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騎士と武士とカタフラクト

 例えば全身を甲冑で覆い槍を構えて颯爽と突撃していく騎士。

 あるいは小札を綴った大鎧を着込み大音声で名乗りを上げる武士。

 または馬にまで鎧を着け合成弓と鎚を巧みに使い分けるカタフラクト。

 それがファンタジーであれ現実世界であれ、近代以前をモデルとした戦記には彼ら重装騎兵の活躍が欠かせません。十倍近い敵に突入し散々に損害を与えて撃破出来る彼らは、クライマックスを演出するための最高の舞台装置だからです。


 ですが、同じ重装騎兵でも彼らには明確な違いがあります。

 騎士は初期には長さ二~三メートル、後期には長さ四~五メートルのランスが主力武器ですし、武士は最盛期の鎌倉時代では全長が二メートルを超える弓が主力です。またカタフラクトは突入用の槍と射撃戦用の合成半弓、さらに重装歩兵や重装騎兵を鎧の上から殺傷できる鎚を使い分けます。

 彼らには、なぜこのような違いが発生したのでしょうか。

 戦術上では選択肢の多いカタクラフトのような騎兵が有利そうに見えますから、騎士も武士も槍と半弓と片手武器の三種類を装備すればよかったのではないでしょうか。

 実は彼らそれぞれの起源が、そこに絡んでくるのです。



 そもそも騎兵というのは、その起源を辿ると三種類に大別できます。

 

 まず遊牧民騎兵。

 遊牧生活を送っている人々が国に雇われたり税の一種として軍に参加するなどして、そのまま兵士になるものです。弓術と馬術に長じており、国の予算や戦術によって色々な使い方がありますが、総じて精鋭となることが多いのが特徴です。

 雇い主の国力が低ければマムルークのように国を乗っ取ることもありますが、逆に雇い主の国力が大きい場合は単なる兵士の一種でしかありません。

 

 次に同化民騎兵。

 もともとは遊牧民だったり狩猟採集民だったりする人々が、農耕社会に騎兵として同化されていくものです。遊牧民族に準ずる馬術や弓術を有していますが、農耕民族への同化が進むにつれて時代遅れになったり独自性を持ったりします。農耕民族にとって重要な騎兵戦力なために、戦士や軍事貴族のような階級を形成することが多いのが特徴です。

 

 最後に農耕民騎兵。

 農耕民族の中で戦士や軍事貴族として富裕層を形成していた重装歩兵が、必要に応じて乗馬の技術を身に付け騎兵に転じるパターンです。馬術に劣る上に、馬上での弓は苦手か全く扱えないこともあります。その反面、元々が富裕層なので装備はその地域の中では非常に良質です。


 さて、歴史に詳しい人は気が付いたと思いますが、上記の遊牧民騎兵はカタフラクトのことであり、同化民騎兵は武士のことであり、農耕民騎兵は騎士のことになります。

 とはいえこれだけでは何故そうなるのか解らない方も多いでしょうから、もう少し詳しく追って見ましょう。



 第一に遊牧民騎兵であるカタフラクトです。

 ですが、ここでいうカタフラクトはササン朝などの弓を主力とした旧カタフラクトではありません。

 突撃槍と合成弓に鎚と円盾を装備し、兵士だけでなく馬までもラメラーアーマーで覆った、新式のカタフラクトです。

 これは東ローマ皇帝であるニケロフォス二世が導入したものであり、その初出はニケロフォス二世が皇帝になる以前に軍団長を務めていた帝国中央軍のスコライ軍団でした。おそらく西暦にして九五〇年前後のことです。


 このスコライ軍団とは皇帝直属の帝国中央軍の中でも主力の軍団なのですが、その構成人員に東ローマ人(ギリシャ人)は多くありません。

 この頃の東ローマ人は末期の統一ローマと同じく文化的に爛熟していて闘争心が無く、装備が豪華な割には弱い兵士として有名になるほどで、あまり使い物にならなかったのです。

 そのためニケロフォス二世は、歩兵をドニプロ川を通じた黒海貿易で仲の良いヴァリャーグ人(ルス人やスラブ人やノルマン人)から募集し、騎兵はアナトリア高原のテュルク人やアルメニア人、ウクライナのクマン人、ハンガリーのマジャール人、ブルガリアのブルガール人などから募集していました。

 

 こうして集められた彼らは皇帝直属軍として恥ずかしくないだけの装備が与えられ、ヴァラング隊のような歩兵とカタフラクト騎兵となり、東ローマ式の戦術を訓練されます。

 その戦術とは、共和制ローマの大スキピオ時代から続く伝統的な包囲戦術と、東ローマのスキピオと呼ばれたベリサリウスが導入した、アヴァール人式の槍騎兵戦術の組み合わせでした。


