第36話 南の煙
南の道で狼型の魔物が出たあとも、人の行き来そのものは止まらなかった。
一人では歩かず、同じ方向へ向かう者がいればまとまって出る。急ぎでなければ日をずらし、日暮れまでに戻れない距離へは出ない。
村長は南へ向かうこと自体を禁じなかったし、俺にも森へ逃げた狼型の魔物を探して狩れとは言わなかった。
それでいいと思う。
《魔獣感応》で感じた限り、あいつらは俺を恐れて退いた。人間を追ってルーエまで来たわけでもない相手を、わざわざ森の奥まで追い回せば、今度はこちらが縄張りへ踏み込むことになる。
俺が気になっているのは別のことだった。
南へ続く道だ。
ハインツをはじめ、ルーエへ来る商人や旅人は昔からこの道を使っている。籠や木の器を持ってきた者たちも同じ方向から来た。
人間たちにとっては当たり前の道なのだろう。
だが、俺はその先を知らない。
成竜になった身体で飛ぶことにも慣れてきた。離陸するたびに翼の角度を探ることはなくなり、村の周囲を見回る程度なら、着地する場所まで考えて飛べる。
ただ、長い距離を続けて飛んだことはない。
周囲の魔力を身体へ取り込めるようになったとはいえ、飛行で使う分をすべて補えるわけでもなかった。
限界が分からないなら、限界まで試す必要はない。
帰れる距離を少しずつ伸ばせばいい。
俺は柵の外から南を眺め、近くで弓の弦を確かめていたダリオを呼んだ。
「ダリオ」
「どうした?」
俺は前脚で南を示す。
「……みちの、さき。みる」
ダリオの目が道へ向いた。
「南へ飛ぶのか」
「ああ」
「狼を追うんじゃないな?」
「……おわない。みち、みる」
ダリオは少し考えたあと、頷いた。
「それなら止める理由はない。ただし、行けるところまで行こうとするなよ。帰りの分を残して戻れ」
「……わかった」
村長にも伝えると、俺ではなく南の空を見た。
「街道まで行くつもりか?」
聞いたことのない言葉だった。
「……かいどう?」
「そうか。お前は見たことがなかったな」
村長は足元から細い枝を拾い、地面へ線を引いた。
「これがルーエから南へ下りる道だ。山を下りた先に、もっと大きな道が通ってる。人も荷も、そこから枝分かれしてこっちへ入ってくる」
枝で引いた細い線に、横から太い線を交差させる。
「その先には町もある」
「……まち」
「ルーエよりずっと大きい。商人も来るし、荷車も通る。だが、今日はそこまで行こうとするな」
俺がどれくらい続けて飛べるのか分からないことを、村長も知っている。
「まず街道を見つけて戻れ。それで十分だ。途中で飛べなくなっても、俺たちは空まで迎えには行けんからな」
もっともだ。
「……かえる」
「それなら行ってこい」
俺は村から少し離れた開けた場所まで歩き、翼を広げた。
朝の風が翼膜を撫でる。
地面を蹴り、身体の中の魔力を巡らせると、大きくなった翼が空気を掴んだ。
身体が浮く。
もう、その感覚に驚くことはなかった。
◇
南へ続く道は、空から見ると地上にいる時よりずっと分かりやすかった。
森の間を縫う細い筋が、山の低い方へ伸びている。
ところどころ木々に隠れるものの、人や荷馬が何度も通った場所は土の色が違う。道の脇に倒木があれば、人間が避けて歩いた跡まで薄く残っていた。
ルーエに近い場所には、俺たちが枝を払い、邪魔な岩を動かしたところもある。
上から見ると、その狭さがよく分かった。
人なら歩ける。
荷馬も通れる。
だが、横幅のあるものを通そうとすれば、木と斜面に挟まれる場所がいくつもある。
少し南へ進んだところで、道を歩く三人組を見つけた。
荷物を背負い、間を空けずに歩いている。
狼型の魔物が出たあとに決めたことを、ちゃんと守っているらしい。
俺の影が道へ落ちると、三人とも足を止めて空を見上げた。
一人が杖のようなものへ手を伸ばしたが、隣の男が何かを言うと手を離した。
俺がルーエにいる竜だと知っているのかもしれない。
問題は起きていない。
高度を落とさず、そのまま南へ進む。
やがて、これまで空から詳しく見たことのない土地へ入った。
山の斜面が少しずつ遠ざかり、森の切れ間が増える。
開けた場所には切り株が並び、その近くには細長い畑も見えた。人間が暮らしている土地だ。
さらに進むと、何軒かの屋根がまとまって現れる。
籠や木の器をルーエへ持ってきた人間たちは、南の小さな集落で暮らしていると言っていた。
おそらく、ここだろう。
正確な人数も、集落の名前も俺は知らない。
俺は家の真上を避け、道の横へ少しずれて飛んだ。
畑にいた男が鍬を止める。
家の前にいた女は、近くの子供を自分の後ろへ寄せた。
俺を見たことのない人間もいるはずだ。
知らない巨大な竜が突然屋根の上を通れば、怖がるのが普通だろう。
だから降りない。
