東欧戦術史 近世最初期2 ヴラド三世・弱者の近世軍
物語的な逸話を史実として扱っている部分がありますので、いつものように話半分でお願いします。
さて、お話はワラキアへと戻ります。
一四五六年、ヴラド三世が久しぶりに足を踏み入れた故郷ワラキアの地は、見るも無残に荒れ果てていました。
畑は放置され、各地の荘園では地方領主が好き勝手し、市場は外国商人が独占しています。
しかも貴族は、なんだか怪しいトルコ人と通じているようです。
これではオスマン帝国に対する常備軍など夢のまた夢でした。
そこでまず、ヴラド三世は国内の貴族や領主を皆殺し(!)にすることにします。
ヤーノシュから借りてきたハンガリー騎士とセルビアやブルガリアで募ったボヤールたち(ここではオスマン帝国に土地を奪われた騎士や貴族のこと)が主戦力ですから、ヴラド三世の主力はオスマン帝国軍と長らく戦ってきた歴戦の精鋭です。
対するワラキア貴族たちも、一四世紀末にはミルチャ年長公の下で何度もオスマン帝国に打撃を与え、ときには追い返してきた古強者でした。
けれど、時代はもう一五世紀も半ばを過ぎています。
付かず離れずの偵察を実行し続け敵兵の防御が整っていないタイミングを狙って奇襲するという戦術は、六〇年前でしたらオスマン帝国軍のイェニチェリが塹壕を掘る前に撃破出来たものでしたが、一四五〇年代では既に時代遅れでした。
ワラキア公国が六〇年前に戦ったオスマン軍の野戦陣地は、地面に穴を掘る非常に時間のかかるものでしたが、ヴラド三世配下による改良型荷車陣地は素早く展開できるパヴィスと装甲馬車の組み合わせなのです。
ワラキア貴族軍の奇襲は悉く失敗し、表立った反抗を示した者たちは戦場で冷たく横たわります。
けれど、それだけではまだまだ血が足りませんでした。
ヴラド三世は国内のオスマン派を一掃しヴラド派に首を挿げ替えたかったのですが、思ったよりも反抗してくれた貴族が少なかったのです。
そこで、日和見を決め込んだ貴族たちも皆殺し(!)にすることにしました。
大掛かりな祝宴を開くと、そこで日和見の貴族たちを纏めて暗殺したのです。
こうして皆殺しにした貴族の代わりにヴラド派を領主に任じることで、ヴラド三世は強力な権力基盤を手に入れます。
運良く生き残ったワラキア貴族も、もはやトルコと通じようなどとは思いません。中央集権化は成功したのです。
そうなると次は、中央集権を金銭に繋げなければいけません。
近世的な常備軍は、そこにいるだけで非常にお金がかかるのです。
最初に作ったのは公爵直轄の農村でした。
この農村は、もちろん農作物の生産高を増やすのが一番の目的ですが、非常に特徴的な点を持っています。
普段は農村として振舞っていますが、いざ外敵がワラキアに侵入してくると、いきなり防衛拠点に変身するのです。
ただし、防衛拠点といってもトーチカのような役目を果たすわけではありません。
ゲリラ戦を行う際の集合場所や補給場所になるのです。
また徴集がかかると、農民はヴラド三世直轄の徴集兵として軍に加わります。
これはいわゆる屯田兵に似ていますが、メインが兵士ではなく農民であり、防衛力というよりは摩擦を増大することに主題が置かれています。
いわゆる中国共産党は毛沢東の「人民の海に敵を引き入れる」戦術と同じものでした。
こうして徴集農民兵は、貧しいワラキアにとって大事な戦力となります。
ヴラド三世は改革を続けます。
次におこなったのは、外国商人に独占された市場の再建でした。
ワラキア東部のトゥルゴヴィシュティなどで外国商人へ制限をかけ、今で言う保護貿易を推進し国庫を増やしていくのです。
そしてさらに、ハンガリー王国内のトランシルヴァニア・ザクセン人の街でルーマニア人が貿易から締め出されているのを知ると、トランシルヴァニア・ザクセン人を襲撃して、ルーマニア人を貿易に参加させる約束を取り付け貿易を強化します。
こうして商業を強化したヴラド三世は、念願の常備軍さえも手に入れます。
小規模で常備軍というよりは親衛隊というべきものでしたし、少ない俸給を補うために戦場での略奪品を多く与えるというまだまだ中世的な一面も持っていましたが、それでも近世軍へ続く大きな第一歩でした。
けれど一つだけ、ヴラド三世が準備出来ないものがあります。
それは河川艦隊です。
残念ながら主戦場となるドナウ川は、ワラキア公国にも面しているものの中心地からは遠いので、河川艦隊が整備できません。
ワラキア公国にとってのドナウ川は、ブダペストやベオグラードのように大きな街を通る重要な河川ではなく、ワラキアとブルガリアとを隔てる国境線でしかないのです。
そのため一四五九年のマントヴァ公会議では、ヴラド三世はしきりにハンガリー王国へ頭を下げます。
オスマン帝国と戦うときには、河川艦隊を貸してくれ!