 とはいえ、アヴァール人式の槍騎兵戦術とは、実のところただの正面突撃です。

 ベリサリウスが活躍した六世紀中ごろの戦闘では、まず弓歩兵を前衛に並べて矢戦を行い、騎兵は左右から包囲や側面攻撃を狙う戦術が主流だったのですが、アヴァール人は重装備の槍騎兵を中央正面から突撃させ、その勢いのままに叩き潰す戦術を用いていました。

 当時の常識を覆すこの戦術は鐙の発達と共に考案されたもので、これを用いたアヴァール人は、ブルガリアとルーマニアとハンガリーを合わせたような、巨大な勢力圏を築いていたのです。


 ニケロフォス二世は、このアヴァール戦術を改良したのです。

 この戦術の弱点は非常に明確で、槍騎兵の初撃の勢いが敵の防御力を下回った場合、騎兵の足が止まって壊滅させられてしまうことにありました。

 そこでニケロフォス二世は重装槍騎兵と重装弓騎兵を組み合わせ(一つのカタフラクト軍団にはこの二つの騎兵が半分ずつ存在して互いを支援しあいます)、敵弓兵に対しては重装甲で矢を無効化することで突入して蹴散らせるようにし、敵歩兵に対しては合成弓で弱らせたところへ突入することで成功率を高めます。

 また敵が逃げなければ重軽どの騎兵が相手でも互角以上に戦えますし、歩兵相手に足が止まっても円盾と鎚で打ち破ることが可能でした。


 つまりニケロフォス二世のカタフラクトは、第二次世界大戦のドイツ軍が編成したカンプフグルッペと同じで「支援攻撃と主攻撃を自己完結でき突撃のための装甲と機動力を併せ持つ小規模の軍団」といえます。

 

 カタフラクトが多種類の武器を装備しているのは、東ローマという国の豊富な資金と進んだ軍事制度のおかげであり、また彼らの戦術の自己完結性のためなのでした。



 さて、第二の騎兵である同化民騎兵、武士のお話に移りましょう。


 武士というのは、その起源をアイヌ系やモンゴル系の蝦夷に持ちます。

 蝦夷の戦術は西暦七八九年に日本と蝦夷が戦った巣伏の戦いから解るように、少数の騎兵で多数の農耕民族歩兵を釣り出して後方と分断し、伏兵や急襲で各個撃破する遊牧民族的なものでした。


 この蝦夷は西暦八〇〇年ごろに坂上田村麻呂率いる中国式の、つまり農耕民族式の軍隊である律令制日本軍に敗れ、俘囚として日本各地に送られます。

 彼らは農耕民族の日本人と違ってあまり農業をせず、狩猟採集と戦闘訓練に加えて日本の傭兵として騎兵を提供することで暮らしていました。


 しかし八〇〇年代も末の頃になると律令制度が緩み始め、日本各地で中央に送る税金や物資が盗賊に遭うようになります。

 この盗賊は被害者も富裕層なら加害者も富裕層であり、実のところ中央での権力闘争や地方での階級闘争の一部なのですが、それでも日本政権である朝廷としては手を打たなければいけません。

 ところが律令制日本軍というのは本来は中国や朝鮮と戦うための大規模歩兵軍でしたから、置盾を並べて弩を撃ち合うような会戦には強いのですが、蝦夷がやったような小規模な機動戦や盗賊のようなゲリラ戦には全く向いていません。

 防いだ盗賊の被害より軍隊の維持費のほうが何倍か高くなってしまうのです。


 そこでゲリラにはゲリラということで投入されたのが、俘囚を中心とした小規模な弓騎兵の軍団です。彼らは弓馬に優れ巧みに盗賊を防ぎ、また中央の貴族と結びついて敵対する貴族に対する盗賊となるなどして、その力を蓄えていきました。

 この徐々に日本と同化しつつあった俘囚の軍を国衙軍といいます。


 そして九〇〇年代に入ると、国衙軍の中で権力争いから脱落した天皇の兄弟などと結びついたものが出てきます。

 これが平氏や源氏といった集団の原型で、時代が下ると共に蝦夷や俘囚の風習は武士文化に姿を変えて日本と同化していきます。

 日本に武士団が生まれた瞬間でした。


 さて、この最初期の武士団の敵はほとんどが武士を含まない集団でした。


 敵が武士を含まない集団の場合、日本では弩は厳重に管理されていた上に鎧や甲冑は律令制日本軍ですら揃わないほど貴重だったので、この集団は弓と剣で武装し防具を持たない軽装歩兵になります。

