子を見ていられなくて、そっと包み込むようにして抱きしめた。
ナズナは力なく彼に身を任せている。
レンリは二人を無表情に見つめながら続けた。
「酷かったよ。逃げ場のない所を後ろから襲われて父は皆の前で首を落とされた。命からがら逃げてきたわたし達がこの村に辿り着いた時には、もうこの有様だ」
今にも泣き出しそうなのはナズナだけではない。一緒に行動していた里の男性陣が目の前で殺されたレンリもまた同じように顔を歪めていた。
気丈に振舞っていても、まだ十代の少女なのだ。
「生き残った皆センランの村にいる」
他にも生き残った里人がちゃんと居る。その事実をレンリから聞けてナズナは漸く息を吐いた。
この数か月間ずっと思っていた。
きっと逃げ延びた人はナズナ以外にもいる。ちゃんと無事でいる。そう思う反面、あれだけ酷く賊に襲われて、逃げ切れた者がいるのだろうかとも思った。
あの時里にいたのは非戦闘員である女子どもと老人だけだったのだ。そんな不安を抱え続けていた。
「ナズナ姉も行こう。ヴァンとトクも残るから大丈夫だよ」
そっと差し伸べられた決して大きくないレンリの手を凝視した。
里の生き残りの皆の所へ行く。カリナンの里にはいられなくても、皆で寄り添っていけるなら、それは願ってもない事だ。
なのにその手をすぐに取る事が出来なかった。
ナズナの肩を抱いているエイシェンを振り仰ぐ。すると彼は僅かに表情を曇らせたが、すぐに柔らかく笑んだ。
その笑みにナズナは息を呑む。
「エイシェン」
彼はゆっくりとナズナを離した。
戸惑いを見せる彼女の背中を押す。
ずっとナズナが言い続けていた事だ。里に帰りたい。
喚いてエイシェンを困らせてまでここへ戻ってきたのだ。カリナンの者として生きる為に。なのにどうしてここに来て迷うのか。
エイシェンに背を押されて傷つく勝手さに自分で嫌気がさす。その思いを払う為に頭を振った。
「……レンリは? センランに行かないの?」
「わたしは帝都に行く。軍人だろうが何だろうが、一人残らず殺す。里の誇りにかけて」
それは、里の人間ならば誰もが考える復讐。ナズナも一度ならず誓った思いだ。
一族が受けた屈辱は残った者が晴らす。そう幼い頃から当然のように叩き込まれた教え。
「一人で、なんて言わないわよね?」
残された者全ての悲願だ。
だけどレンリの言葉に引っ掛かりを感じたナズナは恐る恐る尋ねた。
「生き残ったのは戦えない女子どもばかり。彼女達を守る為にヴァンとトクは置いていく」
「そんな……駄目よ、私が一緒に」
一歩、ナズナがレンリに近づくのと同時に、レンリは腰に提げていた鞘から刀を抜き取った。
背筋が凍る。目を見開いて目の前の少女を見つめる。
自分よりも年下のレンリは、何の感情も映し出さない、彼女が突き付けている刀のように鋭利な瞳でただ一点を刺していた。
刃の切っ先が向いているのはナズナではない。その少し後ろにいたエイシェンだ。
「この男を殺すよ。ナズナ姉」
「どうして」
「何者かは知らないけど、この里の事を知られたからには殺す」
「レンリ!」
淡々と言ってのけたレンリは、今にも本当に斬りかかりそうで。そう思ったらナズナの身体は勝手に動いていた。
エイシェンを押し退けて、彼の前に滑り込んだ。レンリの刀の刀身がすぐ目の前に迫る。
「ナズナ!」
「ナズナ姉……」
焦ったエイシェンの声なんて気にしていられなかった。
「彼は賊から私を助けてくれた人よ。山岳部族だから私達の会話の内容は分かってないし……エイシェンを傷つけるのはやめて」
「ふぅん、絆されたんだ?」
冷ややかなレンリの声に、思わずナズナの視線も鋭くなる。
「助けたって、山岳部族が何故ここを知っていたの。たまたま賊が襲撃してきたのと同時に、この隠れ里に現れたなんておかしい。わたし達の言葉が分らないふりをしているだけじゃないの? ナズナ姉を騙して良いようにしようとしているかもしれない。だってナズナ姉は」
「違う!!」
ナズナは大声でレンリの言葉を遮った。
一度は、いや何度もナズナだって疑問に思った事だ。
どうしてカリナンの里の場所が知れたのか。賊と何か関わりがあるのではないか。
ナズナに隠し事があるのか、騙そうとしているのか……
疑い出せばきりがない。
だけどエイシェンの村で一緒に暮らした数か月間の彼に偽りは無かった。それは自信を持って言える。
彼の優しさも思いやりも、ナズナに傾けてくれた心も、必死になって引き止めようとした焦燥も。あれが嘘だなんて有り得ない。
「ナズナ」
腕を強い力で引かれ、あっという間にエイシェンの後ろに隠された。
エイシェンの背しか見えないナズナには、彼が今どんな表情を浮かべているかは見えない。
だが相対しているレンリの剣呑とした様子から、エイシェンもまた同じように険しく少女を見返しているのだろうと分かる。