この説得は功を奏し、ハンガリー王マーチャーシュはヴラド三世と同盟を結びます。
さらに教皇からハンガリー王へ、河川艦隊増強のための金貨が送られました。
これらのヴラド三世の改革により、ワラキア公国軍は中世軍から近世軍へと脱皮することに成功します。
その軍容は、少数の精鋭常備軍と封権騎士軍を中核とし、圧倒的多数の農民軍を従えるというものです。
これはベオグラード包囲戦のときのハンガリー王国軍と全く同じものでした。
そして形が同じであるならば、用いる戦術も全く同じになるのです。
けれどヴラド三世は内政改革のやり方に見えるように、苛烈で先鋭的な人物でした。
時に一四六二年。
ヴラド三世はオスマン帝国が要求してきた人頭税ジズヤの支払いを拒否し、これに怒ったスルタン・メフメト二世が一〇万の大軍を動員してワラキアに迫ります。
対するワラキア公国は、かねてからの準備通りに軍を徴集しました。
具体的な内訳は明らかになっていませんが、恐らく二〇〇〇から三〇〇〇の精鋭の常備軍や騎士と、二五〇〇〇程度の農民軍からなっていたはずです。
苦し紛れに集めた寄せ集めだと説明されることが多いヴラド三世の軍隊ですが、このときのワラキア公国軍に農民が多いのは、最新の戦訓によって作り上げられた対オスマン帝国軍の戦術に沿っていたのです。
ところがここでヴラド三世を大誤算が襲います。
マーチャーシュのハンガリー河川艦隊が、待てど暮らせどやってこないのです。
実はマーチャーシュは、対オスマンで鍛えた軍隊を頼りにキリスト教世界で覇権を唱えることを望んでいたので、もはやオスマン帝国と事を構えるつもりは無かったのです。
このせいでヴラド三世が当初予定していた「オスマン帝国軍にドナウ川を渡らせた後、ドナウ川の制川権を奪取して補給途絶に追い込む」作戦は使えなくなりました。
何か他の手を打たねばなりませんが、しかし当面はオスマン帝国軍が渡河してくるのを妨害しなければなりません。
大軍を渡河させるのは非常な困難を伴いますから、上手くそこを突ければワラキア国内に侵入されることなく追い返せるかもしれないのです。
それは六月四日の夜のことでした。
最初のイェニチェリ部隊がドナウ川を渡り終えたのを見届けたヴラド三世は、一斉に矢を浴びせかけたのです。
こうなると先頭部隊は渡河拠点を設営する前に自分の身を守らなければいけませんし、後続は川の上で退くも進むも出来ずに右往左往するしかありません。
しかしイェニチェリはやはり精鋭でした。
とにかく騎馬突撃だけは防ごうと障害物で簡易な野戦陣地を作り上げ、そのまま矢が降り注ぐ中で後続部隊の渡河を手伝い始めたのです。
そうやって徐々に渡河を終えたオスマン帝国軍は、しっかりとした陣地や大砲の設営を終えるとワラキア公国軍に対して応射を開始します。
このまま火力戦になってしまえば、ヴラド三世に勝ち目はありません。
ワラキア公国軍は被害が出ないうちに引き上げることになり、水際防御作戦は残念ながら失敗に終りました。
とはいえ、ヴラド三世が作り上げたのはワラキア公国要塞とでも言うべき、国土全部を使った防御作戦です。
そしてそれは、ここからが本番なのです。
ありとあらゆる摩擦を使って、一〇万人のオスマン帝国軍を弱体化させなければなりません。
川があれば水を引き込んで沼地にし、村があれば家畜と人間は避難させて火を放ち、小さな窪地があれば掘り広げて落とし穴に改造し、井戸があれば毒を放り込む。
また狩が出来そうな森があれば火をつけて禿山にし食料確保を妨害します。
徹底的な焦土戦術の実行でしたが、こんなのはまだ序の口で可愛いものです。
次にヴラド三世は結核や梅毒やハンセン氏病やペストや赤痢といった、当時は不治であり恐怖の代名詞だった病気の人々を集めると、槍だけを持たせてオスマン帝国軍の野営地へ夜間突撃させました。
これは非人道的でありますが、絶大な効果を発揮します。
もう怖いとか怖くないとか言うレベルではありません。
人間の持つ、病気に対する根源的な恐怖を突いてくるのです。
その中でもペストは実際にオスマン帝国軍に広がって、士気を激減させました。
そうやって非道ともいえるゲリラ戦・焦土戦を展開していたヴラド三世の許に、緊急の伝令が届きます。
その内容は、ドナウ川を警備していたオスマン帝国海軍が、オスマン帝国本隊と別れてドナウ川を下り出したというものでした。
オスマン帝国海軍の目的地は、ワラキア北東部の貿易街ブライラ。
ここは一九〇〇年になっても人口六万人に満たない小さな街で、この当時は恐らく五千人以下しか住んでいませんでした。
しかしドナウ川が黒海に注ぐ直前の貿易中継地点でもありましたから、そこそこの富が蓄えてあったのです。
