東欧戦術史 中世末期1 ヤン・無敵の荷車城塞
時は一四二〇年。
このとき中央ヨーロッパのボヘミアでは、ヤン・ジュシュカ率いるキリスト教の異端が猛威を奮っていました。フス戦争の始まりです。
ヤンに率いられたその名をフス派という彼らは、なぜ、どういう主張のもとに異端に走り宗教戦争を起こしたのでしょうか。
ここは戦術のお話をするところではありますが、軽くだけ触れておきましょう。
そもそもの発端は、一三世紀ごろにドイツ人がスラヴ諸国へ侵入してきたことでした。
当時キリスト教国家でなかったスラヴ諸国のポーランドやリトアニアは何度もドイツ騎士団の侵入を受けていますし、スラブ人国家であったはずのボヘミアは一五世紀に入る前後にはスラヴ人の国なのに支配階級はドイツ人という社会構造になってしまいます。
ですからフス戦争当時の情勢を簡単に言ってしまえば、ボヘミアを戦場として西のドイツ人と東のスラヴ人が争っていたわけです。
そしてフス派の主な主張は
・説教の自由(神聖ローマ皇帝や教皇の司祭任命権を否定)
・教会財産の没収(当時のボヘミア国内の教会は、ほとんどがドイツ人司祭)
・法の下の平等(ドイツ人領主やドイツ人貴族の特権を否定)
というようなものでした。
支配階層であるドイツ人が経済的にも宗教的にもスラヴ人を差別していたため、被支配階層であるスラヴ人がドイツ人の特権を排除し、国を取り戻すための宗派として作り上げたといえます。
では、そもそもフス戦争とは誰と誰が戦っていたのでしょうか。
その答えの一方はポーランド王・ボヘミア王国のボヘミア人・リトアニア大公であり、それに対するのは神聖ローマ皇帝・ドイツ王・ボヘミア王およびボヘミア王国のドイツ人・ハンガリー王・ドイツ騎士団総長です。
こうして書き出してみると後者の勢力が圧倒的に強そうに見えますが、実のところ後者は騎士団総長を除けばたった一人の人物を指しています。
その名をジギスムント・フォン・ルクセンブルク。
神聖ローマ皇帝でありハンガリー王でありドイツ王であったこの男は、ボヘミアにおけるドイツ人優遇政策によってスラブ人たちから蛇蝎の如く忌み嫌われていました。
そのため1419年にジギスムントの兄であるボヘミア王ヴァーツラフ4世が死去し、ボヘミア王位をジギスムントが継承することになると、ボヘミア人たちは一斉に蜂起したのです。
そしてそれは、フス派の解り易い主張も手伝って、瞬く間にドイツ人対スラヴ人という民族戦争の様相を呈していきました。
さて、歴史のお話はこのあたりにして戦術のお話に戻りましょう。
このフス派はヨーロッパで初めて小銃を大々的に使用したといわれています。
しかし彼らの使っていた小銃は、初期には銃とは名ばかりの小型化した大砲とでも言うべき物ばかりで、持ち運ぶことはほぼ不可能なために野戦には使いづらいものでした。
具体的に言えばこのころの小銃は
・大体25mm口径の銃に20g程度の火薬を詰め、24mm口径で50g程度の弾丸を発射する。
・重さは10キロから15キロ。
・製造技術が未熟で銃身と弾丸の隙間が大きい。
・そのため、大量の火薬を使用しなければ必要なガス圧が得られない。
・火薬を大量に使うため銃自体が分厚く大きく頑丈でなければ破裂してしまう。
・火薬を大量に使うため発射時の反動が凄まじく何かに固定しなければ発射できない。
・至近距離で当たれば、現代のM2ブローニング重機関銃の二〇〇〇メートル射撃と同程度の速度と弾頭重量がある(人間の頭くらいなら吹き飛ばします)。
というものです。
その他にも手銃(もののけ姫のアレ)を装備していましたが、これは照準方法が存在せず腰ダメでぶっ放すしかないもので、ごく至近距離以外では威嚇にしかなりません。
そこでヤン・ジュシュカが考え出したのが、荷車城塞という装甲馬車と小銃・大砲の組み合わせです。
分厚い鉄製の装甲で覆われた馬車を並べて防壁とし、その内側から小銃や大砲を撃ちまくり、近づかれたら長柄武器で突きまくるこの戦法は、農兵中心だったフス派にドイツ諸侯を撃破できるだけの攻撃力と防御力を与えました。
なにしろ鉄の品質が比べ物にならないとはいえ、第一次世界大戦の後に出てくる豆戦車が一四二〇年の中世で円陣を組んでいるようなものです。
騎士の騎馬突撃では全く勝負になりませんから、持久戦かクロスボウや大砲による火力戦に持ち込むしか勝ち目はないのですが、しかし弓やクロスボウを扱うのは騎士のプライドが邪魔をしますし、大砲はどんなにかき集めてもフス派のほうが多く持っています。
当時の火器先進国であるリトアニア(一三九七年にはジョチ・ウルスとの戦争で手銃や大砲を投入している)がフス派についていることが大きいのです。
しかもしばらくするとヤンは、この荷車城塞が弓やクロスボウで武装した歩兵ににじり寄られると弱いのに気付き、すぐにその対策を講じています。
フス戦争が激しさを増す中で騎兵大国であるポーランド王国からフス派やスラブ人の仲間が駆けつけると、彼らを重騎兵として起用し敵弓兵を追い払うことのみを命じたのです。
荷車城塞を攻撃するために前進してきた敵の弓兵は何の防御陣地も持っていないので、ポーランド騎兵が突撃すれば一瞬にして蹴散らせるわけです。
また他の兵科であれば射撃戦で薙ぎ払えますし、もし敵の騎士がポーランド騎兵目掛けて突っ込んできた場合には、さっさと荷車城塞へ逃げ込んでしまえばいいのです。
こうしてさらに完成度を高めた荷車城塞により、フス派はこの後二〇年近くもの間、中央ヨーロッパで無敵の存在となります。
ジギスムントはフス派を倒すために何度も十字軍を呼びかけますが、その十字軍騎士はことごとく荷車城塞の前に撃破されてしまったのです。
結局のところ、ジギスムントが初めて荷車城塞を破るのには、内部分裂によってジギスムントに味方したフス派の同じ荷車城塞を待たねばなりません。
そしてその後に勃発するようになる荷車城塞と荷車城塞の戦いは防御対防御の戦いとなり、壮絶な銃撃戦・砲撃戦に陥ったことは想像に難くありません。
恐らく何らかのアクシデントが無かった場合は、補給切れによる降伏でしか勝負が付かなかったでしょう。
・火薬兵器と長柄武器による農兵の戦力化。
・騎兵の側面防御。
・野戦築城による歩兵の地位の向上。
・衝撃戦の廃止。
・防御火力戦の実施。
・野戦における大砲の支援。
荷車城塞は、うっすらとですが近世の香りを漂わせる、戦術の一大転換でした。