 対する武士は俘囚の時代から戦闘訓練に明け暮れたエリートであり、軍事を専任するものとしてある程度の装備は整っていましたから、少数精鋭の重装弓騎兵となりました。

 当時の弓はまだ単一素材の丸木弓で鎧を貫通することは珍しかったため、矢戦であれば武士はただの盗賊に対してはほぼ完全な勝利を得ることが出来たのです。

 逆に剣や刀を使った接近戦となると万が一があります。足が止まったり落馬したりすると、まずダメージを受けないというアドバンテージが無くなるのです。

 ですから、武士の技術は騎射を中心として発達していきました。


 ところが貴族と結びつく武士が増加すると共に、武士と武士の争いが増えてきます。武士による盗賊を防ぐ武士や、武士による反乱を防ぐ武士などの構図です。

 こうなると従来の戦い方では決着が付きません。

 丸木弓では互いに致命傷を与えることが出来ないため、まず騎射戦では落馬させる事を狙います。落馬させたら距離を保って騎射し続けても良いですし、次のフェイズに移っても構いません。

 騎射戦がおわると打ち物(斬り合い)に突入します。手持ち武器で鎧の上から致命傷を与えるには、徒歩の場合だと思い切り振りかぶらねばならず隙が大きくなりますが、馬上なら速度を活かせば小さい動きで十分なため圧倒的に有利になります。

 もしそれでも決着がつかなければ、最後は飛び掛って相手を組み伏せ寝首を掻きます。寝技で固めて短刀や脇差で鎧の隙間を狙い、首や腋の下などの動脈を斬るのです。

 源平合戦にでてくるような戦い方は、こうして形成されていきました。


 また、武士同士の戦いが多くなるにつれて、武器も鎧の上からでもダメージを与えられるように進化します。

 単一素材だった丸木弓は二枚や三枚の竹や木材を合わせた木製の合成弓になり、鎧の裏をかく(貫通する)ようになります。

 真っ直ぐだった剣も毛抜型刀などを経て反りのある太刀へと変わります。これは馬上での使用に合わせて作られていて、革や鉄片で作られた鎧の表面装甲を打ち割り、そのまま鎧下の厚布ごと人体を引き裂くのに適しています。しかも、太刀では威力が不足だったのか、薙刀のような両手持ちの刀剣の原型さえ現れはじめます。

 もちろん防具も改良され、徐々に大鎧と呼ばれる騎射戦に特化した防具へと変わっていきました。


 大鎧に身を包み長大な和弓や薙刀を携え腰に太刀を佩いた武士というのは、同じ武士を倒すために特化した重装弓騎兵の姿だったのです。



 最後に農耕民騎兵である、騎士のお話をしましょう。


 騎士の産みの親というのは、フランスはメロヴィング朝末期のカールマルテルです。

 世界史を勉強した人は確実に覚えているであろうこの人物は、現在のスペインからフランスへと侵攻してきたイスラム勢力であるウマイヤ朝を撃退した人物です。

 トゥールの戦い(もしくはトゥール・ポワティエ間の戦い)と呼ばれるこの決戦は西暦にして七三二年に発生しました。

 

 フランク軍の総数は一五〇〇〇ほどで、このころのメロヴィング朝にはまだ騎士というものは存在せず、戦闘に参加するのは重装歩兵であるフランク戦士がほとんどです。

 騎兵もいるにはいましたが、古代となんら変わらない鐙を持たない騎兵でした。


 それに対するウマイヤ朝は総数二五〇〇〇前後で、アラブの遊牧民騎兵や北アフリカのベルベル族騎兵、ペルシアの重装騎兵などを従えており、東ローマ式の進んだ装備を身に付けていました。

 しかし、アラブ人以外に対する課税が大きく、ベルベル人やペルシア人などはあまり士気が高くないのが弱点です。


 さて、戦闘が始まると早々に、鐙を持たないフランク軍騎兵は壊滅します。

 残ったフランク軍の戦士は四角い盾壁戦列を組んでウマイヤ軍の騎兵突撃を防ぎます。何度も突撃を受けますが、その度に盾の壁で押し返し、馬を殺傷して敵兵を落馬させ袋叩きにし、徐々に徐々に損害を与えていくのです。

 士気の低かったウマイヤ軍にとってこれは非常に辛いことで、決着のはっきりしないままウマイヤ軍は引き上げて行きます。


 結果としては引き分けか精々のところ辛勝というものでしたが、負けて当然という下馬評を覆したことによりカールマルテルは絶大な名声を得ることになりました。


 宰相としての立場を不動にしたカールマルテルは、まずウマイヤ朝の騎兵がフランク軍の騎兵を圧倒したことに目をつけ、フランク軍に鐙を導入します。

 またそれと同時に、この新式騎兵に教会から没収した領地の支配権を与えることで、自分に忠実な騎兵を作り出そうとしました。これが封建制度の始まりであり、ヨーロッパに初めて騎士が誕生した瞬間です。