俺が危害を加えないつもりでも、向こうがそれを知っているとは限らない。
集落を越える。
道はまだ南へ続いていた。
翼に疲れはない。
身体の中の魔力にも余裕がある。
飛びながら周囲の魔力が薄く身体へ入ってくる感覚も続いていた。ただし、飛行で消費している分より明らかに少ない。
飛び続ければ、ちゃんと減る。
そのことを確かめながら、さらに先へ進んだ。
細い道が緩やかな斜面を下り、低い尾根の向こうへ消える。
俺は翼を一度強く打ち、高度を上げた。
尾根を越えた瞬間、視界が一気に開けた。
「……おお」
思わず声が出た。
山の間を走っていた細い道とは、まるで違う。
広い道が東西へ伸びている。
人が二人並んで歩いても余裕があり、場所によってはさらに広い。何人もの人間が行き交い、荷を背負った馬も見える。
そして、その中を四つの車輪が動いていた。
馬が引く木製の荷台。
荷車だ。
俺は街道の上空を大きく旋回した。
ルーエへ続く細い道が、確かにここへ繋がっている。
荷車は街道を進み、その横を荷馬が歩く。
だが、あの荷車をルーエまで持っていくのは難しい。
山へ入った途端、道幅が足りなくなる。曲がり角も狭いし、大きな岩が道のすぐ横に残っている場所もあった。
ハインツたちが荷馬を使ってルーエへ来る理由が、今なら分かる。
運びたい物が少ないからではない。
運べる形が限られているのだ。
俺は街道を目で追った。
西へも東へも続いている。
その向こうから来た物や人がここを通り、途中で山道へ入り、ルーエまで上がってくる。
逆にルーエで作った物も、ここまで下ろせれば別の場所へ運べる。
空から見ただけで、人間が道を大事にする理由が少し分かった気がした。
道は、地面にある細長い空き場所ではない。
場所と場所を繋いでいる。
街道のさらに向こうへ目を向けた。
煙が見えた。
一つではない。
何本もの細い煙が、離れた場所から空へ上がっている。
その下に屋根が並んでいた。
ルーエとは数が違う。
ここからでは人間の姿まではほとんど見えないが、建物が一か所へ集まり、その間を道が通っていることは分かる。
村長が言っていた町だろう。
名前は知らない。
どれくらいの人間が暮らしているのかも知らない。
だが、そこにある。
ルーエよりずっと大きな、人間の暮らす場所が。
もう少し近づけば、詳しく見える。
そう考えて南へ身体を向けかけた時、翼の付け根に重さを感じた。
俺はそのまま数回羽ばたき、感覚を確かめる。
痛みではない。
飛べなくなるほどでもない。
身体の中の魔力も残っている。
それでも、出発した時と同じではなかった。
ここまで来るために、ちゃんと使っている。
町までの距離は、見た目だけでは分からない。
近づけば、その分だけ帰り道が伸びる。
俺は南へ向けかけた身体を戻した。
今日は街道まで。
出る前に自分で決めた。
昨日、魔術の練習を途中で止めた時と同じだ。
できそうだから続ける、では危ない。
戻れるうちに戻る。
俺は町の煙をもう一度だけ見てから、ルーエの方角へ翼を向けた。
◇
帰りは、行きより少し高度を抑えた。
山肌に沿って流れる風を受けられるところでは翼を広げ、無駄に羽ばたかない。
行きに見た小さな集落が再び近づいてくる。
今度は、俺を指差している人間が何人もいた。
畑にいた男は手を額へかざし、こちらを見上げている。
子供が二人、家の横から出てきた。
さっき女の後ろへ隠れた子もいる。
俺が襲ってこないと分かったからなのか、今度は逃げなかった。
だからといって、降りる必要はない。
俺は高度を保ったまま通り過ぎた。
その先で、行きに見た三人組とすれ違う。
もうルーエからかなり離れていた。
俺が上を通ると、一人が腕を上げた。
何の意味かは分かる。
俺も頭を少し下げ、そのまま飛んだ。
山へ入るころには、翼の付け根の重さがはっきりしてきた。
まだ飛べる。
魔力も残っている。
だが、今ここから同じ距離をもう一度進めと言われたら断る。
それくらいの疲れだった。
見慣れた山の形が現れる。
森の切れ間。
畑。
その奥に、ルーエの柵が見えた。
胸の奥から力が抜ける。
思った以上に安心した。
着地に使っている場所へ向かい、少しずつ高度を落とす。
翼を広げて速度を殺し、前脚から地面へついた。
続いて後脚。
土が浅く沈み、乾いた匂いが舞い上がる。
翼を畳んだ途端、空では感じにくかった身体の重さが一気に戻ってきた。
「ヴァル!」
リナが柵の方から走ってくる。
その後ろにはダリオもいた。
「おかえり!」
「……ただいま」
口から自然に出た。
自分でも少し驚いた。
リナは俺の顔を見上げ、それから左右の翼へ目を向ける。
「疲れた?」
「……すこし」
「痛いところは?」
「……ない」
それを聞いて、リナの肩から力が抜けた。
