東欧戦術史 中世末期2 ヤーノシュ・改良型荷車城塞
少々下りまして一四三〇年代末、神聖ローマ皇帝ジギスムントがハンガリーにて一人の人物を大抜擢します。
彼の名はフニャディ・ヤーノシュ。
イタリアで傭兵隊長をやっていたハンガリー人で、ジギスムントに従いフス派と戦った経験もある、歴戦の戦術家です。
ジギスムントはそのフニャディ・ヤーノシュをハンガリーのトランシルヴァニア地方を治める公爵として抜擢します。
この頃のハンガリーは東のルーマニアとも南のオスマン帝国とも仲が険悪でした。
そのため両者と国境を接するトランシルヴァニア公には、何よりも戦争に強い人物が求められていたのです。
イタリアで鳴らしていたヤーノシュはそれにぴったりの人物だったわけです。
こうしてヤーノシュはトランシルヴァニア公となり、オスマン帝国からの圧力に対抗するために数々の改革を行っていくことになります。
まずヤーノシュは、きな臭い情勢を切り抜けるために常備軍的な性格を持つ軍を作り上げます。
イタリア時代からの子飼いの傭兵とドイツ側についたフス派を中心とし、ドイツ人にとっての悪夢であるヤンの荷車城塞を教科書として、厳しい訓練を積ませたのです。
しかしその構成は完全に荷車城塞のコピーというわけではなく、ハンガリーという国の特性やイタリアでの戦訓をたっぷりとトッピングしています。
ヤーノシュは一五世紀前半の重すぎる銃を好みませんでした。
何かに据え付けねば使えないという点を嫌ったのです。
これはもう少し詳しく言うと、攻勢に出られない、若しくは出るのに時間がかかるということを忌避したということです。
銃を中心としたヤンの荷車城塞は、攻撃してくる敵を打ち破り追い返すのは得意でしたが、荷車城塞同士の戦いを想像してもらえれば解る通り、自分から攻撃を仕掛けるのは大の苦手だったのです。
そこでヤーノシュは銃の代わりに弓やクロスボウで部下を武装させます。
銃を使わなくなったというのは退化にも見えますが、値段も使い勝手もまだまだクロスボウや弓のほうが良い時代ですので、これは当然の選択でした。
ですが小銃は好まなかったといっても完全に配備しなかったわけではありません。
銃には弓やクロスボウには無い重要な要素があり、どんなに嫌いでも無くすことは出来なかったのです。
それは騎兵に対する二種類のストッピングパワーでした。
まず第一に、鉛弾というソフトポイント弾を発射する当時の銃は、物に当たるとマッシュルーム状に変形し耐え難い苦痛と鉛毒を与えます。
これは現代では条約で自主規制が求められるほどの威力であり、馬だろうが人だろうが再起不能にしてしまえるのです。
また大量の火薬を用いることによる轟音は馬を驚かせ恐慌状態に陥らせることが出来、これも大きなストッピングパワーとなりました。
最終的にヤーノシュは歩兵のうち二割から二割半には小銃を持たせています。
これは一五五〇年のスペインテルシオと大体同じ割合で、一四四〇年代ではフス派を除き世界中のどの軍隊と比べても圧倒的でした。
しかもヤンの遣っていた小型大砲ではなく、もっと軽い初期型のマスケットのような小銃です。
さらにヤーノシュは、トランシルヴァニアの森やブルガリアの山岳地帯で使うのが難しくコストも高い装甲馬車を減らし、その分をパヴィスという巨大な盾で補いました。
このパヴィスは地面に突き刺し支持架によって支える置盾で、野戦築城としては装甲馬車に比べると効果が低いですが、値段は安く訓練も簡単です。
クロスボウとパヴィスという組み合わせは、有名なミラノやジェノバのクロスボウ傭兵に良く見られる組み合わせですから、この辺りはヤーノシュが傭兵隊長をやっていたイタリア由来だと思われます。
次に騎兵ですが、ポーランドに並ぶ騎兵大国(というより騎馬遊牧民族マジャール人そのもの)であるハンガリー王国には、ヤンの限られた騎兵と違って膨大なリソースがありました。
そこに目をつけたフニャディは、騎兵を大量に動員します。
ここでいう騎兵とは貴族騎兵・傭兵騎兵・農奴騎兵の三種類で、そのうち貴族騎兵と傭兵騎兵はランスで武装した典型的な中世の重騎兵、農奴騎兵は弓で武装した軽騎兵(弓騎兵)です。
特筆すべきは最後の軽騎兵で、これはハンガリーがまだマジャール族だったころの遺産でした。
キリスト教世界で唯一の、イスラム世界のモンゴル系弓騎兵やテュルク系弓騎兵と互角に渡り合える騎兵だったのです。
一四四〇年代には冷遇されていた軽騎兵が、一四八〇年代には最重要兵科と位置づけられたことが、如実にそれを証明しています。
こうした一連の改革によって、防御的にしか使えず高コストのために規模も小さかった荷車城塞は、その姿を一変させ改良型荷車城塞となりました。
まず装甲馬車と違って移動の容易いパヴィスによる野戦築城は、クロスボウ歩兵に細かい移動をさせることを可能にしました。