 この時点での騎士はウマイヤ朝の重装騎兵をモデルにしていましたが、その装備は貧しい西ヨーロッパに存在するもので構成されています。

 騎兵専用の鎧は無く重装歩兵がそのまま騎乗したような防具を身に付け、馬鎧はよほど裕福な騎士でない限りは装備しません。

 武器はランスなどの騎兵槍と盾に片手武器です。

 またウマイヤ朝の重装騎兵は、短めのランスを敵歩兵と擦れ違いざまに盾の裏に投げるようにして突き入れる用法を持っていましたが、これはフランクの騎士には難しかったのか、それともランスの長大化で不可能になったのかは解りませんが、徐々に廃れてしまいました(バイユーのタペストリーでランスを妙な形で構えているアレ)。


 このような形で七三二年から徐々に増えていったフランク騎士は、メロヴィング朝の後を受けたカロリング朝の二代目カール大帝のときに大爆発します。


 西暦七七四年、ランゴバルド王国滅亡。

 西暦七七八年、後ウマイヤ朝軍を撃破しスペイン北部を占領。

 西暦七八五年、ザクセン地方をほぼ掌握。

 西暦七八八年、バイエルン公国滅亡・カランタニア公国滅亡。

 西暦七九一年、アヴァール族ほぼ壊滅・ヴァンダル族ほぼ壊滅。


 大きなところだけでもこれだけの成果を上げており、小さな戦争も含めれば五〇回以上の遠征を行いつつも、カール大帝率いるフランク騎士軍団は騎士を持たない他のゲルマン人やスラブ人に対して圧倒的に優勢であり、ほぼ無敗でした。

 何しろこの頃は既に弱体化しつつあったとはいえ、あのアヴァール戦術の産みの親であるアヴァール人を下すほど、騎士軍団は強力だったのです。


 しかし、これだけの強さを誇りながら騎士が弓騎兵にならなかったのは何故でしょう。


 答えは彼らが農耕民族であり、戦士であり、そこが西ヨーロッパであり、戦うべき敵が同じゲルマン人の重装歩兵だったからです。

 まずゲルマン人のほとんどは民族大移動を機に農耕民族になっており、東ヨーロッパにいた頃は遊牧民だった人々も、今となっては騎射のノウハウがありません。

 またゲルマン系の戦士階級というのは本当に戦うこと以外をしない場合すらあり、弓や斧や投槍は猟師の武器として嫌っている人も多いものでした。

 しかもカール時代のヨーロッパの深い森では、狩猟を行う際に馬に乗ることは不可能で、草原や高原で発達した騎射という方法は発想することすら難しいと言えます。

 そしてフランク族以外のゲルマン人はこの頃はまだ騎士を持っておらず重装歩兵の戦士が中心でしたから、もし騎士が騎射を行えたとしても重装歩兵相手に丸木弓の短弓では威力が足りません。フランク族は遊牧民ではありませんから合成弓が用意できないのです。

 こうして騎士は、重装歩兵や同じ騎士を撃破する方法として、ランスを長大化させることを選択したのです。


 西ヨーロッパに誕生した騎士がランスを抱えた突撃騎兵になったのは、そこに存在するものを組み合わせて重装歩兵を破壊できる攻撃力を得なければいけなかったためでした。



 西ヨーロッパの騎士、東ヨーロッパ及び中近東のカタフラクト、極東の武士。この三種類に焦点を絞って私なりに重装騎兵の説明をしてきましたが、如何だったでしょうか。


 実を言えば中世初期から中期における世界の重装騎兵の主流は、馬も含めてある程度の装甲を持ち、多少の違いはあれど合成弓と槍と盾と片手武器で武装したものです。

 有名なところではネパールのネパール騎兵、唐の鉄騎隊、ガズナ朝のグラーム騎兵、モンゴルの重装騎兵、ウマイヤ朝のマワーリー重装騎兵、アッバース朝のマムルーク騎兵などです。

 西欧と日本と東南アジアと南インドを除く既知世界では、重装騎兵といえばカタフラクトによく似た彼らのような騎兵を指したのです。


 イスラムとギリシャ正教に囲まれた西欧と、海によって島に閉じ込められた日本。

 この二つの地域は外界と隔てられ、その重装騎兵である騎士と武士は独自の発展を遂げた少数派だったといえるわけで、それが今では重装騎兵の二大巨頭のように扱われているのですから、歴史と言うのは面白いですね。

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