ダリオが俺の横へ回り、翼の付け根を目で確認する。
「どこまで行った?」
「……かいどう」
「街道まで出たのか」
少し驚いた顔になった。
「思ったより飛べるな」
「でも、疲れてるよ」
「だから帰ってきたんだろ」
ダリオは俺を見る。
「町まで行ったか?」
俺が答える前に、村長も柵の方から歩いてきた。
「それは俺も聞きたい」
「……いかない」
「見えたのか?」
「……みえた」
リナがすぐ近くまで寄ってくる。
「町、どんなところだった?」
俺は少し考えた。
ここから見たわけではない。
遠くからだ。
分からないものまで知ったように話す必要はない。
「……いえ、いっぱい。けむりも、いっぱい」
「やっぱり大きいんだ」
「ルーエよりはずっと大きい」
村長が代わりに答えた。
「人も物も、ここより多い。あっちじゃ荷車だって珍しくない」
「……みた」
「荷車を?」
「ああ」
俺は南の道を見る。
「……ここ、こない」
「道が狭いからな」
ダリオが答えた。
俺は頷く。
「……いわ。き。せまい」
「上から見ると分かりやすかったか」
「ああ」
村長が少し考え、俺と同じように南の道へ目を向けた。
「荷車が上がれれば、運べる量は増えるんだがな」
その言葉に俺は反応した。
増える。
確かにそうだ。
街道で見た荷車には、荷馬一頭の背へ載せるより多くの物が積まれていた。
だが、道を広げれば済む話なのか。
山の斜面を削る必要がある。
木も切る。
曲がり角も直さなければならない。
今の俺なら、大きな岩を動かすくらいはできるかもしれない。
それでも、道全部を一頭で作れるとは思わない。
村長は俺の顔を見て、鼻で笑った。
「今すぐどうにかしようって顔をするな」
「……してない」
「してる」
ダリオまで笑う。
「まず休め。道は逃げないし、町も逃げない」
さっきも似たようなことを聞いた気がする。
だが、その通りだ。
「明日も行く?」
リナが尋ねる。
俺は首を横へ振った。
「……いかない」
「疲れたから?」
「……それも。からだ、みる」
リナが首を傾げたが、ダリオはすぐ分かったらしい。
「今日飛んだ疲れが、明日どれくらい残るか確かめたいのか?」
「ああ」
「それなら休んだ方がいいな。朝になって翼が上がらなかったら、今日の距離はまだ遠すぎるってことだ」
そういうことだ。
一度できたから、安全に繰り返せるとは限らない。
魔術と同じだ。
俺はできることが増えている。
だからこそ、できた直後に次へ進むのではなく、どこまでなら同じことを繰り返せるのか知っておきたい。
俺がその場へ身体を伏せると、腹の奥が鳴った。
リナがこちらを見る。
「ごはん、持ってこようか?」
「……たべる」
「分かった。ちょっと待ってて」
リナが村へ走っていく。
俺は前脚へ顎を乗せた。
身体を休めると、周囲に薄く広がる魔力がゆっくり入ってくる。
だが、腹は減っている。
周囲の魔力を取り込めるようになっても、食べなくていい身体になったわけではないらしい。
それも今日分かったことの一つだ。
◇
夕方には、翼の重さが少し抜けていた。
俺は柵の近くに伏せたまま、南へ続く道を見ていた。
ここからでは街道も町も見えない。
山に隠れている。
昨日までなら、その先に何があるのかも知らなかった。
今は違う。
細い山道を下れば、小さな集落がある。
その先で広い街道へ出る。
街道には荷車が走り、人と荷物が行き交っている。
さらに向こうには、ルーエよりずっと多くの屋根が集まった町がある。
俺はルーエを守っている。
それは変わらない。
だが、ルーエだけで人間の暮らしが終わっているわけではなかった。
黒パンも、塩も、鉄も、布も、ここで全部作っているわけではない。
外から人が来る。
物が来る。
村から外へ持っていく物もある。
その全部が、あの細い道一本を通っている。
空から見たことで、ようやく形として分かった。
「ヴァル?」
声に顔を上げると、リナがいた。
手には俺の分の肉が入った木皿を持っている。
「まだ南を見てたの?」
「……みち」
「道?」
俺は南を前脚で示した。
「……せまい」
リナも道を見る。
「狭いね」
「……にもつ、すくない」
「ああ、荷車のこと考えてる?」
頷く。
リナは少し考えたあと、俺の前へ木皿を置いた。
「でも、今日は食べる方が先」
反論はない。
「……たべる」
「そうして」
肉を口へ運びながら、俺はもう一度だけ南を見る。
町まで飛ぶのは、まだ先でいい。
その前に、自分がどれだけ飛べるのかを知る。
それから、ルーエと街道の間に何があるのかも、もう少し見ておきたい。
遠くへ行けるようになったからといって、遠くへ行くこと自体が目的ではない。
今日見つけたのは、新しい町ではなかった。
ルーエが、どこへ繋がっているのかだった。