またハンドキャノンよりも軽いマスケットのおかげで、銃兵も攻勢のために機動が取れるようになります。
簡単に言えば、自分から攻撃することが出来るようになったのです。
またコストの安いクロスボウとパヴィスの採用は、軍隊の規模を大きくすることを可能にしました。これによってハンガリー軍は既に10万人クラスの大軍団であるオスマン帝国軍に対抗できるようになります。
そして最も重要なことですが、ヤーノシュは騎兵戦法が得意というハンガリー王国の特性を活かして、ヤンが行えなかった敵騎兵への騎兵攻撃を可能にしました。
具体的な戦場の流れは、
・戦闘の序盤は装甲馬車とパヴィスで防御戦をし大砲(野戦砲)を撃ちまくる。
・もし敵兵が出てきたら騎兵で追い払う。
・中盤になったらバヴィス部隊と小銃兵やクロスボウ兵を連携させて繰り出し包囲を狙う。
・同時に騎兵戦を行う。敵の騎兵を撃破もしくは拘束し、こちらの歩兵を狙えなくする。
・終盤、歩兵による火力戦で敵が疲れたら騎兵突撃で勝負を決める。
となります。
ヤンの荷車城塞に比べると攻勢に出ることが可能なのが特徴で、歩兵に関しては都市や拠点への包囲攻撃が多発していたイタリア風です。
騎兵は恐らくですがポーランドやリトアニアと同じ対遊牧民用の騎兵戦で、とにかく騎兵の優勢を獲得し歩兵を守るのが第一だったと思われます。
そのためフランス騎兵のように序盤から敵の中央に突撃して破壊することはなく、最終段階までは歩兵を援護するように動きます。
さて、ヤーノシュがトランシルヴァニア公になって一息ついた一四四二年のこと。新戦術を試すチャンスが彼の元に訪れます。
ブルガリア及びセルビアをほとんど制圧したオスマン帝国が、さらに北上してトランシルヴァニアに侵入してきたのです。
この時期のオスマン帝国軍は弓が長弓でなく合成弓だっただけで、基本的な戦法はイングランドロングボウに近いものです。
ただしそれにシパーヒー騎兵という重騎兵が加わっており、規模もヨーロッパ世界に比べると圧倒的で、イングランド長弓兵とフランス騎士軍団の連合軍を相手にしているようなものでした。
ところがヤーノシュは、これを撃破し追い返してしまいます。
戦闘が始まるとオスマン帝国軍は、初めて味わう野戦陣地に対してシパーヒー重騎兵を投入しました。
これは野戦築城を第一とする荷車城塞タイプの戦術にとっては良いカモです。
シパーヒー重騎兵は、ヤンと戦ったドイツ騎士のように装甲馬車とパヴィスに行く手を阻まれ、さらにその内側から猛烈な射砲撃を受けて無残な姿と成り果てます。
残されたオスマン帝国軍の歩兵は大砲の数でこそ上回っていたものの、ほぼ無傷のハンガリー王国軍には歩兵も騎兵もまるまる残っています。
その連携攻撃に歩兵単独で耐えることは不可能であり、戦いはハンガリー王国軍の圧勝でした。
その後もオスマン帝国軍はヤーノシュの改良型荷車城塞に押され続け、結局のところ一四四四年にはセルビア・ブルガリア・アルバニアといったオスマン帝国領を奪い返されてしまい、オスマン帝国にとって不利なセゲトの和約を結ぶことになります。
これがいわゆるハンガリー十字軍です。
その後、和約を破ったハンガリー軍がヴァルナを攻撃しオスマン帝国に敗れる戦いがあるのですが、これはほとんどが傭兵騎兵と貴族騎兵のみで構成された(なんと騎兵が九割です)ハンガリー軍が、アジャンクールのロングボウよろしく合成弓を撃ちまくったオスマン帝国軍に敗れる戦いですので、荷車城塞はあまり関係がありません。
こうしてハンガリー王国にオスマン帝国に対抗する力を与えたヤーノシュの改良型荷車城塞は、ヤーノシュの息子であるマーチャーシュの時代になるとさらに洗練され、黒軍と呼ばれるようになります。
ところがそのマーチャーシュが没すると、巨大な維持費に耐え切れず解散に追い込まれてしまうのです。
それは一四四〇年の創設から五四年後、一四九四年のことでした。
ヤーノシュの改良により歩・騎・砲がある程度の有機的な連携を見せ始めました。
これによって、荷車城塞を戦って打ち破るには、より高度な陣地を構築し、より濃密な火力を準備し、より多数の騎兵を配備する以外の方法が無くなってしまいます。
そしてそれはつまり、中央集権軍による封権制度軍の陳腐化を意味しました。
・銃、弩、防御陣地の機動力を確保し攻勢を可能にする。
・国を中央集権化し大量動員を可能にする。
・国庫収入を増加させ常備軍を創設する。
・騎兵突撃の前に準備砲撃を十分に行う。
・ある程度の犠牲を覚悟した騎兵突撃により勝負を決める。
・莫大な軍事費により国庫が空になる。
後に黒軍と呼ばれることになるヤーノシュの改良型荷車城塞は、国家破産ギリギリの維持費も含めて、もはや近世軍そのものと言って良い存在だったのかもしれません。