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東欧戦術史 近世前夜 ムラト二世・ヤーノシュへの挑戦


 ヤーノシュの改良型荷車陣地を前に苦汁を舐めたオスマン帝国軍は、スルタン・ムラト二世の下で一大転換期を迎えます。

 時に一四四六年。

 ハンガリー十字軍を苦戦の末に泥濘に沈めてやったヴァルナの戦いの、二年後です。


 実はムラト二世、一四四四年に一度引退し、当時一二歳になる息子のメフメト二世にスルタンを譲っています。

 しかし強大化したハンガリーやそれに追随して勢力回復を狙う東ローマがいる状況で、一二歳の子供にスルタン位を譲るなど正気の沙汰ではありません。

 案の定、一四四五年にはムラト二世の復位を望むイェニチェリの反乱が起き、スルタンに復帰することになってしまいます。

 ムラト二世はスーフィズムというイスラム神秘主義の一員だったらしく、息子にスルタンを譲って悠々自適の宗教生活を送りたかったようですが、時代と周囲が許してはくれなかったわけです。


 更に言うとこのムラト二世は一四二〇年代にデヴシルメ制というイェニチェリの組織制度を創出し、それまで一〇〇〇名前後だったイェニチェリを五〇〇〇名程度まで引き上げた改革者です。

 それまで親衛隊でしかなかったイェニチェリを、量的にも制度的にも地位的にも常備軍へと移行させたわけですから、イェニチェリからの信頼が非常に強い人物でした。

 そのため、因習にこだわりやすいイェニチェリもムラト二世の言うことは素直に聞くわけで、非常に改革がやりやすい状況だったのです。


 さて、ムラト二世はまずヤーノシュが活用していた野戦砲を取り入れるべく、帝国全土の砲兵工廠へ増産の指示を出します。

 オスマン帝国はもともと一三八九年のコソボの戦いより大砲を使ってきた経歴がありますから、その気になれば大量生産も何とかなるのです。

 何しろ憎きハンガリーの三倍近い国家収入があるのです。


 またムラト二世はハンガリーから小銃・マスケットを導入することも決定します。

 勝ったとはいえ、一昨年のヴァルナの戦いではイェニチェリの合成弓がハンガリーの重騎兵を止められずに大損害を出していますから、優れたストッピングパワーを持つマスケットは非常に魅力的な武器だったのです。

 さすがの重騎兵もマスケットの破壊力と轟音の前では停止するしかありません。

 目指すはハンガリー軍と同じ歩兵の二割から三割の装備率です。


 そしてムラト二世は、戦争のやり方も変えてしまいます。

 シパーヒーを主力とし歩兵の合成弓で弱らせてから騎兵を突撃させる衝撃戦を止め、野戦築城とマスケットと大砲を組み合わせた、大規模火力戦へと移行したのです。


 今までの衝撃戦というのは、強い方が勝つスタイルです。

 ところが火力戦という戦い方は、多くてお金があるほうが勝つスタイルになります。

 ヨーロッパにはオスマン帝国よりお金がある国も人口が多い国も存在していませんから、理論の上ではオスマン帝国軍は無敵の軍隊へと変貌したことになるわけです。


 無数の大砲に支援されながら濃密な一斉射撃を浴びせてくる恐怖のイェニチェリ軍団。

 その基礎はこうしてムラト二世によって築かれました。


 しかし、大所帯であるオスマン帝国軍の改革は一朝一夕では終りません。

 方向性は示されても、それを実施し終えるまでが長いのです。

 何しろオスマン帝国軍は一〇万人クラスの大軍なのです。


 実質、スルタン・ムラト二世時代のオスマン帝国遠征軍の動員力は、治安維持のためと東方防衛のために国内に残す戦力のことを考えると、約六〇〇〇〇人前後です。

 そして一四四七年にはイェニチェリは六〇〇〇人までその戦力を回復したといわれていますから、この時点での遠征軍における常備軍率は約一〇%です。

 さらにそのイェニチェリのうち二〇%が小銃を装備したとすると一二〇〇名のマスケット兵が存在したことになります。

 また大砲はどんどん武器庫に納められて一〇〇〇〇人あたり一五門程度となります。


 しかし編成上の数字と違って実際には小銃はなかなか普及しませんし、緊急に集めたイェニチェリ兵はまだまだ少年ともいうべき若者ばかりで、銃の反動がきついのか狙いもままなりません。

