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しんと静まり返った寝室でナズナはベッドに寝転がったまま傍に飾られている花を眺めていた。
エイシェンと集落の外に出る度に摘んでは取り替えている。
背中に感じるエイシェンの気配を探る。もう寝ただろうか。それともまだ起きているのだろうか。
分らないが、ナズナはもう待てなかった。そっとベッドから抜け出した。
こっそり用意していた服に着替えて、エイシェンが狩猟用の武器を置いている小部屋に向かった。
弓や剣やナズナにはよく分からない武具がごちゃごちゃと置かれている。父親も同じように装備品を小屋に置いていたのを思い出した。小さい頃に勝手に入って怒られたのをよく覚えている。
だから中に入るのに少し躊躇いがあったが、丸腰で出ていくわけにはいかない。
夜の森は危険だ。夜行性の動物が襲って来る可能性が高い。
ナズナはどうやってでも里に戻ると決めていた。きっとどこかに安全に下山出来る抜け道があるに違いないのだ。それを探し出さなければ。
ナズナにも扱えそうな武器をさがしていると、小さな台の上に見覚えのある小刀を見つけた。
「これ、なんで……」
覚えがあって当然だ。これはナズナの持ち物だった。里が襲われた日に手に取った父親の小刀。
どうして、こんな所に置いてあるのか。
詳しく聞いたわけではなかったが、エイシェンがナズナを連れて脱出する際に母親は刃物を持っていたらしい事をアロンが言っていた。だからこの小刀の事だと思っていたのに。
きっと母親は自害を選んだだろう。カリナンの里の者ならばそうする。
辱めを受けるくらいならとそういう教育を叩き込まれているからだ。
そして、死するならば愛した夫の刀で逝くだろうと。
手に取ると刀はボロボロの状態だった。丁寧に拭われているが、焼けたような灰の匂いがこびりついている。
ぎゅっと握りしめたのとほぼ同時に「ナズナ」と名を呼ばれた。
跳び上がりそうなくらい驚いて振り返ると、小部屋の入口にエイシェンが立っていた。
「エイシェン……」
「ナズナ」
大股で近づいてきた彼がどうしてか怖くて後ずさる。だがそれも許さないと言いたげに腕を取られた。
「どこに行くの? それをどうするの?」
ナズナにも聞き取れるようにとゆっくりとした口調ではあるけれど、普段のエイシェンの柔らかさは何処にもなく焦りが滲み出ているようだった。
「帰るの。里に帰らなきゃ、私は」
「ナズナ、ダメだ」
ナズナは東国の言葉で喋ったからエイシェンには通じてはいなかっただろう。だがエイシェンも質問をする前からナズナの答えなど分かっていたらしく、首を横に振る。
「どうして、どうしてそれをエイシェンが決めるの!? 私が、私の里に帰りたいの! エイシェンに止められる筋合いなんてない……そもそも私は逃げたくなんてなかったのよ、勝手にあなたが連れてきただけじゃない!」
あの日、里が襲われた日、あの時に死んでたって良かった。母親が死んだと聞かされて、遠く離れた地でこんな思いをして日々を過ごすくらいなら、あの日に母親と一緒に死んでいれば良かったのだ。
「そういえばエイシェン……、私が賊を刺そうとした時邪魔したよね? あれはどうして? もしかして賊と何か関わってるの? あいつらの事何か知ってるの!? ……何でこの刀をあなたが持ってるの……!?」
一度崩れた心は、もはや自身でも戻す事は困難だった。
目の前にいる男が今まで自分に向けていたもの全てが偽りに見えて仕方がない。
そんなはずはない、エイシェンが賊と繋がっているわけがないと心のどこかで否定する自分も確かに居る。ずっとこの集落で一緒に暮らして怪しい行動など一つもなかった。向けてくれた優しさが偽りだったなんて、信じたくない。
でも、だったら何故。混乱がナズナの猜疑心に拍車をかける。
「ナズナ……!?」
エイシェンの手を無理やり振りほどいて小刀を鞘から取り出した。
それをエイシェンに突きつける。
研ぎ直されているようだが、刃は黒く変色して切れ味はもうあまり期待できそうもない。
「もう、お願いだから放っておいて……、私を行かせて!!」
何でそんな傷ついた顔をするの?