オスマン帝国海軍はそれを狙ったのです。
これはヴラド三世にとってチャンスでした。
オスマン帝国の本隊はドナウを渡りワラキア国内の南部にあり、オスマン帝国海軍はワラキアの北東部にいるのですから、両者の連携は非常に薄くなっています。
そしてドナウ川の警備が甘くなったということは、オスマン帝国軍の補給拠点であるオスマン帝国領ブルガリアが無防備になったということです。
ヴラド三世は僅かな手勢を引き連れるとドナウ川を渡ってブルガリアに侵入し、ブルガリア国内の反オスマン派と合流すると、ドナウ川の各所に存在する港を襲撃して火を付けて回ります。
オスマン領ブルガリアの港には一〇万のオスマン帝国軍を支える補給物資があったのですが、この襲撃によってそのほとんどが灰と化してしまいました。
しかしまだ黒海経由の補給ルートが残っていますから、オスマン帝国軍がすぐに撤退するようなことはありません。
それでも補給に関する摩擦は一気に倍増したわけです。
大軍でしかも火力戦軍に移行しつつあるオスマン帝国軍にとっては大打撃です。
その士気はもう、戦えるかどうかも微妙というラインまで落ちかかっています。
これを好機と見たヴラド三世は、メフメト二世の首を取るために夜襲を仕掛けます。
しかも大胆にも、自身がオスマン帝国軍の野営地に侵入しての夜襲です。
ヴラド三世は一時期エディルネで人質として暮らしておりイスラム教徒だった過去もありますから、コーランを暗誦できるくらいにはトルコ文化に通じています。
そのため、全く怪しまれること無く潜入できたのです。
しかしこの夜襲は、スルタン・メフメト二世のテントと大宰相メフメト・パシャのテントを間違えて突っ込んでしまったため失敗に終わりました。
ワラキア公国軍は慌てて引き返しますが、オスマン帝国の将アリ・ベイの追撃にあって二〇〇〇人近くを失ってしまいます。
それでも最終的にこの夜襲は、ワラキア公国側の被害は五〇〇〇人前後、オスマン帝国側の被害は一五〇〇〇程度だと言われていますから、
農民軍がほとんどのワラキア公国軍にとっては望外の戦果でした。
ところで、ここまで徹底的なゲリラ戦・焦土戦を仕掛けられたオスマン帝国軍が崩壊しなかったのは、これが聖戦であり異教徒との戦いだったからです。
もしイスラム諸侯同士の戦争だったらすぐにでも壊滅していたでしょうが、そんなどん底のような状態であってもスルタン・メフメト二世は進軍を命じます。
実のところワラキア南部の主要な都市はこの時点でほとんど落城していますから、後は首都のトゥルゴヴィシュテを落とせば勝てるはずなのです。
けれどそれが、ヴラド三世の作り上げた最大の罠でした。
トゥルゴビシュティに到着したオスマン帝国軍は、その門が開かれたまま放置されているのを発見します。
まさかの無血開城でしたから、スルタン・メフメト二世の到着を待ったオスマン帝国軍は、歓声をあげながらトゥルゴビシュティに入場します。
そして、そこで見てしまったのです。
二〇〇〇〇人にも及ぶイスラム教徒が串刺しにされている光景を。
一際高い位置で串刺しにされた、腐乱して今にも崩れ落ちそうなハムザ・パシャを。
周囲には酷い臭いが立ち込め、ときおり腐肉が落下してボトリと音を立てます。
そのあまりの光景に呆然とするもの、胃の内容物を吐き出すもの、突然に泣き出すもの、神に祈りだすもの……。
もはや、オスマン帝国軍は戦える状態ではありませんでした。
上げて落とす。
人間というのは、これをやられると一番辛く感じるものです。
ましてや文字通り地獄のような戦争の勝利を確信した直後の出来事でしたから、この串刺しが与えた心理的なダメージは想像を絶するものでした。
摩擦としては、これ以上のものは存在しなかったでしょう。
この直後、スルタン・メフメト二世は直接ワラキアを攻略することは不可能だと悟り、軍を引き上げさせます。
そしてそれ以降は自ら足を踏み入れることはせず、ヴラド三世の弟を傀儡としてワラキア人同士で争うように仕向けるのです。
二〇〇〇〇人の串刺し死体は、あまりにも血生臭いですが、ヴラド三世の戦術の確かさの証明でもありました。
小さく弱く貧しいワラキア公国が、強大なオスマン帝国を破るための唯一の正解。
それはベオグラード包囲戦からも解るように、摩擦を最大限に発揮させるための焦土戦術やゲリラ戦術を含んだ補給戦でした。
侵攻される側であるなら、まず身体を疲れさせ、次に心を疲れさせ、その後に決定的な何かを与えてやれば、敵は勝手に引き上げていくのです。
少数の精鋭常備軍と多数の徴集農民兵を用いた補給戦。
これこそが、強者の近世軍である大規模常備軍を打ち破るための、弱者の近世軍でした。