表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/8

東欧戦術史 近世最初期1 ヤーノシュ・補給戦


 一四五六年のルーマニアに、一人の公爵が就任しました。

 ワラキア公爵ヴラド三世。

 後に串刺し公と呼ばれることになり、イスラム世界では悪魔の代名詞にもなるルーマニアの英雄です。


 ヴラド三世はもともと親ハンガリー・対オスマン帝国を約束することでヤーノシュの力を借りワラキア公爵になった経緯があります。

 ですから一四五六年以降のワラキア公国は徐々に国内のオスマン帝国派を粛清していくと共に有力貴族の力を削ぎ中央集権化を進め、オスマン帝国軍に対抗できる近世軍を育成していくことになります。


 しかし、当時のワラキア公国はハンガリー王国に比べれば領土は小さく土地も貧しいもので、いくら中央集権化してもその収入は高が知れています。

 そしてなにより、強く豊かなハンガリー王国ですらオスマン帝国軍には敵わないのです。

 弱く貧しいワラキア公国がオスマン帝国と戦うには、何か新しいことが必要でした。


 そんな悩みで夜も眠れないヴラド三世の許に、二つの知らせが飛び込んできます。

 それはハンガリー王国軍が八年ぶりにオスマン帝国軍を破ったことと、その際の疫病ペストによりヤーノシュが没したことでした。

 ハンガリー式の改良型荷車城塞を発明した天才戦術家ヤーノシュは、最後の最後にオスマン帝国を打ち破ると、そのまま天国へと勝ち逃げしたのです。

 俗にいうベオグラード包囲戦(一四五六年)でした。


 ヤーノシュはどうやってオスマン帝国軍に勝ったのだ!?


 ヴラド三世は必死に答えを探します。

 普通にやれば、当時劣勢でたった五〇〇〇のハンガリー王国軍が、ベオグラードを包囲した一〇万のオスマン帝国軍に勝てるわけが無いのです。

 勝てたとすれば何か秘密があるのです。

 ヴラド三世は、ベオグラード包囲戦を徹底的に調べ上げました。

 そうして解ったことは、勝利の原動力が農民にあったということです。

 農兵ではありません。農民です。農兵のような最低限の訓練も装備もありません。

 日本で言うと一揆のような集団のことで、鍬や鎌やナイフで武装した暴徒のようなものです。


 これを可能にしたのは、バチカンから送り込まれた一四五六年で七〇歳になる枢機卿ジョヴァンニ・カピストラノでした。

 彼が率いる宣教師軍団は、カトリック・東方正教会・異端の区別無くオスマン帝国に対する十字軍を言葉巧みに呼びかけたのです。


 こうしてヤーノシュとジョヴァンニは、五万の農民軍と無限に等しい人的資源、そしてオスマン帝国軍に対する強力な「摩擦」を手に入れました。


 ここでいう「摩擦」とは軍事用語です。

 軍隊というのは今も昔も、敵国を通過すると将兵は疲弊し戦力は減少するのです。

 現地からの補給は受けられませんし、警戒して進むので疲労の蓄積は激しいですし、ときにはゲリラ攻撃を受けて補給物資が焼かれてしまったり兵が死傷したりします。

 そうして士気が低下し続けると、最後には兵が脱走し戦力として役に立たなくなります。

 「摩擦」とはこうした戦闘以外で戦力を失う原因を全てひっくるめた概念のことです。


 中世から近世初期での「摩擦」は普通の場合、道路が未整備なために補給や移動に関しては大きいですが、敵地であるということに関しては意外と小さいものでした。

 愛国心とか民族自決とかそんなものは一欠片も存在しない時代ですから、農民にとっての戦争は自分たちに危害が及ばないかぎりは関係ないものなのです。


 ところがジョヴァンニ率いる宣教師軍団は、愛国心の代わりに十字軍精神を植え付けることで、近世最初期の時代に強力な「摩擦」を得ることに成功したわけです。


 ではなぜ「摩擦」が強力な武器になったのか。

 それは、オスマン帝国軍があまりにも強すぎたからです。

 とはいえそれだけでは解りにくいでしょうから、まずはベオグラード包囲のときのオスマン帝国軍を見てみましょう。


 一四〇〇年代前半には六万から八万程度であったオスマン帝国のヨーロッパ遠征軍ですが、一四五〇年以降になるとムラト二世の改革が効果を発揮し始め、その規模は急速に拡大していきます。