どうして退いてくれないの?
私はただのお荷物の居候じゃない。居なくなったってエイシェンは困らないでしょう?
どんな理由があろうとも、この数か月もの間エイシェンが甲斐甲斐しく世話をしてくれた事実は変わらない。
そしてナズナは、その情にもうとっくに絆されてしまっている。
刀を握る手が震える。エイシェンに刃を向けている事に、心が抉られるように痛む。
どんなに歯を食いしばっても堪え切れずに涙が零れ落ちた。
「ナズナ」
瞬きをして瞳に溜まった涙を振るい落とすと、エイシェンが目の前にいた。
驚いて後ろに下がろうとしたけれど逆に引っ張られて前へつんのめる。
エイシェンは刀の刃を握ったまま引っ張ったのだ。どんなに切れ味が鈍っていても刃物に変わりない。ぽたりぽたりと血が床に滴る。
「エイシェン、エイシェン!」
何をやっているのかと見ると、彼は自分の手など全く意識の外で只管ナズナを見詰めていた。
「ナズナ」
空いている方の手でナズナの涙を拭う。
こんな時にまでそっと優しい手つきでナズナに触れてくる。
彼の瑠璃色の瞳は曇りなく真っ直ぐにナズナだけを映していた。そしてやはり、エイシェンの瞳は多くを伝えてくるのだ。
カシャン、と刀が落ちる音がした。
「ナズナ、ごめん。ナズナが帰りたいの知ってた。でも俺は……ずっとここで、俺の所に居てほしかったんだ」
ぐしゃりと顔を歪めたエイシェンの瞳が揺らめいている。
咄嗟に両手を差し出してこめかみを隠すように覆った。するとエイシェンがそのナズナの手をその上から握る。離すまいとするみたいに。
「ナズナの里は、すごく酷い状態で見せたくなかったし、どうせもう戻っても暮らせない。なら、ずっとこの村にいればいい。俺と生きてくれたならって勝手に思ってた……ごめん」
「エイシェン……」
正直、何を言えばいいのか分らなかった。ただ、これがエイシェンの本心だというのは痛いくらいに伝わってきた。
エイシェンは言葉数が多い方ではない。いつも必要な事しか口にはしなかった。それも大抵が、ナズナ、と名を呼ばれるだけで終わる事が大抵で。
こうやってたくさん喋ったと思ったら、こうも雄弁に想いの丈を言ってくれるとは。
彼はどこまでも正直な人なのかもしれない。
口にはしなくても目がたくさんを物語っていて、話せば驚くほど真っ直ぐ想いを伝えてくれる。
聞きたい事も、言いたい事もたくさんあるけれど。
こんな風に泣きそうな顔をしながら愛の告白紛いをされてしまっては、もう勢いで出ていくのだと息巻く事は出来ない。
しかも、それがナズナが好きになってしまった人からのものなのだから余計に。
「エイシェン」
掠めるようにキスをした。羞恥心だとか身長差だとかでそれがナズナの精一杯だ。
悲痛な面持ちだったエイシェンは、ナズナの行動に目を見開いて固まった後
「どうして?」
と問うた。それは昼間にナズナがエイシェンに向かってしたのとまるで同じ。だから
「どうして?」
と苦笑交じりに返した。ナズナは答えをもう知っているけれど。
エイシェンにも伝わるだろうか。ナズナも同じ気持ちなのだと気付いてくれるだろうか。
暫くエイシェンはまじまじとナズナを見返して来て。
もう一度泣き出しそうに顔を歪めてから力いっぱいナズナを抱きしめた。
いつも優しくて頼りになるエイシェンにも、こんな弱々しい部分があったのかと思った。
新しい一面に触れて嬉しいと思ってしまうナズナは、自分だってずっとエイシェンと一緒に居たかったのだと気付かされた。
頑なにカリナンの里に帰るのだと自分に言い聞かせ続けなければならない程、身が裂かれるような決心を必要とする程に、エイシェンの傍は居心地が良くて離れがたかった。
「好きだよ」
ぽつりと呟く。まだ彼に言葉にして伝える勇気はないからナズナの里の言語で。
なんという難産…