 大規模火力戦という器だけはなんとか整ったものの、スルタン・ムラト二世が理想の戦いを行うためには、残りの半生をかけて改革を続ける必要がありました。


 けれどハンガリー王国はそんなもの待ってはくれません。

 時に一四四八年。

 ハンガリー十字軍を起こしたヤーノシュが南下してきたため、それに対しムラト二世は新生オスマン帝国軍を引き連れてセルビアはコソボの地へと北上しました。

 ハンガリー三〇〇〇〇対オスマン帝国六〇〇〇〇の会戦、第二次コソボの戦いです。


 ところがいざ戦端を開いてみると、両軍の主力は野戦陣地から出ようとはしません。

 お互いに睨み合いながら、砲身が破裂するギリギリまで猛烈な砲撃を加えるだけです。

 接近戦もあるにはありましたが、偵察隊のような小部隊同士の小競り合いばかりでした。


 これはヤーノシュにとっては予想外のことでした。

 ヴァルナの戦いを除けば、二倍程度のオスマン帝国軍など改良型荷車城塞の敵ではありませんでしたから、今までのように射撃戦で圧倒できるだろうと踏んでいたのです。

 いつものように殺到してくるシパーヒーやイスラム騎士を野戦築城と射撃で屍の山に変え、その後にオスマン歩兵軍をじっくりいたぶってやるつもりだったのです。


 逆にこの睨み合いはムラト二世にとっては予想通りでした。

 ハンガリー軍に勝つための方程式。

 それはハンガリー軍と同じことを、超大国であるオスマン帝国の総力を挙げて行うことです。

 ムラト二世はその方程式を忠実に実行に移します。

 歩兵は大砲と鎖と杭で野戦築城を行い、騎兵は歩兵の左右を堅く守るばかり。

 戦場にはただ砲声だけが響きます。


 結局その日、太陽が落ちるまでに勝敗が決することはありませんでした。


 そして初日のにらみ合いが終ると、二人の総指揮官は同じことを考えます。

 目指すは敵野戦陣地を包囲することです。


 ですが、そのためにはお互いの騎兵が邪魔でした。


 包囲するということは、自分の野戦陣地を捨てて歩兵を移動させるということです。

 そのため敵の騎兵が健在なままだと、歩兵が騎兵突撃によって粉砕されてしまうのです。

 よって、歩兵を移動させるためにはまず、敵の騎兵を排除しなければなりません。

 こうして両軍が騎兵優勢の獲得を目指したために、翌日は激しい騎兵戦となることが決定されました。


 二日目の開戦を告げたのは、ハンガリー軍右翼の黒軍が誇る傭兵騎兵と軽騎兵です。

 その突撃は凄まじく破壊的であり、オスマン帝国軍左翼の精鋭で知られるアナトリア騎兵ですら、一時的に押し込まれてしまいます。

 しかし数に勝るオスマン軍はアナトリア騎兵に援軍を送ります。

 これ受けたアナトリア騎兵は必死に体勢を立て直し、何とか黒軍騎兵を押し戻しました。


 また、両軍の騎兵がお互いの騎兵と戦闘状態になって拘束されたために、今度は中央の野戦陣地から銃兵や弓兵が前進して射撃を浴びせあい始めます。


 初日とは打って変わった、激しく熱のある戦場です。

 しかし、このような激しい戦いはいつまでも続くものではありません。


 最初に均衡が崩れたのは、ハンガリー軍右翼の黒軍騎兵でした。

 援軍を受けたアナトリア騎兵に散々に打ち破られ、少数の生存者が命からがら戻ったほかは、戦場から姿を消してしまいます。

 焦ったヤーノシュは、残る歩兵と貴族騎兵をオスマン帝国軍の中央へと突撃させます。

 焦っていたとはいえこれは冷静な判断であり、陣地を出て射撃戦を展開していたオスマン帝国軍の歩兵部隊は、黒軍の貴族騎兵によってズタズタに引き裂かれて突破されます。


 けれどもその奥に構築されていたオスマン帝国軍の野戦陣地は、騎兵単独で打ち破れるようなものではありませんでした。

 イェニチェリ部隊を突き抜けた貴族騎兵ですが、その足は鎖と杭で構築されたオスマン帝国の野戦陣地によって停止してしまい、再編成を果たしつつあったイェニチェリ部隊と野戦陣地との挟み撃ちにあって、ほぼ全滅してしまいます。


 それを見たヤーノシュも戦場から逃げ出してしまい、もはや勝敗は明らかでした。

 それでもこの日の夜や翌日にも戦闘はありますが、それは騎兵を失ったハンガリー軍の野戦陣地が包囲され、大砲を打ち込まれ続け降伏するだけの戦いです。

 もはや事後処理のようなものでしかありませんでした。


 最終的に丸二日以上もかかった第二次コソボの戦いは、両軍ともに多大な死傷者と莫大な戦費を押し付けます。

 しかし、それまで押し切られていた改良型荷車城塞を陥落させたことはオスマン帝国軍に大きな自信を与え、逆にハンガリー軍はオスマン帝国軍を恐れて活動が停滞してしまいます。

 ここから再びオスマン帝国軍のターンが始まるのです。


 第二次コソボの戦いにおいて解ったことは、


・野戦陣地を攻略するためには包囲しなければならない。

・包囲を行うためには一時的に野戦陣地を捨てねばならない。

・野戦陣地を捨てるためには敵騎兵を撃破せねばならない。

・騎兵を歩兵に突っ込ませる突撃戦術は古くなった。

・騎兵は騎兵を攻撃し撃破もしくは拘束すべきである。

・火力戦は死傷者が激増する。

・火力戦は莫大な戦費がかかる。


 という野戦陣地戦と火力戦の原則です。


 しかし、皆さんは信じられますでしょうか?

 この近代戦と見紛う程の火力戦をやった第二次コソボの戦いは、まだまだ年代的には中世の戦争なのですよ……。


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