 デヴシルメ制度やそれに連なる常備軍制度によって、それまでの諸侯やイスラム騎士の軍隊に加えて、皇帝直属の軍隊であるイェニチェリやカプクルといった軍を大規模に召集できるようになったからです。

 その総数は一五万から二〇万で、ヨーロッパ方面に投入できる戦力だけで見ても一〇万人に及ぶ大きさとなります。

 実際に一四四八年のコソボの戦いでは精々が六万だったオスマン帝国軍は、一四五三年のコンスタンティノープル陥落の際には一五万以上の軍勢を出しています。

 これは今まで一つの地域からシパーヒーやイスラム騎士しか出せなかったのを、同じ地域から彼らと同時にカプクル軍を召集できるようにしたのが大きいのです。

 これによって単純計算で二倍から三倍の戦力が供出できるようになったのです。


 ちなみに一四五〇年前後の各国の動員力は


 ・ポルトガル王国 ……………………… 三万

 ・ブルゴーニュ公国 …………………… 三万

 ・アラゴン・カスティリヤ同君連合 … 七万

 ・アルバニア公国 ……………………… 一五千

 ・フランス王国  ……………………… 一万(百年戦争で疲弊)

 ・イングランド王国 …………………… 一万(百年戦争で疲弊)

 ・ヴェネチア共和国 …………………… 一五千(やろうと思えば三万以上と同盟軍)

 ・元朝モンゴル(北元) ……………… 三万(ただしほとんどが騎兵)

 ・明朝中華帝国 ………………………… 五〇万(と号するので実際には一五万前後)

 ・ティムール朝 ………………………… 五万以下(内乱による混乱直後)


 となっています。


 しかし残念ながらムラト二世自身は改革オスマン軍の姿を見ることなく一四五一年に没してしまい、実際に巨大な軍隊を操って偉業を成し遂げるのは息子のメフメト二世になってしまいます。


 さて、その巨大化したオスマン帝国遠征軍一〇万が全て歩兵だと仮定すると、一日に必要な物資はどのくらいの量になるでしょうか。


 一般に近代の軍隊で一人が必要とする補給量は小麦五〇〇グラム・肉類五〇〇グラム・豆芋類五〇〇グラム・水もしくはビールやワインを一リットルと言われています。

 兵士一人当たりの一日の配給量をわかりやすく現代的に例えると、食パン一斤、ウィンナーソーセージ二〇本、ジャガイモ二個か三個、五〇〇ミリリットルのペットボトル飲料二本、といったところでしょうか。

 また水は腐りやすいので、保存の利くアルコール類を準備するか、麦茶やコーヒーなど濾過効果のあるものを準備するかが多かったようです。


 そしてこれを一〇万人のオスマン帝国軍に適用すると、全軍が歩兵だとして一日に必要な物資は、穀物五〇トン・肉類五〇トン・豆芋類五〇トン・飲料水一〇〇トンの二五〇トンとなります。