「――――」
聞いた事もない低い声だった。何を言ったのかはナズナにも分らない。
けれどエイシェンが友好的にレンリと会話をしようとはしていないのは明らかだ。
いつも穏やかだった青年が、静かな怒りを湛えているのはナズナの為だと思うのは間違っているのか。
暫く言葉もなくレンリとエイシェンは睨み合っていたのだが、先に視線を逸らしたのはレンリだった。
ぐるりと周囲を見渡してから刀を鞘にしまった。
「ナズナ姉。里が襲われてから、何回ここに戻ってきた?」
「え? 今日が初めてだけど……」
いきなり何の話かと首を捻る。
怪訝な顔をするナズナにエイシェンも少女二人を見比べながら静観する事にした。
相手が刀を収めて話し合いをする気になったのなら、エイシェンとて事を荒立てたくはない。
何せ、歳に似合わぬ威圧感のある少女は、ナズナの馴染の子なのだ。
「この辺では見ない花だね。もっと高い所に咲いてるやつかな」
ナズナ達から視線を外したままのレンリがぽつりと呟く。
つられて二人もレンリが見ている先へと目を移した。
ナズナの家があった場所のすぐ傍で、土が僅かに盛り上がっており、何種類かの花が添えられていた。
思わず息を呑む。
ヤナにもらった花、エイシェンに渡した白い花。ナズナの髪に差した瑠璃色の花。
この数か月、良く目にしたものばかりだった。
今もエイシェンの家に帰れば、寝室の花びんに活けられている花だ。
確かにエイシェンの村の近くでは良く見かけたが、この里付近では見慣れぬものが多い。
それに、一度焼かれた土地で、こんなにも鮮やかで見事な花は咲かない。
だからこの花々が何処から来たのかなど考えるまでもないことで。
ナズナは振り返ってエイシェンを見た。
彼は、母の亡骸を弔い花を手向けてくれていたのだ。ナズナの泣き出しそうな瞳に苦笑し、そっとその目元を指で拭った。
「一族の誇りにかけて、敵討ちは果たさなくちゃいけない。だけど、悲願を叶えた後帰る場所が無いのは嫌だな。里が焼けて朽ちたままなのは辛い。だから、ねぇナズナ姉。わたしが全てを終えて帰って来た時にここが花でいっぱいの場所になるようにしてもらえないかな」
目を丸くするナズナに、レンリはふと柔らかく微笑んだ。
「適材適所だよ。戦うしか出来ないわたしは必ず里をこんな風にした奴らを探し出して仇を討つ。戦えないナズナ姉はここを、元の綺麗な場所にする」
あくまでも一人で旅立とうとするレンリに一抹の不安を覚え、ナズナは一歩踏み出そうとした。
けれど彼女は静かに首を振って止める。無理をしているわけではないと言うように。
「勿論、ナズナ姉だけじゃなくてセンランにいる皆にも手伝ってもらってね。残った皆で出来る事をしていこうよ」
レンリの方からナズナに歩み寄り、そっとその手を握った。
不安げに瞳を揺らすナズナに苦笑を零す。そして隣に佇む背の高い青年を仰ぎ見た。
カリナンの里の人とは違い、彫りの深い顔立ちのエイシェン。彼については分らない事だらけでどこまで信用していいのか計りかねている。
けれど一つだけ。ナズナへ向ける直向きな感情だけは、信じられると思った。
ぎゅっと握り返された手に、青年からナズナに視線を戻すと、彼女はまだ沈んだ顔のままレンリを見返していた。
「分かった。私もセンランに残る。皆と一緒に」
「それでいいの?」
「え?」
レンリが残れと言ったのに、問い返されてナズナは戸惑った。
「別にナズナ姉がいいなら良いけど。山の上からでも、ここに来られる道はあるんでしょ? だったら別にこのお兄さんの所に残る、でも問題ないと思うよ」
急にナズナとレンリに同時に振り返られて、エイシェンはきょとんとした。
彼には少女達が一体どんな話をしているのか理解出来ない。今ほどナズナの言葉が分らない事が不自由だと思った事は無かった。
何となく、ナズナとは意志疎通が量れていたからだ。だがこうして彼女が普通に会話をしているのを見ると少し悔しい。
さっきからナズナが泣きそうになったり、暗い表情を浮かべていても何も言ってやれない。
それから、二言三言と話して、ナズナとレンリはお互い抱き合った。別れを惜しむ抱擁だった。
エイシェンには彼女達がどう話をまとめたのかは分らないが、どうやらこの二人はこれから行動を別つらしい。
なら、ナズナはどうなるのだろう。何処へ行ってしまうのだろう。
彼女を里の者の所へ帰す為に連れて来たのに、今更になって未練がエイシェンの心を蝕む。
帰したくない。離したくない。一人で、ナズナの居なくなってしまったあの家に帰るのかと考えると心が虚しくなる。
「エイシェン」
ナズナに呼ばれるのももう最後になるのだろうか。
一年ぶりって…
忘れていたわけでは、あったりするんですけど、いやでも一年ぶりって…