 しかしオスマン帝国軍は歩兵軍ではありません。

 なにしろ元々は小アジアやアナトリアの遊牧民族ですから、ムラト二世の改革後でさえオスマン帝国軍の半分以上は騎兵なのです。

 そのため、歩兵が必要とする物資量に馬が必要とする物資量を足してやる必要があります。


 一頭の馬が必要とする一日の物資は豆類六キロと干草六キロと言われていますから、騎兵が五万だとして三〇〇トンの豆類と三〇〇トンの干草が必要になります。

 ただし騎兵が伴なう馬が一頭だけのはずがありませんから、替馬を一頭ずつ持っていると仮定すると倍の六〇〇トンずつとなります。


 つまり、最終的に一〇万のオスマン帝国軍が必要とする一日の物資は、人用の物資が二五〇トンと馬用の物資が一二〇〇トンとなります。

 さらに嗜好品などの細々とした物資を加えれば、最終的には合計で一五〇〇トン前後になったはずです。


 これがどの程度の分量かというと、一頭引きの一トン馬車で荷馬の餌を考慮せずに一日一五〇〇台となります。

 ですから、普通の状態であっても10万人の軍隊を維持するのはかなり困難なのです。


 それが「摩擦」、つまり十字軍精神をもってゲリラ攻撃をしてくる農民の妨害を受けた状態では、さらに困難になるのです。


 もちろんハンガリー軍も火力戦主義に移行していましたから大量の物資を必要としますが、そもそもの数が少ないためあまり苦ではありません。

 五〇〇〇程度ではそこまでの補給負担にはならないのです。

 しかもキリスト教世界の全てが味方になっていますから「摩擦」など無いに等しいのです。それどころか逆に、物資はどんどん運び込まれ積み上げられていきます。


 けれど、それでもまだまだオスマン帝国軍は強大です。

 五〇〇〇人程度の黒軍と五〇〇〇〇人の農民でしかないハンガリー軍では、依然としてオスマン帝国軍を打ち破ることは出来ません。


 しかもオスマン帝国には巨大な海軍がありました。

 コンスタンティノープル陥落の際に艦隊山越をした、あのオスマン帝国海軍です。


 一般的にオスマン帝国海軍というと、陸軍国家の持つ巨大だが錬度の低い海軍として捉えられがちです。

 しかし、オスマン帝国海軍の真価は海戦で勝つことにはありません。

 巨大陸軍を維持することにあるのです。

 なにしろ海軍艦艇は物資の運搬にかけて陸軍が及びも付かないほど高みにいるのです。


 例えば中型の平均的なガレー商船の積載量は350トン前後ですから、毎日の往復とメンテナンスを考えても二〇隻もあれば一〇万人軍を維持できます。

 また小型の五人乗帆船でも三〇トンの積載量がありますから、こちらは一〇〇隻前後でフル活動すれば同じく一〇万人を維持することが可能です。

 そして実際にはこの両者を組み合わせて運用することで、より簡単に物資の補給をすることが出来たのです。


 そこでオスマン帝国海軍を活動不能にするためヤーノシュが投入したのが、ハンガリー河川艦隊です。

 ハンガリーのブダペスト(まだブダとペストは別の街でしたが)とベオグラードはドナウ川で繋がっていますし、黒海からベオグラードもドナウ川で繋がっています。

 そして後者はオスマン帝国海軍の艦隊が使う補給ルートでもありましたし、ベオグラードを水上から包囲しているのもこのルートです。

 つまり母なるドナウを抑えた方が、補給と制川権を握ることができるのです。


 ヤーノシュの河川艦隊の実態は木製の河川ガレーと小型ボートの寄せ集めでしたから、投入に踏み切るには相当の覚悟が必要でした。

 何しろ、相手は天下のオスマン帝国海軍です。

 伝統こそ浅いですが、その数と船の巨大さはヴェネチアやジェノバのような海洋国家群と並んで圧倒的ですし、三年前の艦隊山越えで名声を高めてもいます。

 それでもヤーノシュは河川艦隊の投入に踏み切りました。


 河川艦隊による激しい戦闘が始まります。

 まだまだ水上戦は斬り込みによる近接戦闘が主ですが、海戦と違ってドナウ川の水上戦には陸上の大砲が参戦する余地があります。

 両軍の砲兵がお互いの艦隊を支援するために絶え間なく砲撃を加え、船のあちこちに大穴が開いていきます。

 激戦の末に勝利したのは、ハンガリーの河川艦隊でした。

 小型で小回りの効くこの艦隊は、輸送がメインで帆船中心のドン臭いオスマン帝国海軍を翻弄出来ましたし、なによりも陸上からの大砲の当たりやすさが段違いだったのです。

 またオスマン帝国海軍の一部のガレーは大きすぎて河川を遡れなかったのも原因の一つでした。


 こうして農民と河川艦隊による補給線攻撃によりオスマン帝国の補給は水陸共に困難になり、流れは完全にハンガリー王国に傾きました。

 ベオグラードの水上封鎖は解除され、ハンガリー王国からの補給物資を満載した河川艦隊が続々と市内へ流れ込んでいます。

 物資と援軍が到着した以上、ベオグラードが降伏する可能性は存在しません。

 ですが、それでもオスマン帝国軍はあきらめません。

 親征なのです。

 スルタン・メフメト二世が直々に率いているのです。

 ここで退けるわけがないのです。


 残された道は、力攻めしかありませんでした。


 オスマン帝国軍は一週間に渡る巨砲や重砲の射撃を続け、ベオグラードの街壁は数箇所に渡って破壊され崩落します。

 そこへ一〇万のオスマン帝国軍が殺到したのです。

 既に物資切れが目前で後が無いオスマン帝国軍は、死に物狂いで突撃してベオグラードの外壁を占領し、いっときはオスマン帝国の旗が防御塔に翻るシーンすらありました。


 けれどヤーノシュは、藁束と木材とコールタールを組み合わせ火を付ける「炎の壁」戦術を各所で実行に移します。

 市内に突入したオスマン帝国軍は、この「炎の壁」によっていたるところで寸断され、各個撃破されていきました。

 力攻めは失敗に終ったのです。


 既にオスマン帝国軍は満身創痍ですが、それでもまだ包囲戦は続きます。

 数ではいまだにオスマン帝国軍のほうが上ですし、大砲だって一門も失っていません。

 メフメト二世が諦めない限りは包囲が続きます。

 いえ、そのはずでした。


 ところが、夜のうちにヤーノシュに無断で出撃した無数の農民がオスマン帝国軍の包囲陣に忍び込んでおり、各所で一斉に騒いだり暴動を起こしたりし始めたのです。

 この騒ぎはあっという間に広がって、次の瞬間には全面攻撃になってしまいます。


「戦いを煽動したものは、戦いを終らせなければならない!」


 そう叫んだ七〇歳の老枢機卿ジョヴァンニ・カピストラノは、全軍の先頭に立ち突撃を開始します。

 この攻撃はそれこそ神の加護があったような突撃であり、オスマン帝国軍に正面から真っ直ぐ突入すると、サヴァ川を超え包囲陣地を破壊しオスマン帝国軍の最後尾まで突き抜け、その全てを壊滅させてしまいます。

 またジョヴァンニ老が突撃している間、ヤーノシュは騎兵を率いてオスマン帝国軍の大砲や砲兵に狙いを定めて潰し回ります。


 勝敗は完全に決しました。

 スルタン・メフメト二世自身がヨーロッパ騎士と切り合いになるほどの大混戦の末、オスマン帝国はコンスタンティノープルまで撤退して行ったのです。


 八年ぶりのオスマン帝国軍に対する勝利の原動力は、以上のように「農民」と彼らによって引き起こされた「摩擦」にあり、つまりベオグラード包囲戦での勝利とは補給戦での勝利でした。


・大規模軍は摩擦から受ける影響が非常に大きい。

・大規模軍は補給を受けられないとたちまち弱体化する。

・弱体化した大規模軍は農民軍でも打ち破れる。

・火力戦は補給戦で勝利しなければ行えない。

・補給戦で勝った場合、相手に無理攻めか撤退かの二択を強いることができる。

・河川に沿った作戦行動は河川艦隊の優劣によって勝敗が決まる。


ベオグラード包囲戦での戦訓はヴラド三世に強烈なインパクトを与え、発想の転換を強いたのでした。


ちなみにこの戦いの立役者の一人ジョヴァンニは、この戦いでの功績が認められ聖人認定されています。

なんと従軍牧師の守護聖人ですが……さもありなんというところです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